第5話 いよいよ新年度開幕です

 久しぶりに見るタスクのスーツ姿はやはり格好良かった。


 新年度の朝、なぎさは洗面所で眼福の意味を深く味わっていた。


「何してるの?」


 鏡越しになぎさの視線に気がついたのか、タスクが振り返る。


「拝んでいます。神様ありがとうございます。今日もタスクくんは格好いいです」


 なぎさは両手を合わせて神様に感謝の意を伝えた。


 するとタスクも両手を合わせて目を閉じた。


「何してるの?」


 同じ台詞でなぎさが聞き返し、タスクは目を開けた。


「こちらこそ、かわいいパジャマ姿ごちそうさまです」


 なぎさは頭に血が上るのが分かり、壁に手をついて俯いた。


「――タスクくんが家にいたら低血圧とは無縁だわ」


 鼻血が出そうだ。タスクは微笑んだ。


「それは良かった」


 顔を上げ、タスクを改めて見るとネクタイの結び方が少し変だった。


「ネクタイ、直してあげる」


 タスクは意外そうな顔をした後、素直になぎさにネクタイを直される。


「ありがとう」


「自分の側から見ないと反対の動きになるから難しいね」


「なんか定番の恋人ムーブだ」


 そしてまた頭に血が上り、なぎさは壁に手をついて俯いた。


「大丈夫? なんかごめん」


「……いえ、ご褒美ですから」


 ご褒美の反動にはひたすら耐えるしかない、となぎさは思う。


 今日が2人とも入校日だが、新人のタスクにも授業がある。研修を兼ねてヘッドセットをつけて、監督の指導指示のもと授業を行うのだ。新人であることは授業の募集時に公表されているので生徒は納得済みという建前だ。


 タスクはなぎさより30分以上早く家を出て、出勤していった。なぎさも制服に着替え、アルフヘイムに向かう。新年度とはいっても学校とは違うので、そのときの独特の雰囲気はない。しかし勝手が分からない生徒がいる様子は窺えた。体験入校だけのなぎさもその勝手が分からない生徒の1人だが、自習室にはたどり着いた。なぎさはほとんどの教科でオンライン受講を希望しているので、ここがメインの居場所になる。タスクの授業はともかく、今はオンラインだが英語と数学の2教科だけは成績次第でライブ授業が受けられるようにした。2教科ともタスクの先輩のミカエルと光一郎の授業だったからだ。なお、オンライン授業だけの選択だと安く済むので、これは母との相談の結果である。


「お~ なぎさじゃん? 予備校決めたんだ?」


 声をかけられて振り返るとクラスメイトの東堂とうどうすみれがいた。進学校のなぎさの学校で、成績はほどほどの割と優秀な生徒だ。普段はロングの髪を、今日はポニーテールにしている。


「すみれちゃんは前から?」


「うん。いいよね、ここ。低空飛行のなぎさもここなら成績上がるよ。何より推しの先生だとやる気が出る」


「低空飛行は大きなお世話だけど、わかるわ~ 今まで体験入校しかしてないけど。すみれちゃんの推しはどの先生なの?」


「光一郎先生!」


「見るからに頼りになりそうだからね~」


「今年こそ個人特別授業の権利をとってみせるわ!」


 すみれは拳を固めて天井、いや、天を見上げた。


 そしてすみれは隣の席に座り、並んでオンライン受講に備えた。


 9時に短期の春期講習が始まり、なぎさはタブレットの画面に集中して受講する。


 最初の現国の授業の先生もイケメンだったが、身内びいきと分かりながら、タスクほどではないなあと心の中で言葉にする。しかし授業はすさまじくわかりやすかった。分かった気にさせられているのではと心配になるくらいだ。


 古文、物理、生物と続き、ランチタイムになる。


「いや~今までお昼、1人だったから嬉しいわ~」


 すみれとは高校でもお昼休みに机を囲む間柄である。


「私こそ安心だよ」


「なぎさ、かわいい」


「すみれちゃんもいつも通り美人」


 2人して、えへへへと意味不明の照れ笑いをする。


 お昼が終わると数学で、すみれは光一郎の数学の授業のライブ授業の権利を得ていた。どうもスポットで今日はこっちに来ているらしい。


「じゃあ、行ってくるね~」


 すみれは光一郎の授業がある教室に笑顔で移動していった。推しの授業はさぞかし楽しいだろうと思う。自分がタスクの授業を受けるのとは少し違う気がする。自分は昔からタスクのことを知っていて、たぶん、今も好きで、誰か他の子がデートをする権利を手にするのを許しがたくて、受講している。動機が不純とまでは言わないだろうが、正当ではない。それでも成績が上がればいいに決まっている。


 光一郎の授業が始まり、なぎさはオンラインで受講する。1年生の範囲の振り返りだったが、光一郎の授業は暗記する部分と考え方と応用のテクニックをしっかり区別して教えてくれるので、数学が苦手ななぎさでもなんとかついていけた。というか、今まで苦手だった部分を克服できる気がする。これは良かった。


 そして次はいよいよタスクのライブ授業だ。


 すみれと入れ替わりで自習室を出る。出入り口ですみれと会話を交わす。


「お、もしかして新人の日本史?」


「うん」


「穏やかそうなイケメンでいいよね。若くてかわいい」


「でしょでしょ?」


「ん?」


 単に推し以上の何かがあるのではと違和感を感じとられたのだろうか。なんとか誤魔化さなければならない。


「――唯一、ライブ授業に滑り込めたので」


「勉強がんばれ、なぎさ!」


 すみれは力強くなぎさの背中を叩き、気合いを入れてくれた。


「ありがとー」


 逃げるようにしてなぎさは教室に向かう。


 教室には40人ぴったり入室しており、なぎさの席は後ろの1番端だ。


 1番前の真ん中が1番、成績がいい生徒の席だ。つまり目下のライバル、月に1度権利が得られるという個人特別授業の最有力候補になる。


 背が高いなぎさは背伸びすることなくその席に座っている子を偵察できる。


 制服は湾岸の方にある比較的新しい私立の超難関校のものだ。トップを張るわけだと思う。長い黒髪がつややかできれいな子だ。少し振り返ったので顔も変わった。


 切れ長の目の超絶美人だった。


 なぜ天は二物を与え給うた――なぎさは心の中だけで天を仰ぎ、力なく席に着いた。


 なぎさは呆然と時間が過ぎるのを待つしかなかった。


 そして開始時間の数秒前、講師用の扉からタスクが姿を現し、なぎさの心臓の鼓動が激しく高鳴った。


 いつも格好いいが、おそらく校内にいるスタイリストさんに手入れして貰ったタスクはスーツ姿もびしっと決まりつつ、奇跡的に新人らしい初々しさも兼ね備え、更に格好良さが増していた。今までタスクをネット上の顔写真でしか見たことがなかった女子たちはキャーと嬉しい悲鳴を上げ、それが終わることはない。


「分かる~」


 思わずなぎさもそう口にしてしまうほどだ。


「この春からの新人です。日本史講師になりました。山峯タスクです!」


 ピンマイク越しにタスクが挨拶するとスピーカーから彼の声が流れ、更に生徒たちの嬌声が大きくなった。


「格好いい、マジで格好いい!」


「かわいい。すっごいかわいい」


「新卒オーラすごーい」


「細い~ 色白い~」


 タスクは照れて俯き、頬を掻く。


「かわいい~」


「照れてる~」


「こっち向いて~」


 タスクは照れながらも顔を上げ、こっち向いてと言った生徒に向けて小さく手を振る。


 そしてまた大歓声が起き、こっちこっち、の大合唱になる。


 それでもタスクは教室内全てに目を向け、なぎさと目が合うと視線を固定した。


「みなさんありがとうございます。僕、がんばりますのでみなさんも授業に打ち込んでくださいね」


 タスクが自分に向けてそう言ってくれたのが分かり、胸が熱くなる。


「『ボク』だって~~」


「萌える~」


「日本史大好きになった~!」


 ライバルが一瞬にして増大してしまったことが分かり、なぎさは唸るほかない。しかし彼女たちを勉強でねじ伏せることでしかタスクを守れない。


 がんばるぞ! となぎさは気合いを入れる。


 そのタイミングでタスクはヘッドセットに耳を傾け、監督の指示を聞き、言った。


「じゃあ、ご挨拶はここまで。授業を始めます」


 すると教室内がしーんとなり、生徒たちが授業を受ける態勢が整う。この辺りは生徒たちもアルフヘイムのシステムをよく分かっている。


「では、始めます。じゃあ、早速、配信した資料を見てくれるかな?」


 タスクの初授業を生で受けられる喜びを覚えながら、なぎさはタブレットをクリックしたのだった。




 1日の授業が終わって帰宅したなぎさは、例によってリビングの家具調コタツで死んでいた。さすがにもうこたつ布団は仕舞われ、今の暖房はホットカーペットだけになっている。ホットカーペットの暖かさが凶暴な睡魔に力を貸していたため、なぎさはもはや落ちる寸前だった。しかし落ちてはいけない。今日の復習が待っているのだ。


 けど20分だけ――とスマホにタイマーを入れて、制服のままなのにうつ伏せになって寝落ちする。


 闇の中に落ち、しばらくするとなぎさを呼ぶ声がした。


「なぎさちゃん、スマホのアラームが鳴ってるよ」


 タスクの声だとわかり、なぎさはガバッと起き上がる。


「た、タスクくん!」


 タスクはしゃがみこみ、授業中と同じ格好良さでなぎさの顔の目前にまで顔を近づけた。整った顔が至近距離にあるとその破壊力はただならぬものがあり、睡魔は一瞬で撃退された。


「大丈夫? 疲れたんじゃない?」


「もう回復した。若いからね」


「確かに高校生の若さはもう僕にはないな」


 タスクは立ち上がり、キッチンに向かった。彼も初出勤で疲れているはずだが、なぎさに気を遣って声をかけた。


「お茶飲む?」


「うん」


 タスクの笑顔が嬉しい。


 ケトルでお湯を沸かす間にタスクはオーディオシステムでCDを聞く。父のコレクションの一つ、JAZZの名盤、ジョン・コルトレーンの『至上の愛』だ。


 タスクは緑茶のティーバッグでお茶を入れ、家具調コタツ -もう今は座卓の上に湯飲みを置く。自分の分もいれていて、タスクはあぐらをかいてお茶をすする。


「僕の授業、どうだった? 素直な感想が聞きたい」


「日本を東アジア全体の一部とした上で、世界レベルの気候変動と天変地異を説明して、1万年間の解説をするのは斬新だった。何よりまず日本史に必要な視点が分かったのがいい。頭に入る」


「監督の方針だし、テキストも監督が作っているから、それはそう。監督に伝えておくよ。きっと喜ぶね」


「あ、従姉妹が通っているって知っているんだ?」


「隠し事するようなことじゃないでしょ?」


「それはそうだ。タスクくんはね、初々しくてよかった」


「新人だから」


「でも堂々としてたよ」


「良かった。自信なくってドキドキだったんだ」


「それでもあれだけできたならまず合格だと思うよ」


「でも新人ムーブで生徒の心を掴むのも限界があるから、考える」


 タスクはプロ講師の顔だ。望んで得た仕事ではなくても全力を尽くす姿が見られるのはタスクが真面目な証拠だ。


「けど、まあ、今どきかもしれないけど、新人の歓迎会とかないの?」


「オフィシャルはさすがにないけど内輪だけの歓迎会ならやるよ」


「へ~え いつ? 誰と?」


「今晩、光一郎さんがこっちの授業だったから急に決まったんだ。あと、ミカエル先輩」


「おお。それはすごいね」


 美形が3人集まればさぞ眼福であろう。タスクはまた茶をすすった。


「これからここに来るよ」


「え! 家呑み?!!」


「僕はともかく、ミカエル先輩と光一郎先輩は相当派手だからね。外では目立ってなかなか呑めないよ。あ、お母さんの許可は貰ったよ。お母さん、残業で遅くなるって」


 いやいやそうじゃない。


「私の許可は????」


「今、とる。いい……よね?」


 少し首を傾け、タスクは不安そうになぎさに聞く。そんな仕草をされてダメと言えるはずはないし、他の2人の講師と会える機会をむざむざ逃すこともない。でも。


「そんなの聞いてな~い~~!!」


 なぎさは一目散に自分の部屋に駆け込み、着替える服を選び始めたのだった。

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