兎の担架兵(2)
照準から目を外したリョーシャと、撃つ事すら止めて狼狽しているシーマが目を剥いて見ている方を、装填動作をしつつ確認する。
敵の歩兵部隊が一挙に接近してきていた。
だが様子がおかしい。
先ほどまで突撃していた、寒さと空腹でふらついてやつれた人間種のソヴィカ兵ではなかった。
「亜人と獣人の兵士だけ?ソヴィカ現政権は事実上、人間以外に人権を認めていないはず。それに銃を持っていない。足取りは不確かなのに死力で突っ込んでくる。一体これは……」
言って、気付く。
「占領したドネツク州の民間人を、強制的に……!」
「こ、の……クソ外道が――!」
牙を剥き出しに気炎を吐いたリョーシャが戦闘の当然として、そしてせめてもの慈悲として地雷を改造した大型手榴弾を手に構える。だがそれを静止した。
「待て、リョーシャ!」
「何を言うんです隊長っ。銃を持ってないってことは腹に爆弾巻いてる。自爆兵だ!」
それは分かっているが、葛藤が部下に停止をさせる。そこへリョーシャが続けざまにまくし立ててきた。
「隊長、もうどうにもならねえよ。あんな酷い有様でも死ぬ物狂いで進んでくるのは、家族を人質にされ、進まなければ後ろから撃ち殺されるからだ。無念だが、彼ら自身すらもう生きることを望める状況じゃあない!」
「分かっている、お前は正しい!だが、彼らは我々が守らねばならない人々だ。今この瞬間も、そうなんだ!」
「軍曹……リョーシャ……」
「隊長!」
部下二人の命を預かる責務と、軍人としての行動原理に苦悩する。だが、戦場におけるもっとも基本的な禁則は悩んではいけない事だ。ゆえに、逡巡の思考の結果、判断を告げた。
「リョーシャ、そいつを下ろせ」
「隊長!」
「まだ敵兵は遠い。20メートル地点に近づくまで使うな。それまではライフルで脚を狙え。彼らを殺さないでいられる距離まではそうするぞ」
それが戦場の常識と人としての道徳の妥協点の限界であった。
「これは命令だ。そして彼らの死の責任は全て俺にある。だから……撃て。だがギリギリまで即死させるな」
「――了解です。隊長」
「シーマ、聞こえたな」
「りょ、了解しました」
卑劣な敵の戦術に対する、それが自分なりの精一杯の対処であった。
そして、ライフルを構え直した部下に合わせて、自分も機関銃から手を離しライフルを構え、スコープを覗き込んだ。射撃命令を下す。
「総員構えー!」
撃て。
そう続けようとした瞬間にそれはきた。頭蓋の中の脳みそに風がすり抜けるような感覚。その流れと共に意識の一部が肉体を抜け出して周囲を俯瞰しているような、自分の思考でありながら他人を見るような不思議な触感。
それは今まで幾度となく命を長らえた、戦闘兵としての直感だ。
訓練も受けていない一般人を自爆兵として送り込んでも、正規兵すら押し留めている塹壕線に対しては万に一つも成功は望めない。しかも敵は味方の被害を無視してギリギリまで砲撃を行っている。元々自爆兵の突撃に効果を期待していないのだ。にも拘らずそれを実行するとしたらその理由は――。
(注意を前方に引き付ける為!)
直後、頭上から甲高い風切り音が届いた。
「総員、退避壕へ――」
言い切る前に、塹壕にロケット砲弾が降り注いだ。
着弾。
衝撃。
空白。
途絶えた意識が覚醒したとき、瞼を開いた自分が最初に確認したことは手足の有無だった。手はともかく足が無くなっていたら腹を繰らなくてはならない。しかし幸いにも五体は無事であった。塹壕内にロケット弾が飛び込んだにしては全く最高の幸運である。
平衡感覚を失ったままの、どうやらうつ伏せらしい自分の視界に映ったものは、座り込んだ姿勢の狼亜人の太い手脚と体。しびれた体のまま頭だけでも動かして部下の顔を見ようとする。
「リョーシャ、無事でよかっ……」
部下の頭は、上顎から上が無くなっていた。狼亜人の鋭い牙が、残った下あごにずらりと並んでいる様子がはっきりと見える。その内から固定を失った舌がだらんと長く垂れ下がっていた。
「――ッ!」
口から出そうになった哀哭を喉を締めて堪える。そして塹壕の底の泥から体を引き剥がし、もう一人の部下の名を呼びながらその姿を探した。
「シーマ!」
振り向いた視界には、うつ伏せで泥に沈んだ、両足と左手が無い人間があった。先ほどまで共に戦っていた部下であり戦友の二人の無惨な姿を目にして、膝が崩れ
「リョーシャ、シーマ……」
震えるほどに力を込めて拳を握りしめる。そして塹壕から見える狭い空を仰いだ。硬く握った手を振り上げ、全力で地面に振り下ろす。ぐにゅりと拳が泥に埋まる感触だけが染み込んできた。
それでも訓練によって鍛えられた体は絶望的な心情を無視して立ち上がり、塹壕から視線を出して周囲を確認する。押し寄せてきた哀れな自爆兵達は、その背後から発射された一斉砲撃によって一人残らず消滅していた。もうこの塹壕付近で命を持っている者は、自分ただ一人である。
敵はいなくなったが、味方もまた同じ。そしてこの状態は一時的で、占領地から徴兵した囮で温存されたソヴィカ軍兵士が直ぐにでも群がってくるはずだ。
完膚なきまでの終焉であった。
しかし、自分には兵士としてまだ最後の任務が残っている。立ち上がると指揮所である内壕へ入り、通信機から連絡を伝達した。
「こちら第17塹壕。防衛は失敗した。繰り返す、殿の我が隊は壊滅。敵は健在のまま我が方へ接近中」
『……ら第3野戦司令……解。貴官は……に……脱せ……。……――』
故障したのか、返答は殆ど聞こえなかった。だが応じたという事はこちらの状況が伝わったことは間違いない。最後の役割も無事に完了した。
後は、残り数十分の寿命をどう使うかが問題であるが。
「投降は自殺と同義だな。であれば」
すぐ側の壁に立てかけてあったスコップを手に取る。狭い塹壕内での肉弾戦はこれが一番使えるのだ。
あの優秀な部下二人分の働きには遠く及ばなくとも、最後まで戦い続けることでその善き心への手向けになるであろう。
自分の終わり方を定めて、内壕の出口をくぐる。
そして、聞いた。
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