蒼玉の傘

草葉野 社畜

とある男の思い出話


――すいません。コーヒーを奢っていただいて。ええと、どこまで話して……、これまでに出会った大切な人の話、でしたっけ。


そうですね……、やはり僕にとっては、「彼女」は最も大切な人と言えますね。過ごせた時間は短かったですが、片時も忘れたことはありません。


彼女は、僕のことをどう思っていたのでしょうか。

僕は、彼女に何か伝えられたのでしょうか。


そんなことを考え続けて、いつの間にかこんな歳になりました。


――え、詳しい話を聞きたいのですか?構いませんが……


貴方は随分変わっていますね。偶然隣に座っただけの人間の、つまらない思い出話を聞きたいなど。


――なるほど、小説家をされている。次回作のネタにしたいと。はは、正直ですね。


わかりました。では、少しだけお時間をいただきます。



……これは、たった2ヶ月の、彼女との思い出話です。









彼女と出会ったのは、ジメジメと雨の降る日でした。

僕は、雨と汗で肌にへばりつくシャツをつまみながら、横断歩道の信号が変わるのを待っていました。湿気を少しでも逃がそうと、襟元をパタパタと動かしますが、あまり意味がありません。僕は早く家に帰って着替えたい一心で、赤く光る人影を睨みつけていました。


やっと信号が赤から青に変わり、傘を差す人々が一斉に動き出します。僕も流れに身を任せたまま、反対側へ渡ろうと足を一歩踏み出しました。このまま交互に足を動かし、家へ帰り風呂へ入る。そして晩御飯を食べて、明日の準備をしてから眠り、また朝を迎える。そんな、僕の何でもない日常は、向こう側から横断歩道を渡ってきた「彼女」を見た瞬間、大きく変わることとなりました。


まず目についたのは、鮮やかなブルーサファイアの傘でした。まるで海の底を煮詰めたような色合いのそれは、群衆の中でも一等目を引くものでした。その艶やかな光沢をなぞるように目線を下げ、ぼくは傘を携えていた人物の顔を見たのです。

――それは、雷に打たれたかのような衝撃でした。


顔の輪郭に沿って整えられた、灰色がかった短い髪。

丸くてつぶらな目は、一見して「可愛らしい」という印象を与える。

なのに、当の本人は眉をひそめて、何処か遠くを見つめている。

では、その小柄な身体に、何か悲しみを背負っているのか、と思えば、足取りは力強く、背は真っ直ぐと伸びていました。


目を奪われる、とはこういうことなのかと、僕は実感しました。彼女が一歩、また一歩と歩き、傘が小さく上下するのが、やけにゆっくりと感じました。もちろん、彼女は僕のことなんて見ていません。単に横断歩道ですれ違う相手をまじまじと見つめるなど、むしろ失礼に値します。


そう、それなのに、僕は彼女から目が離せませんでした。


彼女が段々と近づくにつれ、僕の心臓が煩く鳴っていたのを覚えています。人の波に流されるよう、僕たちは距離を詰めていきました。そしてすれ違おうとしたその時、彼女はふとこちらを見上げました。


その丸い目の中に僕の姿が映った瞬間、何か声を掛けねば、いや何と言えば、と頭が真っ白になってしまいました。時間にすれば一秒も満たない刹那でしたが、僕があまりにも必死な顔をしていたからでしょうか。彼女は微笑んで、会釈をしてくれたのでした。


彼女にとっては他愛ない挨拶だったのでしょうが、僕にとっては奇跡も同然です。胸が締め付けられるような、逆に満たされて今にもはち切れてしまいそうな心地で、もう足を前に進めることができませんでした。


ぐるりと身体を反転させ、横断歩道を引き返しました。彼女の持つ鮮やかな青は、もう歩道の上にありました。人の波をかき分け、僕は必死にその傘を追います。見知らぬ人と肩がぶつかり、すれ違う人の怪訝な視線を受けながらも、僕は進みました。


何とか手を伸ばせば届きそうな距離まで近付き、そして、彼女を呼び止めるべく口を開いたのですが、僕はまた頭が真っ白になりました。これは所謂、ナンパ、というものをしようとしているのかと、ここで自覚しましたが、そんなこと、今まで一度もしたことはありませんでした。


ですが、ここで声を掛けなければ、おそらく二度と彼女と会うことはないでしょう。考える時間はあまりありませんでした。


僕の口から脳を通さずに出た言葉は――、「青い傘のお姉さん、僕とお茶をしてください!」でした。


ええ、あまりにも陳腐で使い古されたナンパの常套句です。しかも、イケメンが声をかけるならまだしも、僕は平々凡々な顔立ちの一般人。しかも緊張しすぎて、最後の方は声が裏返っていました。


これはとんでもない醜態を晒してしまった、と絶望しながら彼女の背を見ていました。そのまま何も聞こえなかったように去ってしまうのか、それとも、困ったような顔で「ごめんなさいね」と言われてしまうのか。どちらにせよ良い想像は全くできませんでした。


彼女は、ゆっくりと振り返りました。その顔は僕の予想とは違い、目を少し見開いてキョトンとした表情をしていました。そして、

「私でよければ、喜んで」

と花が綻ぶように笑ってくれました。


さて、念願叶ったわけですが、右手と右足が同時に出てしまうくらい緊張していた僕が、おしゃれな喫茶店などに行けるわけもなく。結局、近くにあったファミレスに入りました。


店員さんに席に案内され、僕と彼女は向かい合って座ります。沈黙が場を支配してしまう前に何か話し始めなければ、と視線を忙しくしましたが、なかなか上手い切っ掛けが見つかりません。すると、彼女は

「声をかけてくれて、ありがとうございます。まずは自己紹介からどうでしょう?」

と助け舟を出してくれました。


名前から始まり、住んでいるところや年齢、最近お気に入りのアーティストやドラマなど。お互いに話していくうちに、意外と共通点が多いことがわかりました。この歌がよかった、ライブに行きたいけれど、なかなか時間もお金もない、近所に猫がたくさんいる公園がある。そんなことを話しているうちに、僕の緊張も溶けずいぶん会話が弾みました。


時間はあっという間に過ぎていったようで、窓の外を見るともうずいぶん暗くなっていました。日が落ちたことにも気づかずに、夢中で話し続けていたことが気恥ずかしく、前をちらりと向くと、彼女も似たような顔をして、頬を薄く染めていました。なんだか面白くなって、どちらからともなく小さく笑いだしたのでした。そして、お互いの連絡先の交換をしてから、「ぜひ、また今度」と店を出ました。


その日の晩、僕は彼女に連絡を入れました。今日のお礼と、また会いたいということ。緊張で震える指先で送信ボタンを押した後は、もう眠るどころではなかったです。返事が来るか、それとも無視されてしまうか、いやでも話は盛り上がったはず……、と頭の中で自問自答を繰り返していました。


すると、静まり返っていた僕の部屋に、通知音が響きました。彼女から返信があったのです!そこには、彼女からのお礼と、次に会える日程について書かれていました。僕は思わず布団をはねのけ、画面を食い入るように眺めつつ、一人でガッツポーズをしていました。



その後はもう、夢のようでした。

週末になるたび待ち合わせをして、彼女と二人で出かけました。


ある時は、遊園地へ行きました。マスコットキャラクターと写真を撮り、ジェットコースターでは思いっきり叫びました。怖いと評判のお化け屋敷もありましたが、僕も彼女も入口を見ないように早足で通り過ぎたので、顔を見合わせて笑いました。


ある時は、公園で花火をしました。手持ち花火に火をつける時の、彼女の真剣な顔をよく覚えています。その横顔がとても綺麗で、僕は自分の花火なんか見ていませんでした。最後には線香花火を持ちながら、二人で小さな赤い球が弾けるのを眺めていました。


ある時は映画へ、ある時は水族館へ――。彼女と会うたび僕の心臓は高鳴り、まるで空でも飛べるような心地でした。そして家に帰ると、早速次の週末に向けて指折り数える、というように過ごしていたのです。



そしてあの日は、街を散歩していました。あそこは最近できた店だとか、お気に入りの本屋がどこだとか、冬になればここら一帯はイルミネーションが綺麗と評判だとか、本当に他愛もない話をしていました。


しかし、段々と彼女の口数が減ってきてしまったのです。もしや、歩き疲れて喉が乾いたのかと思い、通りがかりの喫茶店に入ったのですが――席に着いた彼女の表情はとても暗いものでした。驚いた僕は、何か気に障ったことを言ってしまったのかと慌てて尋ねました。


彼女は口を開いては閉じ、何かを我慢しているように眉をひそめていました。何か、大きな覚悟を決めようとしている姿を見て、僕からそれ以上尋ねることはできませんでした。僕は、彼女が話したくなるのをただじっと待っていました。


10分だったのか、30分だったのか。実際はそんなに経っていなかったかもしれませんが、僕にとっては永遠にも感じる時間でした。


彼女は、ゆっくりと語ってくれました。

最近調子が悪く、病院に行ったところ腹に腫瘍ができているといわれたこと。

大きくなる前に摘出する必要があるので、来週には手術をすること。

可能性は低いが、手術が失敗する可能性もあると聞かされたこと。


話すうち、彼女の丸い目からポロポロと涙が流れていました。宝石のようなその雫を拭かねばと僕は腰を上げましたが、自分のカバンからハンカチを取り出した彼女自身に先を越されてしまいました。


一通り話し終わった彼女は、肩の荷が下りたように穏やかな顔をしていました。「突然こんな話をして、ごめんなさい」と目を伏せる彼女に、僕はひたすら「大丈夫だ」と繰り返し伝えていました。


そして心の中で決めました。彼女の手術が終わり、退院した暁には、彼女に告白しようと。手術前の不安な時に言うよりも、落ち着いてからのほうが良いと思ったのです。――愚かな判断だと、今なら思います。


日が暮れて、いつものように帰路につこうとしたとき、僕は彼女に言いました。「次に会う場所、僕が決めていいですか」と。彼女は顔を赤くしながらも、「はい」、と小さく答えてくれました。


手術が終わったら連絡する、という約束を交わし、僕たちは背を向けて歩き始めました。二歩進んだところで振り向くと、見えたのは小さくなっていく彼女の背。彼女もこちらを振り返ってくれないだろうか、と思っているうちに、その姿は人混みに飲まれて見えなくなってしまいました。



――そして、次の週末、彼女からの連絡は来ませんでした。


手術はどうなったのか、こちらから連絡してよいものなのか。まさか、万が一のことがあったのではないか――、と普段の生活もままならないほど、僕は不安な気持ちに囚われていました。


彼女の手術予定日を3日過ぎた頃、居ても立っても居られず、近所の病院をしらみつぶしに探しに行こうか、と思っていた矢先、彼女からの連絡を示す通知音が鳴りました。


内容を確認すべく、急いで読み、

――文章の意味が分からず、もう一度読み、

脳が理解を拒んで、もう一度読みました。


何度読んでも、変わりませんでした。手が震え、口からは無意味な音が零れました。


頭の中が真っ黒に塗りつぶされていく中、目にした文章がグルグルと回り続けます。自分の髪の毛を引っ張っても、頭蓋骨に響くようにぶん殴っても、消えてくれません。これ以上何も見たくない、聞きたくないという一心で、僕は喉が枯れるまで叫びました。


届いたのは、彼女からの連絡ではありませんでした。


そこには、「生前、お世話になったと娘から伺いました。娘の葬式に出てやってください」という文章が、日時・葬儀場の住所とともに記されていたのです。





……それから後のことは、よく覚えていません。ただ、気が付いた時には葬儀場にいました。飾られている彼女の写真と棺が、なんだかひどく遠く感じ、まるで夢の中にいるような感覚でした。


葬儀の後、少しだけ彼女の両親と話すことができました。目を真っ赤にして泣きはらした彼女の母親が言うことには、どうやら腹の腫瘍が想定外の大きさだったことにより、手術中の出血が酷く、医者も手を尽くしたが、彼女の体力が持たずそのまま息を引き取ったそうでした。また、彼女は「絶対に手術は成功するから、大丈夫」と話していたため、遺書の類は無いとのことでした。


僕は彼女の両親に深く頭を下げ、葬儀場を後にしました。


結局、彼女に伝えたかった想いも、夢想していた一緒に過ごしていく日々も、全て彼女とともに煙になって消えてしまいました。









はい、これで僕の思い出話は以上です。


――その後の僕の人生?そんなもの、お話できることは何もありませんよ。


生きる目的も成し遂げたいことも見つけられず、ただその日その日を過ごすだけ。街に出て彼女の面影を探し、雨の日に青い傘を見つけてはその持ち主を確認する。


本当に、それだけです。つまらなかったでしょう?


――参考になった、ですか。それならば……良かったです。


――はは、後日談なんてものはありませんね。それこそ、小説ではないので。



……ああ、でも。後日談というか、何というかですが。


実は僕にも腫瘍ができているようで、あまり長くないと医者から言われました。もちろん、手術なんて受けませんよ。


これでやっと、彼女に会えるのですから。


――そうですね、もしこの話をもとにした小説が出るのなら、あの世から覗かせてもらいますよ。



では、そろそろ僕は行きますね。コーヒー、ありがとうございました。





さようなら。

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