「おい、学校はどうした?」

 父の声で我に返った時、僕は玄関に立ち尽くしていた。

 父が怪訝な顔で僕を見ていて、それから、鼻で笑った。

「お前、もしかして、さぼったのか? オレに学費を払わせているのに、良い身分だな。そんなやる気が無いようじゃ、社会に出てから行けないぞ? まあ、お前がやる気が無いって言うなら、すぐにでも学費は返してもらうが…。何なら、今すぐ退学届を書くか?」

 そうぐちぐちと言う父の横を通り過ぎ、僕は自室に入った。反射的に鍵を掛け、椅子に腰を掛ける。鞄は持ったままだった。

 ああ、なんてものを見てしまったんだろう…。と、後悔が胸に押し寄せる。

 若い命が散ったところを目の当たりにして、何を不謹慎なことを言っているんだ! と言われるかもしれないが、本当にそう思った。

 あの血まみれの死体。轢き殺した者の心配をせず、自分の人生に絶望する運転手。救急車も呼ばず、息を呑み、スマホのカメラを向ける野次馬。その全てが、醜くて仕方がなかった。

僕は人間を尊敬していたかった。

物理的にも精神的にも、醜い姿なんて見たくなかったのだ。

あの女には、ちゃんと信号を見て立ち止まってほしかった。例え轢かれそうになっても、トラックがギリギリで急ブレーキをかけ、その後「大丈夫か?」「大丈夫です。すみません」という会話が交わされてほしかった。例え接触したとしても、女は軽い怪我で済み、通りすがりの者たちはすぐに救急車を呼ぶことをしてほしかった。

それが、僕が見たかった、人間の「尊敬すべき」姿だった。

僕は、人間の美しい姿を、見ていたかった。人間を尊敬していたかった。

歩いていて、「おはようございます」と言えば、「おはよう」と返すような…。ゴミが落ちていれば、黙って拾い上げ、ポケットにねじ込むような…。買い物をして商品を受け取った後は、「ありがとうございました」「ありがとうね」と言うような…。愛し合うときは、性欲なんてものをかなぐり捨てて、柔らかい胸に顔を埋め、心臓の音を聞き合うような…。

僕が見ていたかったのは、白い紙に描いた絵巻物のような、崇拝的な人間の営みだ。決して、血まみれの女とか、地団太を踏む運転手とか、スマホのカメラを向ける野次馬なんて、見たかったわけじゃない。

 そして、それを見てしまったすべての原因は、僕にあると思った。

 どうして僕は、あの女の子を助けられなかったのだろう? 僕があの女の子を引き留めてさえいれば、人間の醜い姿を見る必要はなかったんじゃないか? って。

 簡単なことだ。僕が、あの女の子の腕を、掴んでいればよかっただけ…。

 全部、僕のせいだ…。

 あの事故以来、もともと狂っていた僕の人生の歯車が、さらに狂った。

 ご飯を食べているとき、歩いているとき、勉強をしているとき…、ふとした瞬間に脳裏を過る、あの女の子の死体…。その度に連動して、あの女の死体を前にして人間らしからぬ行動をとった野次馬たちの顔が思い浮かんだ。

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