兎の担架兵(10)
自分たちの姿を隠してくれていた森林は既に終わりを迎えていた。再び何もない平原を走る自分たちに対し、ヘリが取った位置は真後ろであった。低空飛行のままこちらの軌道をなぞるように後方50メートルを飛行している。右に避けようと左に避けようと確実に射線を追従させられるポジションだ。
奥歯を噛む。部下二人の存在を切り捨てても、生き残る可能性はどれだけ上がったというのだろう。最悪の場合、マリアも含めて全員がやられてしまう。
所詮、一兵卒がどれほどの工夫、覚悟、死力、そして慈悲無き決断を、深甚な苦痛と苦悩の果てになそうと、戦争という無尽の死を積み上げる機構の前には何もかも無意味であるというのか。
だが、その思いを否定するようにマリアが言葉を告げた。
「お前は必ず生かして返す。もはやその後のことだけを覚悟しておけ」
強風の中らも響いてくる、柔らかくも力強い声であった。
ヘリが機関砲を撃つ。照準は完全にこちらの軌道を捉えていた。軌跡をなぞるように、十数メートル後ろで生じる着弾痕が確実に近づいてくる。
マリアは左へ軌道を変えた。だが予定通りであるかのごとく射線は追ってくる。
次の瞬間だった。
「――!?」
視界がずれる。速過ぎる物体を認知できないように自分の視界全体が動態認識から外れた。
その現象は一瞬。
元に戻った時、ヘリは自分たちの後ろにはいなかった。
マリアは、右へ平行に直線の軌道をずらしていた。それも射撃範囲に収まるか、照準に追従されるかという小さな移動量ではない。機関砲の可動範囲から完全に逃れ、直ぐには再照準できぬほど離れた位置へと一瞬で移動していた。それも、先に左側へ軌道を取りフェイントをかけた上で行った。
ヘリが射撃を止める。充分離れた距離からこちらを完全に見切れる位置へ陣取ったはずなのに、目標を見失ったような素振りをとった。
だがそれも僅かな間。直ぐに飛行位置を同じく右に移し、再び射撃する。
再び消える視界。
今度は左へ移動した。その距離は先ほどの回避よりも更にヘリとの位置を離すもの。
ヘリが射撃を止めることなくそのまま射線を横這いさせてこちらを狙ってきた。左右に避ける動きでは躱せない射線である。
マリアが跳んだ。
バク転の跳躍は以前とは比にならない高さである。翻って地に向いた視線の先で機関砲の射撃が通り過ぎていくのを見る。
着地には一切の衝撃は無い。減速もしない。それどころか下り斜面に着地して、高さを速さに変えて更に加速する。通り過ぎて左へずれた射弾が再び右へと戻ってくる。だが前進の瞬発を捉えきれずにむなしく自分たちの遥か後ろをすり抜けていった。
ヘリはもはや止むことなくこちらを撃ち続けた。
だがマリアは、右に、左に、跳ねては加速し、フェイントであらぬ方へ射線を向けさせ、その隙にさらに地面を打って速度を増し、飛翔するヘリを引き剥がしつつすらあった。
「これが、マリアの全力機動……!」
今までどれ程積み荷である負傷者や遺体へ気を使い能力を抑えていたのか。たしかにこんな動きには重症者は耐えられまい。だが今や積み荷は自分でしがみ付く力を持った人間一人だ。解放されたマリアの全速機動は、歩兵と戦闘ヘリという不条理なまでの戦力差に抗う程であった。
延々と繰り返される兎獣人の疾走とヘリの攻撃の交錯は、しかし突然途切れる。
赤熱した機関砲が突如弾を吐き出すことを止めた。
「まさか、弾切れしたのか?」
おそらくだが、ミサイルを最大搭載して遠距離から機甲戦力に当たっていたこのヘリは、燃料効率をよくするために、近接戦闘兵器である機関砲弾のペイロードを著しく減らしていたのだ。結果として想定外の作戦行動と常識外れの目標相手に苦戦させられ、機関砲を撃ち切ったのであろう。
だがそれは自分たちにとって有利となる状況でも、ましてや戦いを終わらせる福音でもない。
ヘリが高度をゆっくりと上げながら、徐々に遠ざかっていく。それは離脱などではない。
「ロケット砲の一斉掃射……!」
対戦車兵器のフルファイヤーを打ち込もうとしている。
とっさにマリアへ叫んだ。
「マリア、俺を捨てろっ。あんただけでも……!」
「残念だが、一人降ろしたところであの攻撃の範囲からは逃れられない」
相変わらず淡々と紡がれる言葉。
「そんな、もう、終わりだってのか……!」
ヘリが高度と距離を固定した。機首を下げて俯角を取る。ロケット砲の一斉射が来る。
「ああ、もう終わりさ」
マリアが告げた。だが、その声は顔を上げて言っているようだった。
前へ振り向くと、やや上を見つめるマリアとそのピンと張った長い耳が同じ方向へ指向しているのが見える。
その先、何か白っぽい物が地平線のやや上に存在していた。次の刹那だ。
ヘリの真横で爆発が起きた。
二重反転プロペラが散り散りに砕け、右側の兵装やドアをごっそり抉られた戦闘ヘリが成すすべなく落下し、炎上する。
弾薬に引火した大爆発の衝撃波が後ろから自分たちを叩いて通り過ぎていった。
呆然と、その燃え盛る墜落場所が遠ざかっていくのをマリアの背中から見た。
「対空ミサイル……」
「ブークM1防空ミサイルシステム改式。米国供与のシースパローは搭載済みだった。ギリギリで俺たちの基地の防空圏内に滑り込んだんだ」
マリアの無線がノイズを鳴らす。数度途切れて繋がり、声が送られて来た。
『とんでもない獲物を釣り上ゲてきましたねマリア。ご自分に縄巻いてアゾフ海にでも飛び込ンだんデスか?』
「人を釣り餌呼ばわりとは上等だコルン。今のうちに鳥頭の薄い頭蓋骨を厚くして待っとけ」
『おお怖ワ。ところでエックハルト伍長殿、負傷はありマスか』
「本官、救助対象共に負傷者無し。このまま帰投する。オーバー」
『了解。ああ、ボスが戻ったら顔出セって言ってマシた。楽シみにしていていいでショウ。アウト』
個人用の携帯無線が繋がるという事は、もう遠くはない。
前を見ると、地平線の上に黒い点群が見えてきた。
泥の平原に吹きすさぶ冷たい風を顔に受けながら、マリアの声を聴く。
「ようこそ、第九野戦基地へ」
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