第4話 運命の入校テスト
なぎさは古い日本家屋の縁側で寝転んで、段になったスタンドの上にガーデニングの鉢がきっちりと並び、色とりどりの夏の花を咲かせているのを眺めていた。
これは夢だ。
過ぎ去ったあの夏。タスクと過ごした一夏。恋を知った夏だ。
奥の和室の座卓ではタスクが懸命に勉強している。夢の中では小太りの冴えないタスクのままだ。このときは分からなかったが、その後、彼は西日本で有数の難関大学に合格するのだ。高校2年生のときから勉強しているのが当然だっただろう。
そんな彼が、遊びたい盛りの小4の自分の面倒をみていたのだ。叔母の大病でやむなく預かっている従姉妹とはいえ、いろいろ思うところはあっただろう。負担だっただろう。そう考えると申し訳なくなる。
青い空にかかる夏の雲が太陽を隠していた。
そのうち雲は風に流されて、太陽が顔を覗かせ、日差しが強く庭に降り注ぐ。
自分は縁側から飛び降りるようにしてサンダルを履き、ホースを伸ばして水を蒔く。あの頃の自分はヘッドをシャワーにして虹を作るのが大好きだった。そう思い出すと夢の中でも虹を作り出し始める。
太陽は天頂近くにあったので、自分も濡れる。
そういえばこんなこともあったっけ。
冷たくないのが、夢だなあと思う。
そして縁側にタスクが姿を見せ、声をかける。
「もう~~またびっしょりだよ」
「夏だからすぐ乾くよ!」
タスクが縁側から庭に降りてくると自分はタスクにシャワーをかけた。
ううう――こんなこともあったっけ。
夢の中なのになぎさは嘆く。
いつの間にか、タスクは今のタスクになっており、Tシャツが濡れ透けになっていた。意外と厚い胸板が分かる。セクシーだ。見たことがないのになんでこんな夢を見るのか不思議だ。
タスクが幼いなぎさに言う。
「なぎさちゃん、透けちゃっているよ」
それはそうかと今のなぎさは思い、自分のTシャツを見ると無駄に育った胸があった。そして小4はノーブラなので、透けていて――
「――――!!!」
なぎさは声にならない声を上げ、目を覚ました。
こんな夢を見るのも勉強しすぎのせいだろう。なぎさは電気を点けて、散らかった座卓の上を見る。昨夜、力尽きて片付けることすら出来なかった。
特に趣味がないなぎさの部屋は殺風景だ。女の子らしいものは何もない。しかしそれでいいと今は思う。タスクくんがいてくれさえすれば、いい。
夢の内容を思い出し、半ば寝ぼけつつ、洗面所に行く。先客がいた。タスクだった。
「おはよう」
起き抜けのパジャマ姿も眼福だ。起きたばかりの歯磨き中だった。
「タスクくん、おはよう」
もう一緒に住んでいるのだから部屋着で焦ることもない。むしろ気を許すことで緊張を解き、早く我が家に慣れて欲しいと思う。
タスクは歯磨きを終え、うがいをした後、なぎさに声をかける。
「今日は試験の日だね」
「ウルトラ頑張った。こんなに勉強したのは高校受験のとき以来だ」
「僕の講義を受けられるように頑張ってね」
「もちろん!」
アルフヘイムの場合、入校時の試験で受講可能な授業が決まる。その上、その講師を希望する生徒が多くて、教室に入りきらない場合、次の試験でいい結果が出るまでオンライン受講になってしまうというルールだ。お目当ての講師の授業をライブで受けたければ、必死に勉強するしかない。
そういうシステムだと知ってようやく、授業後の質問タイムがオンラインの理由に合点がいった。ライブとオンラインで質問にも差をつけるのは問題がある。また、他校の講師の授業をオンラインで受講する地方の生徒もいるのも大きな理由だろう。
なお、地方にある小さなサテライト分校では全部オンライン授業のため、1日個人授業のライバルは地方にも多くいる。むしろ地方の方がライブで講師に会えない分、意欲が強いはずだ。手強いかもしれない。
今日は3月31日。来年度の入校試験の日。そしてタスクにとってはアルバイト最後の日になる。一緒に登校できるのは今日で最後かと思うと少し悲しい。
気合いを入れて制服に着替え、タスクと一緒に外に出る。外はまだ肌寒いくらいの時間だ。試験は8時半からだが、早く行って備える予定だった。
「戦闘開始だ」
「なんのこと?」
タスクは首を傾げる。
「タスクくんの授業を受けられるよういい成績を取らないと」
「僕みたいな新人に生徒が来てくれるはずないよ。ああ、生徒がなぎさちゃんだけだったらどうしよう」
「それは私にとっては夢のようだけど、絶対にそんなことないから」
なぎさは拳を握りしめる。
アルフヘイムの授業は全てが美男美女によって構築されているわけではない。他の予備校に引き抜かれなかった旧大手予備校時代の優秀な講師陣が授業をする講師を監督し、全面的にバックアップしている。旧大手予備校時代のノウハウが完全に引き継がれているのである。故に美男美女の講師陣であっても超一流の授業が可能となっていた。
講師は授業方針や内容の大部分を監督に任せ、その分、どのように生徒に伝えるのか、分かって貰えるのか、やる気を出して貰えるのかという演出を必要とする部分に焦点を当てて力を入れられる。裏方の監督を置くことで1人で実施する授業の2倍以上の労力を注ぐことができているのがアルフヘイムの強みだった。
だから新人のタスクも授業そのものは、監督の指示で難なくこなせるという話だ。しかしどう生徒の心を掴み、よりやる気を引き出せるかは自分の今の力、そして今後の成長次第だともタスクは前に言っていた。
アルフヘイムの玄関が開くのが7時半。最寄り駅では予定通りの電車に乗れた。下り列車なので車内は空いている。
「タスクくん」
開かない方の扉の前に2人で立ち、目の前にいるタスクになぎさは呼びかける。
「どうしたの? 緊張してるの?」
「うん。だけど、がんばるから」
「じゃあ、無事、僕の授業が選択できるような成績だったら僕がご褒美を上げる」
「ホント? どんな?」
タスクは背をかがめ、なぎさの耳元で囁いた。
「――ナイショ」
内緒なら囁く意味がないのに、もうそれだけでなぎさの血圧は急上昇してしまう。
「――私、低血圧だからアドレナリンで血圧が上がって力が湧いてくる」
「あはは。それは考えもしない効果だった」
タスクが朗らかな笑顔を見せてくれて、また元気を貰えた気がしたなぎさだった。
電車を降りて、ホームで別れる。少し遅れてなぎさはアルフヘイムの前に着く。玄関前にはもう何人か並んでいたが、すぐに扉が開いて、なぎさは自分の試験番号の席に着く。
あとはゆっくり落ち着いて、高校1年生の勉強範囲を振り返るだけだ。
実力を出せればタスクくんの授業を受けられる成績をとれるはず。
そう自分に言い聞かせ、試験の開始時間を待つ。
そしてすぐに時間になり、なぎさは問題用紙に向き合った。
無事、試験が終わってなぎさは1人で帰宅し、リビングのこたつで放心していた。
タスクは試験の筆記部分の採点のため、アルフヘイムに残っている。
夕食の時間の前にタブレットに今回の試験の成績が配信され、なぎさは恐る恐るそのデータにタッチする。成績は悪くない。上位の方だ。それは自己採点で分かっていた。問題はタスクの授業を選択できるかだ。そして適うならばライブ授業を受けられるくらいの成績かどうかだった。
なぎさは受講可能な授業を一覧表示から探す。タスクの授業を探す途中でタスクの先輩であるミカエルと光一郎の授業を見つけた。受講可能だがオンラインだった。人気が高いため、早々に埋まってしまったのだ。オンラインでもたぶん、選択するだろうとなぎさは考える。
そしてタスクの受け持つ日本史の授業を見つけ、無事、ライブ受講が可能で、なぎさはその授業を選択する。あとは自分よりも上の成績の生徒が希望するかどうかで、最終的な当落が決まる。座して待つのみだ。
締め切りの午後8時まではまだだいぶ時間があった。
こたつの中でごろごろして待つ。
母が仕事から帰ってきて、なぎさをどやしつけた。
「コタツで死んでて、タスクくんが帰ってきたとき、そんな姿を見せるの? ダメでしょ?」
「御意」
母の言うとおりだ。なぎさが洗面所で髪型を直していると、タスクが戻ってきた。
なぎさが玄関まで駆けていくとタスクが笑顔でお祝いしてくれた。
「成績、良かったね。僕の授業を選択してくれてありがとう」
「やっぱり講師はデータを見られるんだ?」
「それはそうだよ」
「でも、ライブで受けられるかな?」
「大丈夫だよ。きっと。新人の授業なんてそんなに集まらないよ」
「そんなはず、ないから」
なぎさは不安を顔に出してしまう。
「そうだった。ご褒美、何にするか決めたよ」
「なんだ。だからナイショって言ったのは誤魔化しただけだったんだね」
タスクは答える代わりに、なぎさの頭をポンポンと叩いた。
「お疲れ様でした、なぎさちゃん」
頭をポンポンされたなぎさは心拍数が急に倍くらいになってしまう。まるで長距離走でスパートを掛けたくらいの心拍数になっている。
「――? これじゃご褒美にならない?」
なぎさはブンブンと音がするくらい大きく首を横に振った。
「超、最高のご褒美!」
「それは良かった」
タスクは笑顔になった。それも極上のご褒美だ。
母が作ってくれた夕ご飯を食べた後、2人一緒にタブレットを見つめながら締め切り時間の午後8時のカウントダウンをする。成績が足りず、最終的に枠から出てライブ受講ができなくなった場合、他の授業に変える二次募集があるがそれは時間制限ありの早い者勝ちになるため、最後まで気を抜けない。
午後8時を迎えた時点でもう、タスクの授業を希望する生徒は45人と教室の定員40人をオーバーしていた。なぎさはがんばったものの、タスクの授業科目内でのランキングは37位だった。とりあえず第一段階はクリアした。あとは二次募集でどれだけなぎさより成績がいい生徒が希望するかだ。そして制限時間内に順位が徐々に下がっていき、ついに40位になってしまった。もうなぎさは祈るしかない。
「お願い、誰ももう来ないで!」
「うーん本人的には複雑だけど僕もそう祈る」
二次募集の制限時間内に20人以上もの生徒がタスクの授業を希望し、締め切られた。
なぎさは無事、40位をキープし、1ヶ月間はライブ受講可能となった。
「やった~~!」
喜ぶなぎさを見て、タスクはくすくす笑う。
「考えてみるとさ、僕、ここにいるんだけど、それじゃ足りない?」
「タスクくんの個人授業を他の子が受けるなんて考えたくない。絶対に阻止してみせる」
「それは心強いね」
「日本史だけ、超がんばればいいんでしょ?」
タスクは少し残念そうな顔をして言った。
「えーっと、申し訳ないけど、他の科目で平均点を取れないとペナルティがあるし、他の科目でもいい点をとるとボーナスポイントがつくシステムだから、全教科がんばってね」
なるほど。そういうシステムで全科目で学力の底上げを狙っているのか。
いやいや、感心している場合でない。それはこれから受験勉強が終わるまでノンストップの勉強地獄、いや、勉強天国と勉強地獄が始まることを意味する。
「――そんなの聞いてな~い!」
なぎさが心の叫びを言葉にすると、タスクはまたも苦笑したのだった。
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