兎の担架兵(9)
「待て!二人を捨てるな!」
「ふん。お人好しにばれてしまったか」
何故マリアの行動が分かったのかは自分にも知らない。だがその直感は正解であったようだ。マリアは自分が口をはさむ前にリョーシャとシーマの担架を切り離そうとしていた。
「意見は聞かん!」
こちらが口を開くのをマリアが叱咤で止める。
「ドローンとは次元が違う。奇跡ごときで覆る状況であれば俺も惑わされることはあるが、もはや状況は二つに一つだ。そして俺は死ぬつもりはない。故に二人は捨てる」
一気呵成に浴びせられる正論に、自分は最早、返せる言葉を持っていない。
だがそれでも部下を見捨てられない心情と、合理的で冷徹な戦場の判断は自分の中で対立している。ありえない奇跡を超える奇跡、神頼みに等しい行為に運命を任せるか、それとも軍人として身につけた合理的で冷徹な判断を自らの意思で背負うか。
正しい答えは既に示されている。あとは自分が上官として背負うべき責任を受ける覚悟を決めるか否かという選択のみがあった。
だが、訓練で教わった戦場で迷うなという絶対の規則に反している理由はそれだけではない。
この何もかも失われて色を失っていく戦争という極限で、自分を自分であらしめるための信念。それは。
「それでも、捨てちゃならないんだ」
どれほど人間の良心がその価値を喪失しようとも。
「善心を捨てない執念は、戦い続けていく為に必要なんだ……!」
「……」
唇を噛みきって、文字通り血の滲む独白へ、マリアは何も言葉を返さなかった。ただ静かにその手を動かす気配が背中越しに伝わてくる。
しかしその時、予想していないことが起きた。
「うう……コースチャ軍曹」
「シーマ!?意識が戻ったのか」
左手側の担架に乗ったシーマが目を開いたのだ。
「喋るなシーマ。もうすぐ安全な場所へ付く」
「いいえ……もう、駄目です……血が、とまらない」
「ははっ、気のせいだ。ちゃんと止血はしてある。弱気になるな」
「軍曹……」
シーマが薄く笑う。
「手足、じゃない。胸……穴があいてるでしょう」
作った笑顔が思わず固まる。シーマはそれを見てまた笑った。その儚い表情を否定するために返答をする。
「そんなこと、ない」
嘘だ。
それは塹壕の中でマリアに指摘され、応急処置の最初に確認したこと。表面から見たときはベストに空いた小さな穴に見えた損傷は、ベストを開くと胸部に空いた大穴になっていた。それでいて重要な臓器や血管は避け、即死にいたらせるものではなかった。しかしその場で可能な処置はなくベストごと締め上げることで出血を抑えるしかなったのだ。
しかも、それは紛れもない致命傷である。超音速で体内に飛び込んだ対人殺傷弾が分裂して無数の金属片になり、肉体を内側からずたずたにしたのだ。運悪く心臓や肺に致命的な損傷がなかったために、なまじ長く激痛と出血に苦しんで死ぬ事になる。そして、体内に刻まれた数百の傷を塞ぎきる外科設備は、我が軍の最前線には存在しなかった。つまり、シーマは塹壕で砲撃を受けた時点で死亡が確定していたのである。
にもかかわらずマリアは、助かる見込みがない者、Blackタグに類するシーマを救助対象として搬送してくれていたのだった。
「コースチャ軍曹……いい人ですね、あなたは」
「シーマ!」
たとえ助かる見込みがなくともシーマはまだ生きている。生きているのだ!
だがこちらの呼び掛けを無視してシーマが話しかけたのはマリアであった。
「獣人の方……コースチャ軍曹だけなら、助かりますか」
「我が洗礼名、聖母の名に懸けて、必ず」
シーマがほほ笑む。それと同時に、シーマの体を腰部で固定していたベルトが断ち切られた。いつの間にかシーマが残った左手でナイフを抜き自らベルトを切断したのだ。
「シーマ!?何をしている!?」
ナイフを取り上げようと左側の担架へ身を乗り出そうとしたとき、中央の担架の固定ベルトが突如として締め上げられた。
「マリア、何をする!」
背後の担架のベルトを操作できるとすればマリアだけだ。それは単独任務において移動中に搬送者の固定を締めなおせる、任務の性質から装備に当然として存在する機能である。それが今、自分の意思に反して担架へ体を縛り付け、シーマからナイフを取り上げることを阻んだ。
「コースチャ軍曹……お願いします……奪われた俺たちの故郷を、取り戻して……」
「止せシーマ!マリア、俺だっ、俺が降りる。シーマを連れていけ、シーマを!」
シーマが肩部のベルトを切った。脚と頭部のみで固定された体がずるりと担架から動く。
それを気にすることも無くシーマが言う。
「もう一度、金の穂原と青い空をこの国に……俺たちの分まで……」
頭部の固定ベルトが切られた。シーマの体が担架から半分落ちる。
「獣人の方……どうか、軍曹を、俺達の隊長を頼みます」
「それこそが俺の任務だ。そして……その決断の責任を持つのはお前ではなく、俺だ」
マリアが手を動かして、ラッチが外れるような小さな金属音が鳴った。それはショルダー部、背部フレームへと伝導していき、三連結の担架の両端の二つを分離させた。
リョーシャの遺体を乗せた右の担架と、シーマを乗せた左の担架が速度に取り残され、脱落していく。
動きを封じられた体で、必死に後ろを見ようとして、視界の端からシーマの姿が消えていくのを捉える。
見えなくなる寸前に、部下の名前を叫んだ。
それをあえて突き放すかのようにマリアが加速し、二人の部下の最後の姿を見ることは無かった。
重荷を捨てたマリアは加速し続ける。
自分はうつ伏せで担架に縛り付けられたまま、痛いほど額を担架へ押し付け、指が折れんばかりに拳を握った。
「その筋合いは無いが、恨むがいい、コースチャ」
ぶっきらぼうにマリアが言う。だが、それは出来ない。
「お前は、正しい判断をした。それだけだ。ただ、それだけだ……」
それは自身の保身の為にまだ猶予ある味方の命をぞんざいに捨てる行為ではない。限界の限界まで状況を耐え、その末の最終選択として、より多くの命が助けられる判断を下した。何も、何も咎めることは出来ない。
しかし、その苦渋の感情に浸らせぬというように、ヘリの死の羽音が再び近づいてくる。担架に縛られたまま無理矢理後ろへ体を捻るとその姿が見えた。
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