③
そんな、画に収められたような。寒い日だった。
まるで、牢獄に入れられたような鎖された空の下、僕が白い息を吐きながら、人通りの少ない道を歩いていると、前方二〇メートルほど先に、女の子の姿が見えた。
遠目で、背中から見たために顔はわからないが、かなり小柄な印象だ。風に靡かれた髪は黒くつややかで、揺らめくスカートの裾からは、華奢な脚が覗いている。そして、僕と同じ高校の制服を身に纏っていた。
最初は、気にしていなかった。僕と同じで、のんびりと学校に行っているのだと思った。
だが、その考えはすぐに消えることになる。
僕の二十メートル先を、女は髪を揺らしながら歩き続ける。その足元は、まるで酒に酔っぱらったように覚束ないものだった。
女は歩く。僕も歩く。
女は躓きそうになる。僕は歩く。
女は天を仰ぐ。僕も空を見てみたけど、何も無かった。
女が交差点に差しかかる。僕はまだ、二〇メートル後ろ。
女が左右を見渡す。僕はなんとなく足元を見る。
女が道路に歩み出る。僕は顔を上げる。
次の瞬間、右から大型トラックが走ってきて、女の身体に激突した。
僕は「あ…」と声をあげる。
空にヒビが入ったような感覚とともに、世界が少しだけ色あせて、すべての動きがゆっくりになって見えた。
女の身体が、引き伸ばされるみたいにして、トラックのヘッドライトに張り付く。皮膚が裂けて、鮮血が弾けたかと思えば、ゴキゴキッ! って、薄い肉の中で、骨が砕ける音。トラックの急ブレーキ音とともに、視界の外へと吹き飛んでいった。
また、世界が色を取り戻し、いつものように秒針を刻み始める。
再起動に五秒かかった僕は、ふらっと走り出し、交差点に出た。
見間違いじゃなかった。
左を見ると、二十メートルほど先にあのトラックが停車していた。近づいて見ると、ヘッドライトに蜘蛛の巣状の亀裂が入っていて、絵の具でも散らしたかのような赤い斑点が付着していた。
「ああくそ! ふざけんな! くそ!」
トラックの運転席の扉が開いて、運転手の若い男が悪態を付きながら出てきた。
男の視線の先、つまり、停車したトラックの前方には、あの女が倒れていた。
腕の関節はありえない方向に曲がり、めくれ上がったスカートから覗く細脚は千切れかかっている。傷口から流れ出た鮮血は半径一メートルを染め上げ、遠目から見ると、まるで潰したトマトのようだった。首は一〇〇度くらい曲がって、半開きになった口からは粘っこい血が流れ出ている。対して、目はかっと見開き、灰色に濁った黒目が、じっとこちらを見ていた。
僕はその目に吸い込まれるようにして女に歩み寄る。その間にも、裂けた女の皮膚からは血が溢れ、道路脇の側溝へと流れ出ていた。地面を食うようにして広がる血だまりは、冬の日差しを反射して、てかてかと黒光りしている。
「くそ! くそくそっ! 何だよ! 何なんだよ! 急に飛び出してきやがって!」
トラックの運転手が地団太を踏む音で、我に返った。
歩道で見ていた誰かが歩み寄ってきて、男の肩を掴む。
「何をしているんだ。早く救急車を呼ばないか!」
「ふざけんな、ふざけんな」
なんとなくわかる。女は助からない。即死だ。
十秒、二十秒と経つ度に、砂糖に群がる蟻のように、野次馬が増えていった。皆、道路の中央に倒れている女だったものを見て、様々な反応を見せた。
青ざめる者。その場で吐く者。スマホのカメラを向ける者。「やばいやばい」と声をあげる者。それを注意する者。言い返す者。
放心して立ち尽くす僕の横では、女の子を轢いた運転手がひたすらに「くそ! クソッ!」と地団太を踏んでいた。信号が赤だったというのに飛び出してきた女の安否よりも、自分の人生が終わったことを嘆いているのだ。
ふと見ると、倒れた女の腹が裂けて、ピンク色の腸が流れ出ているのがわかった。
それを見た瞬間、僕の中で、何かがパキリ…と乾いた音を立てて壊れた気がした。
後のことはよく覚えていない。
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