第二章 その③

 一度部屋に戻った僕は、机の引き出しを開けると、そこにあったクリアブックを引っ張り出した。

 指先に息を吹きかけ、血を巡らせてから、恐る恐るめくる。そこには、レシートが一枚一枚、丁寧に収納されていた。その最新ページをめくり、雑貨屋のレシートの日付を確かめると、確かに「二〇一五年 十一月二十四日」と記されていた。買ったものは、百円の消しゴム。

 やっぱり、戻ってきているよな…。

 再び一階に降りた僕は、もう一度カレンダーを凝視し、今日が二〇一五年、十一月二十七日…ついでに言えば、午前六時三十八分であることを確認した。

 やっぱり、時が巻き戻っている。 

 夢なのか、現実なのか…。

 本当に、今日、あの場所で、あの女の子がトラックに轢かれるのか…?

 いや、きっとそうに違いない。そうであってほしい。

 脳裏に過るのは、あの薄汚い男の姿。

 ずっと、やり直したいと思っていた。

 そして僕は、神さまのような存在に、やり直しのチャンスを与えられたのだ。

 正直に言えば、僕は、人の命も助けられないようなどうしようも無い人間なので、神さまにチャンスを与えられるような筋合いはない。身分不相応だ。

こんなことをするくらいなら、最初から恵まれた星のもとに生まれさせてくれよ…とは思うが、これが俗にいう「神の気まぐれ」なのだろう。

とにかく、チャンスを与えられたことを確信した僕は、クリスマスの日の朝のように、心臓が高鳴るのを覚えた。

冷蔵庫の前で腕を組み、これからすべきことをじっと考える。

女が事故で死ぬのは、午前七時五十分ごろ。場所は、家を出て一キロほど先の、国道と合流する交差点だ。

 僕がすべきことは、女が事故で死ぬよりも先に、彼女を救うこと。

 そうすれば、未来ある女はこれからも生き続け、トラックの運転手は人生を棒に振ることはない。通りすがりの者たちも、「死体にスマホを向ける」なんて愚かな行為に走らず、今日も何気ない日常を送ることになる。

 そして僕は、人の命を救った…という事実を得ることで自信を抱き、女には感謝され、これから先、輝きのある日々を突き進んでいけるようになるのだ。

 よし…やってやる。

 そう一人で意気込んでいると、背後で、「うおっ」と男の悲鳴が聞こえた。

 懐かしい声…。振り返ると、寝間着姿の父が立っていた。

父は、冷蔵庫の前に立っている黒い影が僕であることに気づくと、先ほどの悲鳴をかき消すような舌打ちをした。

「なんだよ、お前か…、驚かせやがって」

「早くに目が覚めたんだ」

 見た目十五歳。精神年齢二十一歳の僕は、爽やかな笑みを浮かべて父に言った。

「父さんも、どうして早くに起きてるの? まだ仕事の時間じゃないよね?」

 父は眉間に皺を寄せた。

「別に、オレが早く起きようが勝手だろう? それを知ったところで、お前に利益があるのか?ったく、朝の気分の悪い時に、そういうどうでもいい質問をするな。そういう気が回らない部分があるから、お前はダメなんだよ…。大体、冷蔵庫の前で何をやってたんだ? 食料でも…」

「食料は漁ってないよ」

父の声を遮って言う。

「今日の日付が気になってね。ほら、僕の部屋にカレンダー、置いていないし」

 言おうとしていることを予測されたのが気に入らなかったのか、父はまた舌打ちをした。そして、ねちねちと言った。

「人の言葉を遮るなよ…。失礼なやつだな…。そういうことをしていると、社会に出てやっていけないぞ? 大体、冷蔵庫の前に立っていたなら、『食料を漁っているのか?』って思うだろうが。そういう誤解を招く行動を辞めろって、何度言ったらわかるんだ…」

「冷蔵庫にはカレンダーを貼っているからね。しかも扉を開けていなかったんだ。『食料を漁っているのか?』とは思わないよ。僕はね」

「カレンダーくらい…、部屋に置けよな…。それに、日付がわからなかったって…、お前普段どんなことを考えながら生きているんだよ。時間の管理くらい、社会人じゃ常識なんだ。ちゃんとやっとけよな」

「うん、そうだね」

 食い気味に頷くと、父の目がすぐにギラリと光った。どうせ、「なんだ? その食い気味な態度は? それが目上の人間に対する態度なのか?」と言うのだろうと思ったが、違った。

「なんだ、お前、いつもと違うな」

 流石、揚げ足をとるために、子どもの観察を欠かせない親だ。僕がいつもと違うことに気づいたようだ。

「そうかな?」

 ふふっと笑って首を傾げる僕を見て、やはり何かがおかしいことに気づいた父は、なんとなく侮蔑しながら聞いてきた。

「何か、楽しいことでもあるのか?」鼻で笑う。「そうやって、態度に出るのは、いけないな。精神がまだ弱い証拠だ。社会に出るなら、毅然と…」

「そうやって、人の揚げ足取りをとるのは、社会人としてどうかと思うけどね」

 まさかの反論に、へらへらと笑っていた父の顔が固まった。薄暗闇でも、みるみる赤くなり、膨らんでいくのがわかった。このまま爆発するか? と身構えた僕だったが、すぐに父は空気が抜けた人形のように肩を落とした。

「お前みたいなガキと話していると、時間がもったいないよ…。そうやって目上の人間に口答えする奴は、社会にでてもやっていけない。せいぜい、失敗して大恥をかけばいいさ」

 図星だったのか、それとも、本当にそう思ったのかは、その気怠げな声から判断することはできなかった。父は太った身体を動かし踵を返すと寝室へと戻って行ってしまった。

 残された僕は、冬の大気が充満した息を吸い込み、小さく拳を握った。

 初めて、父に勝利した瞬間だと思った。

 大丈夫。僕は大丈夫。

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