第二話 なごませて木の下で

2-1

現金書留げんきんかきとめ届いたよ」

「あ、それはよかったです」

「やるって言ったじゃん」

「いやあ、普段のただのお小遣いだったらありがとうございますなんですけど、緊急事態の最中さなかにいただいたお金なので、これは返さねばと」

「……お前も大人になったなあ……」

 ——“借りたものを返した”ということで大人になったという評価になるのはなぜだろう。


 普段一志は内省的で静かな小説を書くことが多い。意識しないで執筆した場合、基本的には特別事件が起こることのない話を書いている。それはなぜかというと、通常の現実において事件などそうしょっちゅう起こることではないからだ。一志は“リアル”な話を書きたかった。

 だから、“わかりやすい”悪役、というのもほとんど登場しない。その理由も同じである。この世界に“悪役”という人物は存在しないからだ。もちろん一志だって嫌なやつだと思う相手には何人も出会ってきたが、しかしそんなのはあくまでも自分にとって嫌なやつであるというだけである。もしかしたらその人の家族や、友達たちは、そいつをいいやつだと思っているかもしれないし、あるいはその可能性の方がずっと高い。百パーセントの善人も悪人も存在しない。そう思うと、自分の紡ぐ小説の世界でわかりやすい善やわかりやすい悪を書く気には何となくならなかった。

 リアルな話を書きたいと思ってはいるが、それはファンタジーやSFを書かないという意味ではない。一志にとってリアルとは、おおよそ人間関係のリアルさのことを指している。だから細かい心理描写を書くことが多かった。それは結局自分の気にしいな性格が役立っているのかな、とぼんやり思う。気にしいだからこそ細かいことがいちいち気になり、故に細かい設定や世界観や人物の心の機微きびを細かく書こうとすることができるのかもしれない、と。だから、何となく、四十歳を目前にし少しは散歩以外の運動もして自分の身体を整えた方がいいのではないかと考えてはいるのだが、どこか気が引けた。身体を本格的に鍛えて自己肯定感が上がれば、それはつまり自分自身に対して否定的ではなくなるわけで、自己批判の精神がないとクリエイターとしてやっていくのは難しいのではないだろうかという気がしているのだ。

 という話を柔道をやっている丈にすると、「性格変わるぐらいやってみて言えることじゃないんすかね」とあっさり言われ、であるのであれば自分も少しずつ負荷ふかのかかる運動をしてみてもいいのではないかと思うようにもなる。

 要するに、一志は、ものの影響を受けやすいタイプだった。

 かなり長いこと一志は自分のそういった特性について悩ましかった。特に若い頃はそれを強く感じていた。貪欲どんよくなのはいいのだが、主体性がない——要は、この小説が一体なにを言いたいのか、ということがあやふやな物語ばかり書いていたと思う。それが本格的に一人暮らしが始まり、自立した生活を送らなければならなくなり、そしてセンターで仲の良い友達たちができて状況がやや変わっていき……そして、書くものにも変化が訪れたと思う。

 いい変化だ、と思う。

 以前読んだ本に、人間変わるべきときに変わる、と書かれていたことが心に引っ掛かっていたのだが、自分の場合はこの数年間がその時期だったのだろうな、と思う。

 特に——家族親戚を諦めてから。

 より良い方向へと変わっている。いい波に乗れている。

 家事をして、仕事をして、友達がいて、夢があり、趣味があり——あとは小説家デビューできたらなにも言うことはない。そういった日常を、いまの一志は過ごしていた。


 地域活動支援センター。

 いつものメンバーで話をしている。いつもお喋りな一志から話題を振ることが多い。

「女の人って、“痩せている”っていうのと“スタイルがいい”って言うのがごっちゃになっちゃってるんだよね」

 史生が「ダイエットしなきゃ」と言ったことから一志の思考ははじけた。

 みんなが耳をかたむけ始めたことを確認し、一志は続ける。

「ていうかそもそもそんなに男の目を気にして生きててなにが楽しいの。それにそれって要は、女を外見で選ぶ男がいい、って言ってるわけでしょ」

「きれいな自分が好き、っていうのもあるんじゃないの」

 という直亮に一志はおっしゃる通りと頷いた。

「だからやっぱり、あらゆる問題は“自分がどうしたいか”で決めるべきなわけよ」

「でも結局、きれいじゃない女の子って、男の人は眼中にないんじゃない?」と、史生は言ってみる。「まあ確かに自分都合で動くべきだっていうのはわかるんですけど」

「海川さんはまだ三十三歳」

「はい」

「まあ、若い頃はどうしてもルックス至上主義ですよね。でも、大人になるにつれて自分なりのオリジナルの優先順位が出来上がってくるはずなんですよ」

「それなんですけど、私は正直な話、そんなに男性の外見気にしないんですよ」

「女の時計は早いもんね」と知ったような顔で直亮が言う。「他に気にしなきゃいけないことは山ほどある」

 うん、と頷いたのち一志は続けた。

「だからいつまでも男または女は外見で選ぶじゃないかみたいに不満がる人って、端的に大人をナメている」

「ていうかそういう人って世の中のカップルがみんな美男美女だと思っているのかねぇ」

 丈の疑問に一志はちょっと考え、やがて言った。

「同じような能力、性質を持っているのなら顔のきれいな人を選ぶのは当然。厳密げんみつに言えば、自分の好みの方ってことだけどね」

「まあそうね」

「だからまあ海川さん。話はがらりと変わるんですが」

「はいどうぞ」

「女性が自立して生きていくことは確かに大切なことなんだけど、でもそれ男性が女性に対して自立して生きていこうっていうのは違うと思う」

 まさに変わったが、いまここにいるメンバーは誰もそれを気にしない。

「あくまでも女性が主体となって発言なり活動なりすることなんじゃないか。確かに大切なことで必要なことだけどそれはあなたの言うことじゃないよねっていうこと」

 一志からすれば恋愛と容姿に関する話題と、女性問題の話題には連続性があるつもりだが、しかし一志は基本的にいつも話題を唐突に変える癖があった。自分でも意識していないわけではないが、ここのメンバーが誰もそれを気にしないため常時そのスタイルでいくことにしているのだった。

 もっとも、話題を唐突に変えるという点では、ここのメンバーにさほど差はないのではあるが。

 一志は更に続ける。

「精神の障害だって、たとえそれが善なる心によるものであってもあくまでも精神の障害者が主体となって動くべきだし、どんな人だったりマイノリティの人だったりしても、“俺たちのことを俺たちじゃないやつが勝手に決めるな”って話。もしこのまま小説家デビューできたらそういうお話を書いていきたいと思うね」

 そこで直亮が空気を読まずに言った。

「でも、そういう活動家みたいな人って引くけどね」

 しかしいつものことである。

「ま、その辺はいい塩梅あんばいで、うま〜くやっていく、ってことさ」

 一志と丈は二人ともA型で勤務している。それぞれ別の施設に通っているが、だいたい勤務形態はどこも同じようなものなので、二人とも三時ごろからここに来ている。そしてそれに合わせて直亮もここに来ている。ちなみに直亮は無職だった。

 ここに来れば、みんながいる。

 自分たちのサードプレイス。

 心地よいサードプレイスである。

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