第二章 その④

 自分の食べるものは自分で用意しろ。それができないと、社会に出てからやっていけないぞ。

 父の教えを思い出しつつ、僕は冷蔵庫を開けた。卵を四個取り出し、さっと目玉焼きを作る。フライ返しで半分に切ってから、二つの皿に盛る。フライパンは洗わず、そのままウインナーを四本焼いた。これも、二本ずつ皿に盛った。

 まあ、こんなものか。

炊飯器を開けると、溜まっていた白い湯気が吹きだし、炊き立てのご飯がぷつぷつと音を立てた。食欲をそそる香りを吸い込みつつお茶碗によそう。

薄暗いリビング。僕は一人椅子に腰を掛け、朝食を摂った。

 空腹が満ちると、残った皿を持って階段を上り、まだ真子が眠っている部屋に入った。

「真子」

 そう呼びかけて見たが、返事が無い。すっかり眠っているようだ。

 僕は机の上に、ご飯がよそわれたお茶碗と、目玉焼きとウインナーの皿を置き、脇に抱えていたラップをかけた。

「朝ごはん、作っておいたから、起きたら食べろよ」

 布団の中から、すうすうと寝息が聞こえる。

「父さんに、ばれるなよ」

 一応置手紙を残してから、僕は部屋を出た。

 玄関に置いてあった通学鞄を掴むと、外に出る。

 時刻は七時過ぎ。まだ十二月は来ていないのに、通りは真冬のように冷え切っていて、音は風に吹かれた木々の葉が掠れる音のみだった。息を吸い込むと腹の底が凍るような気がして、唇を一文字に結びマスクを装着する。それでも、そよそよと流れる風が、学ランの袖の隙間から中に滑り込み、僕の肌を撫で、体温を奪っていくのは止められなかった。

 この頃の僕は、リップクリームを使っていないらしく、乾燥しきった唇の薄皮がぽろぽろと剥ける感覚がした。思わず舐めると、その小さな振動で下唇が裂け、鉄の味が舌先に広がる。

 唇を走る、ぴりっとした感覚を抱きながら、ふと見上げる。

 灰色の空に鎖された、極寒の世界。意思すらも凍らされるようで気が滅入る。このまますぐに引き返して、まだ人肌の温もりが残った布団に潜り込み、死ぬまで眠っていたい…。

 …なんて、一周目の冬は毎日のようにそう思っていた気がする。だが、二周目…つまり、今は違うのだと思った。

 ふと脳裏を過るのは、先ほどの父の「なんだ、楽しいことでもあるのか?」という言葉。

 図星だ。僕はこれから、事故で死ぬ女の子を助けに行く。いや、「人生のやり直し」をしに行く。これが楽しみで、楽しみで、仕方がなかった。

 腹の底からマグマのような活力が湧きだす。このままだと指先やら頭の先からあふれ出てしまいそうなので、この冬の寒さは、僕の持て余しそうな意思を程よく冷やしてくれた。

 落ち着け、余裕をもって家を出たんだ。女の子が死ぬまでにはまだ時間がある。

 歩きながら僕は、顎に手をやってこれからのことを考えた。

 女の子が道路に飛び出すのは、今から約三〇分後。それまでに、あの交差点に到着していればいい。そして、到着してからのことだが、これが少し悩んだ。

女の子が道路に飛び出した寸前、僕も道路に飛び出し、身を危険にさらしてまでも女の子を救う…という構図にしても良かったのだが、それだと、トラックの運転手が、一時的に「女の子と青年を轢きそうになった…」と驚いてしまうことだろう。その驚嘆した顔もまた、僕が見たくないとする「人間の醜い姿」だった。

大切なのは、僕が女の子を助けたという事実。だから、理想的な救出は、「女の子が道路に出るよりも先に声を掛ける」ことだと結論付けた。野次馬から羨望の眼差しで見られないのが唯一惜しいと思うところだが、命には代えられない。

 早速あの交差点で、女の子を待伏せしよう…と、傍から見ればストーカー紛いのことを思った僕は、早歩きで向かった。

 だが、百メートルも歩かないうちに、声が聴こえた。

「おーい」

 年老いた男の、しわがれた声だった。

 一瞬は気づかず通り過ぎようとしたが、再び声が聴こえた。

「おーい、助けてくれー」

 そこでやっと、僕に呼びかけているのだと気づき、立ち止まる。

 耳を澄まし、消え入るような声がする方を振り返った。そこには、古いアパートがあるのだが、二階に上がるためのアルミ階段の傍に、老人が仰向けになって倒れているのが見えた。

 酔っぱらっているのだろうか…? と深く考えず、倒れている老人に目を凝らす。そして、老人の後頭部から赤黒い液体が流れ出ているのに気づいた。

 あ…。と思い、すぐに老人に駆け寄る。

「大丈夫ですか?」

 頭から血を流しながらも意識はしっかりしているようで、老人は僕の目を見て「救急車を呼んでください。転んでしまいました」と言った。

「わかりました」

 僕は反射的に頷いたが、父に携帯は持たされていない。

 どうしようか? と三秒の熟考の末、目の前にあったアパートに駆け寄り、一〇一号室の扉を叩いた。すぐに、出勤前と思われる女性が出てきて、突然訪ねてきた学ラン姿の男を怪訝な目で見た。

「何の用ですか?」

食い気味に言われたが、倒れている老人の方を指すと、すぐに救急車を呼んでくれた。

 救急車は五分で駆け付けたものの、第一発見者の僕にはいろいろ聞かれた。別に疑われたわけじゃなく、「最初、老人はどのような状態だったか?」とか、「話しかけた時どんな反応をしたのか?」、「老人とは知り合いなのか?」などと、これからの治療、その他もろもろの手続きで必要な質問だった。

 救急車を見送り、通報してくれた女性に「頼ってくれてありがとうね」と言われてから、僕は再び歩き始めた。

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