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 居心地のいいサードプレイスではあったが、何の不平不満もない、というわけではない。

 ある日佐都紀と二人きりになり、一志は前々から少しネガティヴな印象を抱いていた澤部さわべという中年の女性職員の愚痴を言ってみることにした。

「澤部さんって、割とちょくちょく、話しかけても無視されることが多いのが僕は気になっている」

「それは……すみません」

 と、頭を下げる佐都紀に一志は慌てた。

「とんでもない」

「具体的に、澤部さんのどの辺が気になりますか? 無視されるっていうのは?」

「そうねえ」と少し考える。「シンプルには好きだし、いい人なんですけど」少しずつ一志は説明を始めていった。「澤部さん、なにかをしているときはわかりやすく無視するのよね。話しかけても返事がないという」

「ふむ」

「やっぱり、話しかけても返事がない、無視をされるのって単純に面白くないし、あるいは僕の側に問題があるときは瞬時に“ちょっと待っててね”ってぶった斬ってくるっていうのは気分が悪い」

「ああ、なるほど〜」

「僕の病院の先生に言わせると勉強不足で経験不足ってことだけど。還暦かんれき近くまで働いていてもそれは変わらないって」

「ぼくも他人事ひとごとじゃないです〜」

 ふう、と、一志は軽くため息をつく。

「ここの施設には苦情相談窓口がないからね。他の地活ちかつはどうか知らんけど。だから職員さんたち自身が内省に至るチャンスがほぼないわけですよ。それって社会人としてどうなのかなと思う。いや澤部さんのことは好きではあるんですけども、どうしてもそこが気になるポイント」

「確かに、ぼくに対する不満をぼくに直接言うのは難しいですよね」

「そうね、いまのところサティに不満はないけども」

「ありがとうございます」

 再び頭を下げる佐都紀に、再び一志はとんでもないと慌てる。

「ただ——」

 と、そこでまた話題が変わる。

「はい」

 当然、佐都紀も慣れっこだった。

「僕としては、結果的には良かったと思うんだけど」

「と、おっしゃいますと」

「うん」と頷き、やがて一志は言葉を紡ぐ。「Aの話はこの人にしよう、Bの話はこの人にしよう、って区別ができるようになった。そして、Aの話を聞いてくれたからと言ってBの話も聞いてくれるとは限らない。だから、いま自分の話を聞いてくれる人がたくさんいるからこそ、澤部さんみたいな人のことも受け入れられるし、話を聞いてくれる人が話を聞いてくれないときがあっても仕方がない、と思えるようになったんですよね。要はいちいち傷つかなくなった」

「素晴らしい」

「怪我の功名こうみょうって言っていいんでしょうね。ここのセンターの人たちが全員いい人だったら、僕の長い人生を長い目で見たときにあまりいい結果にはならなかったかもしれない」

「はい」

「先生に、前、傾聴の技術について聞いたことがあるんですけど」

「はい」

「傾聴で一番実践しやすい方法は“自分の意見を言わない”ということらしく」

「主役はあくまでもクライアントさんですからね」

「澤部さんは自分の意見の多い人ね」

「そうなんですね」

「女はお前の意見など求めていない、共感なり同情なりしてほしいだけだ、みたいなのありますけど、別に性別関係なく、アドバイスって注意してないとアドバイスする側が主役になっちゃうじゃないですか。でもクライアントが自分の話をしているときはあくまでもクライアントが主役なわけだから、そこをすり替えられたらやっぱり面白くないわけで」

「わかりますよ」

「だから、僕——」

 と、一志は満面の笑みを見せた。

「だいぶ健康になったなあと。生きやすくなってきたなあと思うんです。そういうふうにものを考えられるようになったっていうのは」

「おお〜」

 パチパチと手を叩く佐都紀の反応が、一志には嬉しかった。

「でさ」

「はい」

 そして話は再びがらりと変わる。

 ——人生はなにがあるかわからない。

 だからこそ、安心安全な場所で、対処のしようがある“嫌なこと”が起こるのは、自分の人生に有益に働いている。結果的に日常生活全般における“嫌なこと”にいつまでも引っ張られたりはしないように、有利に働いている。

 そんなふうにものを考えられるようになったのは、本当に自分が健康な状態に近づいているということの証左だと、一志にはそう思えるのだった。

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