第12話 入れ替えテストの実施

 GWの前半は勉強三昧のなぎさだったが、それは結局、タスクがずっとその間も仕事という点が大きかった。後半はタスクが遊びに連れて行ってくれるのを密かに期待していたのだが、その気配はなかった。 


 その代わり、タスクは休みの日に直々に日本史通史をやってくれた。


「わかりやすかった」


「なぎさちゃんはさ、こうして僕が直接教えてあげられるんだから、無理して予備校の試験対策なんてしなくてもいいんじゃないかな。前に言っていた、可能性を広げるための勉強じゃ、絶対にないよね」


 タスクは心配そうな顔をしていた。


 それは、自分でも分かる。この休みの間中、ずっと根を詰めて勉強していたからだ。タスクも毎日授業があるが、自由時間も多い。その間、自分の研究ができるのがいいらしい。働き方としては面白いかもしれない。


 そんな社会人1年生の彼が心配する高校生ってどうだろう。


「でも、やっぱり、タスクくんの特別授業を受けたいわけじゃなくて、誰かがタスクくんと一緒に過ごす時間が存在すること自体がイヤだから頑張っているんだ」


「――それで、自分だけに優しくして欲しいなんて――言っていたんだ」


「鈍過ぎるな、タスクくんは」


 なぎさは座卓の向こう側のタスクを見つめる。すぐ近くにいるのに、なぎさは彼を遠く感じる。タスクは目をそらし、露骨に大きなため息をついた。


「春日さんのときだって何もなかったでしょう」


「それでもイヤなものはイヤなの。初恋の人が他の女の子と歩いているところなんて想像するだけでもイヤなの。偶然、雛姫さんとは友だちになって同行できて、通して様子を見ていられたから、まだ少し安心できたけど、他の知らない人だったら……」


「そんなに思いつめないで」


「――」


 そんなことは理性では分かっている。しかし優しくしてくれた初恋のタスクが、自分が高2になった今、一緒に住むようになり、一番身近な男性になった。その反動がこれだ。


 乗り越えられるものなら乗り越えたいと思って何が悪いのだろう。


「それでも私は、がんばる」


 そしてなぎさは勉強道具を片付け、自分の部屋に引っ込んだ。




 入れ替えテストの朝、タスクも監督官としての仕事があるため、なぎさと同じ時間にダイニングキッチンのカウンターの席についた。


 珍しく朝食を作ってくれたなぎさの母が、タスクに言った。


「どうしたの? ケンカでもした?」


「ケンカはしてない。私が意地になっているだけ」


「意地を張られてしまいました」


「そういうときは負けた方がいいのよ、負けた方が」


 母が何を言わんとしているのか、なぎさは分かりたくなかった。


 支度をし、タスクよりも早く家を出る。意地を張ってしまっている自分はかわいいはずがないと思う。こんな自分でも彼は同じようにかわいいと思ってくれているだろうかと電車の中でスマホの待ち受け画面を見る。


 大学入学を控えた彼と小6の自分の笑顔を見ると胸が苦しくなった。


 朝の自習室ですみれと雛姫と会ったものの、入れ替え試験の教室は別々で、その後は会うことはなかった。


 試験は無事終わり、自分的には今までになく出来たとなぎさは思えた。それはこの1ヶ月、しっかり復習に取り組めた成果だと思う。その点は試験の結果がどうなろうとも、良かったことだと受け止めたかった。


 そして帰りの電車の中ですみれと雛姫の2人とはメッセージでやりとりをした。2人とも手応えがあったようで、そうなると雛姫を超えることはできないに違いないと漠然とした不安がなぎさを襲った。しかし雛姫であればまだ許せる自分がいて、少し安心した。


 気が狂いそうだな、と思う。


 すぐ近くにタスクがいて、タスクも自分のことを大切にして思ってくれているのに、自分はバカだなとなぎさは思う。


 しかしそれが恋なのだろう、と己を許し、同時にその愚かさに呆れた。


 帰宅して、誰もいないリビングで座椅子を平たくして寝る。


 身体のあちこちが痛い。勉強のしすぎでギシギシしていたが、もう血行が悪くなりすぎているのだろう。自分でマッサージすれば少しは楽になるのだろうかと思うが、その気力がなかった。


 買い物から帰ってきた母が死んだように眠っているなぎさを見つけ、声をかける。


「試験どうだったの?」


 その声がなぎさの意識を取り戻させた。いつの間にか寝ていたのだと気づき、身体が更にこわばっていることに気づく。やはり寝るならベッドで寝ないとよくない。


「自分ではできたと思うけれど」


「それならよかったじゃない」


 なぎさをねぎらい、なぎさの母はキッチンに立つ。


 タブレットに通知があり、なぎさは専用アプリを開け、成績を確認する。


 日本史は20位。そして英語がギリギリ、ライブ授業に滑り込みセーフの40位になっていた。大躍進である。


 しかしなぎさの心に喜びの感情は生まれなかった。


 タブレットをスリープさせ、座椅子にうつ伏せになって脱力する。


「ダメだったとしても、また次があるじゃない?」


 母がカップを座卓の上に置いた音がした。


 甘い、ミルクと卵の香りがしていた。


 その匂いに懐かしい記憶が呼び覚まされ、温かな感情も一緒に蘇る。


「おお、ホットミルクセーキだ」


 なぎさは起き上がり、カップの中の白い泡だった懐かしの味を見つめる。


「まあ、たまにはね」


「昔、風邪引いたとき、作ってくれたよね」


「そんな昔じゃないよ。小学生の頃のことでしょ?」


 なぎさの母は口をへの字にした。


「私には昔だよ」


「いつの間にか大きくなっちゃって」


 ふふ、となぎさの母は笑った。


 母の心遣いが嬉しかった。


 スマホを確認するとすみれと雛姫から連絡が来ていた。2人とも成績が上がったということだった。雛姫が上がるというのはまだまだ先が長いと言うことだ。もう、憂鬱を通り越して虚無になりそうだったが、ホットミルクセーキのお陰で脳に糖分がいっていたからだろう、なぎさは元気を取り戻せた気がしていた。


 しばらくして試験の採点を終えて、疲労困憊したタスクが帰宅した。


 その頃には遅めの夕食の支度ができており、今夜は珍しく3人での夕食となる。


「おかえり」


 タスクと少し険悪な感じになっていた自覚があるから、少しそのイヤな雰囲気を減らしたくてなぎさは玄関まで迎えにいった。


 タスクはなぎさの姿を見て、微笑みを浮かべた。


「ただいま。頑張ったね」


「チェックしてくれたんだ?」


「――うん。あとで渡すものがあるから楽しみにしててね」


 靴を脱ぎ、タスクはなぎさの頭をポンポンと叩いた。


「え?」


 想像していなかった言葉がタスクの口から出て、なぎさは憂鬱だったことも忘れて、そのくれるものが何なのか思いを馳せた。


「大したものじゃないよ。そんなに期待しないでね」


 そんなに自分は物欲しげな顔をしていたのだろうか。なぎさは自分の顔が赤くなるのが分かった。


 タスクはネクタイを緩め、座卓に並んでいる料理を見て、表情を緩めた。


 おなじみの家庭料理の香りがリビングに広がっており、誰にでもすぐに分かる。


「カレーライスですか」


「大したもの作れなくてごめんね」


 なぎさの母が苦笑しつつ、サラダボウルを座卓に置いた。


 3人でカレーライスを食べ、音楽を流し、タスクはお代わりまでした。


 なぎさの母が先に風呂に入り、なぎさが洗い物をする。


 カウンターの椅子に腰掛け、タスクが洗い物を終えたなぎさに声をかけた。


「はい、これあげる」


 タスクがなぎさに手渡したのは何の変哲もない事務封筒だった。


 怪訝に思いつつもなぎさが中を確認するとカラープリンターで印刷したらしきチケットが何枚か入っていた。


「マッサージ券 5min――?」


「休み時間、職場でちょっと作っちゃったんだ。女の子をマッサージするなんてセクハラかなあと思いつつ、足の裏とか肩ならセーフかなあ、とか思いつつ、マッサージする部位はご希望に添いますが」


 タスクは照れて俯いた。


「セクハラ、なんてことはないよ。私がそういう部位を指定しなければいいんだから。ああ、それは私の方がセクハラになるのか」


「セクハラは受け取る方の人間によります」


「じゃあ、私にはご褒美だ」


「肩たたき券の方が誤解がないかなと思ったけど、凝っているところって別に肩だけじゃないじゃない?」


「うん。今は首が痛いかな」


 座椅子で寝てしまったからだ。


「じゃあ、いつでも首のマッサージしてあげる」


「5分って長いよ」


「うーん。ネットで拾ったフォーマットが5分だったからそのままにしたんだよな」


 タスクは苦笑した。


「でもね、なぎさちゃんが頑張ったの、分かるから」


 なぎさは頷いた。


 カウンター越しにタスクの顔を見る。自身のなさげな表情が浮かんでいた。


 自信がないのは自分が1位になろうとやっきになっていたせいだろう。


 本人が目の前にいるのに、女の子1人安心させられないような自分がダメだと考えてしまったのかもしれない。そうだとしたら申し訳なさ過ぎる。


「タスクくんがいてくれて良かった」


 なぎさはカウンターの方に回り込み、タスクの隣に背中を向けて腰掛ける。


「さっそくマッサージ券を1枚使おうかな」


「うん」


 なぎさはタスクの温かい手が触れるとしびれたような甘い感覚が全身に広がっていくのが分かった。そして首筋を優しく揉んで貰うとストレスから解放されて楽になるのが分かった。


「特別授業の権利は勝ち取れなかったけどマッサージ券は私だけのものだ」


「今頃お気づきになりましたか」


「タスクくんがいじめる」


 そしてマッサージ券をタスクに渡そうと封筒の中から券を取り出す。


 マッサージ券5枚と別の種類のチケットが入っていた。


「! こんなの聞いてない!」


「やっと気づいた?」


「いや、絶対わざとだよね。一番下にいれてあったの」


「だって全部デート券だと早合点されても困る」


 最後の1枚はデート券と書かれていた。期限は無期限。贈呈者限定。お休みの日に限るとある。


 今、どんな顔をしているのか見たく思い、振り返ろうとしたがタスクは両手で頭を押さえて、頭皮マッサージを始める。


「わざとでしょう!?」


「今の僕の顔を見られたくない」


「いつ? いつ? いつが休みなの?」


「明日、休みだよ」


「じゃあ、明日だ」


「どこか行きたいところある?」


「どこでもいいよ」


「どこでもいいなら本当に僕は、僕が行きたいところに行くよ」


「ぜんぜんいいよ。だってタスクくんが一緒にいてくれるならそれで十分」


「僕もなぎさちゃんと一緒に行きたいんだ。それでいい?」


「うん!」


 5分のマッサージ券有効時間は終わった。


 嘘のように憂鬱が晴れ、今日の試験のことなどさっぱり忘れてしまうくらいだった。


 明日が楽しみで仕方がない。


 風呂から上がった母がなぎさを呼びに来て、驚いた顔をして言った。


「どうしたの? ――いいことあったんだ?」


「明日、タスクくんとデート!」


「単純ねえ」


 タスクはなぎさの母に照れたような、苦笑しているような複雑な笑みを見せた。

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