第二章 その⑤

 腕時計を見て、女の子が死ぬまで残り十五分であることを確認する。

 ああ…、やっちまったな。と思ったのは、その頃だった。

 確かに、二周目の世界は、一周目の世界とほぼ同じように回っている。「まったく同じ」ではなく、「ほぼ同じ」なのだ。その誤差こそが、一周目に起こる出来事を知っている僕だった。

 僕は一周目に起こるはずの女の子の死を回避しようと、運命に抗って行動するわけだから、さっきの老人や、今朝の父親のような「新たな事象」が生まれるのは当たり前。それを予見して、もっと余裕をもって動かなかったのは、完全に考えが甘かった。

 そこまで考えると、心臓がどうしようもなく逸った。

 さっきまでは堂々と踏み出していた足も、動きが鈍くなる。

 慌てて、かじかんだ手で頬を叩く。冷えているせいで強烈に痛んだ。

「……だいじょうぶ」

 まだ十五分ある。まだまだ、余裕がある。

 そう言い聞かせるように頷くと、再びあの交差点に向かって歩き始める。

 何かをしているときに、不意に不安に陥るのは、一周目からの悪い癖だ。

 しっかりしろ。

「あの…、すみません」

 気を取り直して歩いていこうとした瞬間、背後から声を掛けられた。

 くそ、今度はなんだよ…と思ったが、顔に出さずに振り返る。若緑色の軽自動車がゆっくりと近づいてきて、僕の横に並んだ。開いていた窓からは、年老いた女性が顔を出し、僕に縋るような目を向けてきた。

消え入るような声で、「道をお尋ねしたいのですが…」という。

「道、ですか」

 今はそんなことをしている場合じゃないんだよ…。

 すぐにこの場から走り出したい気持ちを抑え、女性に微笑みかける。

「何処に行きたいのですか?」

 すると女性は、あるホームセンターのチラシを僕に渡し、「ここです」と言った。

「ああ、この店ですか…」

 何だよ、チラシの端に住所が書いているじゃないか。どうしてそれを頼りに行かないんだ…。

「ええと、ここに書いてある住所通りでして…」

 厭味ったらしく言おうとすると、女性は「すみませんね、目が悪いので…」と言った。

 そう言われてしまえば、僕もそれ以上言えなかった。

「ええと、じゃあ…、この通りをまっすぐ行って」

 口頭で説明しようとすると、女性がすかさず「すみません、最近、物覚えが悪くてね…。地図を描いてくれませんか?」と言った。

「地図、ですか」

 おいおい、勘弁してくれよ…。と思ったが、小心者の僕が「無理です」と言えるはずもなく、仕方なく通学鞄からペンを取り出し、チラシの裏に書こうとした。

 その時、女性が運転する車にカーナビが搭載されていることに気づく。

「あ、カーナビがありますね。それに住所を入力しましょう」

 失礼しますね…と言って、開いていた窓から腕を伸ばし、カーナビを操作しようとすると、女性が「すみません…、機械の操作はわかりません」と言った。

「大丈夫ですよ。僕が目的地に設定しておきますから。後は、カーナビの声に従って運転するだけです」

 そう優しく説明したのに、老人はまだ不安そうな顔をして、「ほら、カーナビって、画面がごちゃごちゃしているでしょう? だから、見方が分からないのよ。機械の声に従っても、無事に到着できる自信がないわ…」と言った。

「そ、そうですか…、じゃあ、やっぱり地図に描きましょうか…」

 苛立ちと焦りで、僕が頬を震わせながら言うと、女性は首を横に振った。

「もういっそ、一緒に着いてきてくださらない?」

 その時もまた、僕は判断を間違えてしまった。

 自分は女だから…、自分は老人だから…って、面倒ごとをすべて他人に任せきりで生きてきた、社会の端くれにいる人間だ。そんなやつに、僕が二周目に与えられた貴重な時間を消費する義理なんて無い。

 それなのに…僕は…。

「わ、わかりました。すぐ近くですからね、案内しましょう」

 ぎこちない笑みを浮かべ、そう頷いた。

 老人の運転する車の助手席に乗り込むと、僕は「あっちに行ってください」「ここを曲がってください」と、懇切丁寧に道案内をした。そうして、車はのろのろと進み、一キロほど先にあったホームセンターに到着した。

 その時点で、女の子が事故を起こすまで、残り五分だった。

「それじゃあ、僕はこれで」

「待ってくださいよ。商品が何処に置いてあるかわからなくて…」

「それは店員さんに聞いてください」

 そう言って、僕はホームセンターの駐車場を走って出た。

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