第1話
ルスランはぱかりと目を開けた。どうやらどこか屋内のようで、柔らかなベッドで寝ていたようだった。ゆっくりと身体を起こしてぼうっとしていると、おお、と低い男の声が聴こえてきた。
「目が覚めたかい」
「……誰? ここどこ?」
「私はレフ・アルスカヤだ。君は谷底で倒れてたんだよ。もう丸二日寝ていた」
「くそ。あの野郎――痛っ!」
「動いちゃいけない。両腕は派手に裂けてるんだ。おーい。レティシア」
レフが扉の向こうへ呼びかけるように声を上げると、扉を開けて一人の少女が入って来た。十七、八だろうか。ルスランよりも幾分か若い。
「娘のレティシアだ。痛み止めを持って来てくれ。食事も」
「はーい」
「いや、これ以上迷惑は」
レティシアを止めようと手を伸ばしたが、言い終わるよりも早くにルスランの腹が大きな音を立てた。空腹を告げる音が部屋に響く。
「……あーっと……」
「食欲あるのは元気な証拠ね。ちょっと待ってて!」
「できたら持って来るから横になってなさい」
「すいません。有難うございます」
くるりと身を翻してレティシアは台所へと向かい、レフは頭を撫でて部屋を出て行った。すぐにとんとんと食材を切る音が聴こえてきて、消化に良い物にしなさいとほのぼのした会話が聴こえてくる。いかにも人の良さそうな親子でつい笑みがこぼれた。
それから十日もすれば小さな切り傷や擦り傷はほとんど見えなくなり、一ヶ月もすれば両腕も動かせるようになった。さすがに剣を振るうのはまだ無理だったが、両脚は無事だったのでもう出て行くことはできそうだった。そんなことを考え始めたが、窓の外を見るとその意気は簡単にくじかれた。
「ここっていつもこんな吹雪なの?」
「冬はそうよ。急ぎじゃないなら春になるまでいたらいいわ」
二か月ほどすると吹雪は大人しくなり、三か月すると雪を見なくなった。次第に温かくなると目に留まる植物も姿を変え、故郷では見たこともない花が咲き誇っていた。乳白色で真ん丸の花弁はきらきらと光の粒子が混じっているかのように煌めいている。
「面白い花だな」
「ルーミシエットの花よ。この辺にしか咲かない希少な花。春しか見れないのよ」
「じゃあもうじき終わりか」
「……そうね。少しすればまた吹雪よ」
レティシアはすうっと俯き口を閉ざいした。季節の移り変わりを歓迎しなくなっているのは明らかで、その理由は冬の厳しさに対してだけじゃないことはルスランの袖をきゅっと力なく摘まんでいるのを見ればすぐに分かった。
「冬は危ないわ……」
行かないでと言われたことはなかった。レフはこのまま残ってくれれば有難いとよく言っているが、レティシアは名言することはない。否定されることを恐れている姿を見ていると突き放すこともできず、そうするうちにルスランも離れがたくなりつつあった。気が付けばもう一年、もう一年と経ち、もう定住することを告げても良いかもしれないと思い始めた頃に事件は起きた。
「きゃあああ!」
「レティシア!」
本格的な冬を迎える前に散歩をしようなんていつも通りの会話をしていた。たまには違うところを歩いてみようと慣れない道を行ったが、そのせいで大地の亀裂に気が付けなかった。かろうじて崖に引っかかったレティシアの手を掴み勢いよく引っ張り上げたが、その反動でルスランの身体は崖へと飛んだ。
「ルスラン!!」
レティシアの呼ぶ声はあっという間に聞こえなくなっていった。人生二度目の墜落で再び身体が引き裂かれ、ルスランはその痛みで意識を失った。
*
ぱちりと目が覚めると背の高い雑草に囲まれていた。ちくちくと草に突っつかれるのがくすぐったくて体を起こしたが身体に痛みは無い。だがどういうわけか下半身だけ服を着ていない。奇妙な状態にぱちくりと大きな瞬きをした。見る限りで外傷は無く崖を落ちたとは思えない。
「結構な怪我したと思ったんだけどな。ていうか……」
もう一つ不思議なのは天候だった。越冬の準備を始めていたというのに日差しはやけに温かく、あちこちにルーミシエットの花が咲いているのは明らかに春の最中だった。状況が理解できなかったが、とにかくレティシアの無事を確認しようとマントを下半身に巻き付けて家へと向かった。
家に戻ると、いつも通りレティシアが洗濯物を外に干している。無事だったことにほっと安心し駆け寄った。
「レティシア!」
「え?」
「よかった! 無事だったん――え?」
腕を掴んで顔を見ると、それは五十は過ぎているであろう女性だった。到底二十歳前後のレティシアの姿では無かったが、全くの別人とは思えなかった。面影があるどころではなく、おそらくレティシアが五十になった予想図のようだったからだ。
「レティシア……?」
「何で、だってルスランは火葬、したのに」
「は?」
「下半身だけになってた……生きてるはずがないわ……!」
「……え?」
ふと自分の腰に手を当て、ルスランの中で全てが繋がった。下半身だけなくなっていた服。遡った季節。年老いたレティシア。
そして、思い出されたのは一つの言葉。
『永久を生きろ』
鸞の言葉の意味を、ルスランはようやく理解した。
(不死にされた……!)
おそらく下半身の再生に四十年近くを費やしたのだろう。その分レティシアは歳を重ねていたのだ。
「レティシア! 俺は!」
「ひっ!」
レティシアに伸ばした手は叩かれた。その目はおびえきっていて、まるで化け物を見るようだった。
「……ごめんな」
謝ることだったかどうかは分からない。けれど元より転がり込んだだけのルスランにこれ以上縋るようなことは言えなかった。できたのは、それ以上何もせず立ち去ることだけだった。
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