第二章 その⑥
大丈夫。まだ間に合う…。
腕時計を見つつ、そう信じて走り出す。
今日は良い一日じゃないか。朝に、血を流している老人を助け、道に迷っている女性を助け、そして、車に轢かれそうになる女の子を助ける…。一日に、三人もの人を助けるんだ。僕はとんでもない英雄になれる。もう何も怖くない。どんなことにでも、怖がることなく挑戦していけるんだ…。
そう思い込むようにして、脚に絡みついた緊張と不安を蹴り飛ばした。
肩に掛けた鞄が鬱陶しくて道端に捨てる。腹の底が燃えるように熱く、思わず学ランを脱ぎ捨てた。そうして身軽になった僕は、切りつけるような極寒の風に逆らい、全身から湯気を発しながら駆け抜けた。
もう少し、あと少し。
胸の奥に宿る鉄の味を飲み込んで、あの交差点に通じる道に飛び出す。
目を擦り見ると、百メートルほど先に、女の姿が見えた。
六年前…一周目と同じ、小柄な身体に、僕と同じ高校の黒いブレザー。ひざ丈のスカートからは細い足が覗き、黒髪を揺らしながら、ふらふらと歩いていく。
それを見て初めて、僕は「戻ってきたのだ」と実感した。
「待って! 止まって!」
背後からそう呼びかけるも、一キロもの道を全力疾走してきたのだ。当然、声は輪郭を結ぶこと無く、大気に紛れて消えた。
「待って…、危ないんだ…。待ってくれ」
そう必死に絞り出しながら、僕は揺れる女の黒髪を掴むために、さらに加速した。
きっと、体力測定の五〇メートル走の時よりも、運動会の総力リレーの時よりも、野良犬に追いかけられた時よりも、スピードが出ていたと思う。
女の子に追いつこうと必死になっていたために、アスファルトの亀裂に気づかず、躓いた。
あ…と思った時にはもう遅く、走ってきた勢いそのまま、僕は手をつきつつ、地面を転がった。ポロシャツの袖が裂けて、その下にあった肉が抉れる感覚。背中もしたたかに打ち付ける。
「待って!」
それでも女の子の命を救うため、顔を上げて必死に叫んだ。
残り、たったの十メートル。だが、女の子は気づかない。そりゃそうか。横から来るトラックに気づかずに歩いているのだ。それだけ、放心しているということだった。
「ああ! もう、くそが!」
僕はがくがくと痙攣始める足に鞭を打って立ち上がると、再び駆け出した。
絶対に女の子は助ける。でないと、どうして戻ってきたのかわからないじゃないか。
もう、人間の醜い部分を見るのは嫌なんだ。ここで、女の子を助けて、すべてを穏便に済ませて、僕は、「命を助けた」という誇り高い事実を胸に、自信をもって…生きていきたいんだ…。
女の子が、ふらふらとした足取りで車道に飛び出す。
僕も車道に飛び出して、その黒髪に腕を伸ばした。
バラ色の未来を掴むために、大きく広げたその手。それに、一周目の悲惨な運命が浮かんで見えた。
ぐちゃぐちゃで、血まみれの死体となった女の子。自分の人生の終了を悟り、死体に暴言を浴びせる運転手。好奇心で目を光らせ、女の子の死体にカメラを受ける野次馬。女の子の様子に気づかず、助けることができなかった僕。無能のレッテルを貼られた僕。何事にも無気力になった僕。何の成果も得られなくなった僕。もうそんなものは…見たくないんだ。
女の子の身体から力が抜ける。横からトラックが走り込んでくる。
僕が女の子の腕を掴む。トラックが近づく。
僕が女の子の腕を引っ張る。女の子が振り返る。
トラックが急ブレーキを踏む。身を反転させ、女の子と立ち位置を入れ替えるような形で歩を踏んだ僕は、遠心力のままに、その華奢な身体を投げた。
その瞬間、僕の傍ギリギリを、トラックが通り抜けた。
小さな悲鳴をあげながら地面を転がる女の子。
トラックは劈くような音と、焦げ臭さを漂わせながら地面を滑り、二十メートル程離れた場所に停車した。それを見て、向かいから走ってきた車、背後から走ってきた車らが一斉にブレーキを踏み、あわや玉突き事故を起こしそうになりつつ、停車していく。
日常生活じゃ聞きなれない音を聞いて、歩道を歩いていた者たちは一斉にトラックの方に目を向け、それから、地面に蹲っている女の子を見た。そして、一目で、何かが起こったのだと気づいた。
見事女の子の命を救った達成感を噛み締める余裕も無く、僕は彼女を振り返った。
大丈夫か? 立てるか? 危なかったな…。その言葉を絞り出そうにも、口は酸素を求めて開閉を繰り返すばかりで、声が輪郭をはっきりと結ばなかった。
天を仰ぎ、鉄の味が混じった唾を飲み込み、大きく息を吸い込む。改めて言葉を発しようとしたが、やはり、出なかった。それどころか、心臓は一層強く脈を打ち、その音が呼吸とともに脳裏に響いた。まるで凍り付いたように、目の前の光景が色あせ、心なしか地面も柔らかくなったような気がした。
きっと興奮しているのだろうな。そりゃそうだ。人の命を救ったのだ。
もう、一周目のような、見て見ぬふりをした僕とは違う。
今度こそ、人の命を、救えたのだ。
三度目の馬鹿正直 バーニー @barnyunogarakuta
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