兎の担架兵(3)

 硬く滑らかな物がぬかるむ泥濘地を高速で滑り、砂利や小石が底をひっかく甲高い濁音が迫ってくる。音は常に鳴りながら、一定の間隔で大きな砂利音を打ち、どんどんとその勢いを増してこちらに近づいて来る。

 タイヤでもキャタピラでもない走行音。

 しかもそれは敵とは反対方向、自軍が布陣している西から響いてくる。引き寄せられるように塹壕から顔を出して目線を向けた。見えるのは掘った土を積み上げて造った、砲弾片などから守る堤防の役割である長く緩い丘稜型の背墻はいしょう

 戦車も機動車も拒む泥濘地を高速で移動する何かの音が瞬く間に近づく。

 だがその速度では。


「跳び上ってしまうぞ」


 背墻はいしょうに隠れている姿が敵にバレるという事だ。

 音がついに背墻はいしょうの手前に来た。斜面に乗り上げ姿を見せる。

 だがそれは地面に張り付く様に高速のまま地形に合わせて滑り、跳び上がるどころか下り斜面で更に加速。塹壕の淵で急制動して壕内に滑り込み、優雅にすら見える降下で泥に埋まらず完璧に接地した。

 速すぎてはっきりと見えなかった影がとうとう顕わになる。

 スキーを履いた兎。

 それが第一印象だった。正確に言えば、戦闘服を着た兎の獣人だ。それも全長3メートルはあろうかというかなりの巨体。この地域の様な厳冬地では獣亜人の体躯が大きいことは周知であるが、比較的小柄が多い兎獣人でこの巨体は非常に珍しい。容姿は獣型様じゅうけいよう。人間の相は見る限り全くなく、二本足で立ってはいるが立ち方は兎のそれだ。彼はスキー板に見える装具を付け、やけに長い5メートル程のストックを、体の両側に機械を用いて装備していた。脚部と比べて小さい手は道具の使用を補助する獣人用の外装義手が嵌められていて、ストックから接続されたバイクハンドルの様な操作機を握っている。他にも脚部を重点に機巧装備が見られた。

 また頭部には兎獣人特有の長い耳を包むアーミーカラーのニット帽を被り、目元にはゴーグルを付けている。

 そいつは両手をストックのハンドルから離すと、毛繕いの様な動作でゴーグルの泥をぬぐった。そのままゴーグルを額の上にずらしてこちらを見てくる。

 その顔を見て気付く。


「黒色……?」


 北方の兎獣人は白色だ。だが口にして、直ぐに間違いにきづく。

 泥だ。

 泥濘地を駆け巡って跳ねとんだ泥飛沫が服で隠れぬ頭部の毛皮を染め上げていた。元の色が純白であることはゴーグルに守られていた毛並みの白や、色素を持たない光彩ゆえの真っ赤な目が示している。

 その異様に脳が止まり呆けてしまう。

 それを引きずり戻したのは兎獣人の発した言葉であった。


「おい、起きろ」


 低く響く声は、険しさと厳粛さを感じさせる。

 それに促され、異常な状況に頭が混乱したまま動き出す。


「あ、あんたは誰だっ。その装備はなんだ。救援なのか?他の兵員はどうした。いや、なんだろうがもう遅い。今すぐ戻って逃げるんだ!それまでは俺が足止めをして――」

「うるせぇ」


 兎獣人が真っ赤な目を至近に寄せて低い声を響かせた。大きい肺活量の声は抑えられていても空間に圧を加える。

 その迫力に正気を戻された。思わず後ずさろうとして、足元の泥にそれを妨げられる。

 兎獣人が言葉を続けた。


「第9師団第307防衛小隊、補助衛生担架兵、シュメーツ・マリア・エックハルトだ」

「307小隊……三百番トルィースタ隊!?首都防衛群の国際義勇兵部隊がなぜ最前線に」

「知るか。参謀次長に言え」


 赤い眼で睨まれ二の句を告げなくなる。PMC兵や傭兵とは異なる、戦時特例として国防省と契約する形で参謀本部直下に組織されたいわゆる義勇兵部隊。首都防衛戦以降、各地を転戦し、あらゆる激戦地に姿を現したという彼らは国軍兵士たちの間でまことしやかに噂され、三百番トルィースタ隊と呼ばれている。


「あの三百番トルィースタ隊の、担架兵?」


 担架兵は、衛生兵の仕事を補佐し、負傷者を後方へ輸送することが任務の兵士だ。余り知られていないが、負傷者を後方へ搬送し、戦闘員の生存率を上げる重要な役目を持った存在である。だが、この泥濘化した戦場ではトラック等の車両が使えず、負傷兵を不衛生な塹壕内に匿わなければならない状況が続いており、他部隊から救助の為に担架兵が来るのを見たのは久方ぶりであった。

 その兎獣人の担架兵が問うてきた。


「回収に来たが、お前だけか?」

 生きている者は、という問いだろう。絶望と共にイエスを返そうとしたが。

「待て」


 彼が静止の声を掛けて、長い耳を動かし何かを探った。

 数秒後、その手が示した。


「そいつだ。まだ鼓動が聞こえる」


 それは両足と片腕を失ってうつ伏せで泥中に倒れていた人間。

 シーマだ。


「まさか!?おい、しっかりしろっ」


 信じがたいことを聞かされたが、反射的にシーマを重い泥から引きずり出して仰向けに寝かせる。


「ゴボッ、ごっ、こほっ……うっ……」


 シーマが泥を吐いて呼吸を取り戻した。本当に生きていたことへの安堵より先に、それを言い当てた事に対する驚愕を感じる。

 兎亜人が外装義手を器用に扱い、自分のベストポケットから止血帯を数本取り出してこちらへ突き出す。


「脚の止血はお前がやれ。俺は右手の止血と鎮静剤を打つ」


 言われるまま彼の所へ寄り、止血帯を受け取る。

 担架兵が装備を外し、首の動きでシーマの方へ行くように促す。この塹壕は幅広いが、兎獣人の巨体と横並びに作業をすることは出来ない。はっとしてシーマの脚側へ回った。


「シーマ、今助けるぞ」


 呻く部下に声を掛けながら応急処置を始めようとしたが。


「待て、胸部にも傷を受けているな。まずそちらを確認する。場合によってはそちらの処置が先だ」


 言われて見れば確かにベストの右胸に小さな穴の様な破けが見えた。ベストに手をかけ開くと。


「これ、は……」

「――」


 自分も、担架兵も言葉を飲み込んだ。唇を震わせながら担架兵の方を見る。彼は眼を細くしわめながら言った。


「ベストを閉じろ。搬送中に絶対開かないようにしとけ」

「……良いのか?」

「それが今できる最善だ。分かったらさっさと止血をやれ。グズグズするな」


 その通りにベストをしっかり閉じ直し、更にポーチを設置するチェストベルトを絞り込んで端を止め結ぶ。

 再び担架兵の方へ視線を向けたが、彼はこちらを見ずに既に腕の止血を終えていた。それを確認して、自分も千切れた脚に止血帯を巻き付けていく。

 その最中にシーマを挟んで反対にいるそいつを見た。

 獣人用の外装義手は人間の親指の位置にあり、鰐口クリップの様な形状となっている。手首の屈伸やひねりに合わせて開閉するそれは細かい動作を不得手とするはずだが、彼は自在に動かし応急処置を素早く行っていく。

 兎の右の義手がベストのポケットを開き、ガーゼを取り出す。同時に左手に腰から抜いたナイフを持った。

 そして、ナイフでさっとシーマの右手の軍服を切り開き、二の腕を肌をガーゼで拭い泥を落とす。更にナイフをしまいガーゼを捨てるとすぐさま消毒液と鎮静剤を取り出し、二の腕に消毒液を掛けて鎮静剤を打った。

 本職の衛生兵に何ら劣るところが無い、早く正確な治療である。自分は最後の止血帯をシーマの右足に巻き付けている所だった。


「遅いぞ、さっさとしろ。敵が来る」

「分かって、るっ」


 声と同時に全力で止血帯を引き絞った。これで応急処置は完了だ。

 一息を吐き、額の汗をぬぐおうとして、血と泥で汚れた手を思い出し止めた。

 担架兵に声を掛ける


「それで、どうやって搬送するんだ」


 最初から気になっていたことではある。この兎獣人はスキーの様な装備で泥濘地を自由に移動できることは見て分かっていたが、どうやって負傷者を搬送するのだろう。ひょっとすると背に乗せるのかもしれない。だがそれでは搬送できる人間は一人となる。その場合は、自分が残るつもりだった。

 彼は返事をせずに、外しておいていたスキー型移動装備の一群の元へ戻ると、数本の長い棒を布で巻き留めた形の装備を手に持ち、それを展開した。

 現れたのは、担架だ。折りたたまれ、フレームに布地を巻き付けていた物が三つの連結した横並びの担架へ変形する。

 担架兵は、その特殊な担架を移動用機構の背部フレームに接続すると、再びスキーを履きストックを握り機構を装備した。そして体を前傾にして担架を背負う。そしてこちらに指示する。


「負傷者を俺の左手側の担架に固定しろ。お前は中央の担架に乗れ」

「なっ、そんな重量を背負って移動なんて――」

「出来るから言っている。早くしろ」


 言われるままにシーマの体を担ぎ、左側の担架に乗せ、ベルトで固定する。そして自分も中央の担架に乗ろうとして。


「そこの亡骸も積み込め」

「リョーシャを!?遺体を回収しておらえることは嬉しいがしかし、担架兵は生存している兵士だけを運ぶ規定が――」

「バランス取りだ。別に温情で言っているわけではない」


 ぶっきらぼうな態度の割に、救助への姿勢は誠実な兎獣人の言動に戸惑いながらも、リョーシャの遺体を運び右の担架に乗せた。

 そして最後に自分が中央へ乗り上がる。担架のベルトをしっかりと両手で握りしめた。

 これで搬送対象の積み込みは完了した。

 そこでふと思い出す。


「そう言えばまだ名乗っていなかった。俺はコンスタンチノス・ミハイロヴィチ・ミハールカ。軍曹だ」

「長い。コースチャと呼ぶぞ、いいな」

「ああ、仲間からもそう呼ばれてる。よろしく、エ……エグゥト?階級はなんだ?」

「伍長だが契約兵に階級は飾りだ、付けなくて良い。名前はエックハルト、だ」

「そうか、すまないエッグバゥト伍長」


 担架兵は無言で目元をゆがめた。ドイツ系の名前の様だが、自分にはどうにも発音しづらい。

 互いに沈黙した一瞬を断ち切って担架兵が無線で連絡を入れた。


「作戦本部へ、こちらエックハルト。目的地でD1、B1、W1の三名を確保。これより帰投する」

『本部了解。だが悪い知らせだ。周辺部隊からの目撃情報によれば航空兵器がその近辺にいる可能性がある。おそらく徘徊型ドローンだ。防衛が壊滅したその場所へ行くはずは無いが、念のためにこちらから支援を送る』

「いや、支援は必要ない。俺だけで十分だ」

『必要ないだと。貴様はまたそんなことを』

「無駄に人員を危険にさらすことはない。それより外科処置の準備を整えていてくれ」

『おい、マリア――』

「撤退行動を開始する。アウト」


 一方的に聞こえるやり取りを残して担架兵は通信を切ってしまった。しかし、気になったことは。


「マリア?そいえばミドルネームをそう言っていたな」

「……もうそれでいい。洗礼名ならウルシーナ人にも言いやすいだろ」


 そう言って担架兵、マリアは巨大な担架を背負い直した。足に装備しているスキーが塹壕の底にわずかに沈む。

 それを見て思わず声を掛けた。


「百キログラムを超えているだろう。本当に敵から逃げられ――」

「喋るな。歯を食いしばれ」


 言葉と同時、強烈な下方への慣性が体を襲った。思わず目を閉じる。そして一瞬の後、目を開くとそこは塹壕の淵よりも高い位置であった。

 兎獣人の担架兵は三人分の重量を背負いながら、一足飛びに塹壕の底から跳び上がったのである。跳躍の最高地点で重力の感覚が消え、反対に浮き上がるような慣性を受ける。

 そして、担架兵が着地すると同時に衝撃を受けた。だがその強さは落っこちた様な乱暴さは無く、衝撃を和らげるように調整された柔らかなものだった。

 この兎獣人の兵士の力と技術に驚愕していると、声が掛けられる。


「撤退するぞ、しっかり捕まれ。落ちても拾わんからな」






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