5-2

「どうぞ」

「ありがとう」

 史生がお茶をれてくれて、航也はそれを飲む。美味おいしいお茶だった。そして航平の遺影と渚の絵をぼんやりと眺める。もう、あいつはいないんだな、そう思った。でも史生たち海川家の一員としては、自分なんかよりずっとショックだろうな、と、思った。

 そう、家族としては––––。

「航平も、竹崎も––––親と仲がいいんだな」

 史生は、うん、とうなずいた。

「おかげさまで」

 知的障害を抱えた家族はその当事者と親密な関係になるのだろうか、と思った自分が、航也はなんて思慮の浅い人間なのだろうと思う。

 そんなのは結局、ケースバイケースに過ぎないのに。

「……俺は親とあんまり折り合いがよくなくてさ」

 なにか話題を、と思ったが、結局は自分の話になってしまったことを航也は恥じた。しかしみっともないと思いながらも話さないではいられない。史生はなにも驚かなかった。

「うん」

「親、っていうか、家族親戚なんだけど。全員ではないんだけど」

「うん」

「小さい頃から、家に居場所がないって思ってたんだよね。それで、別に不良ってわけじゃないけど派手な友達が昔たくさんいて、よくつるんでた。家族親戚からしたらちょっとしたトラブルメイカーだったわけだよ」

「そうだったんだ」

「……親には、“家に居場所がない”っていうのが、具体的にどういう意味なのかよくわからないだろうなと思う」

「仲が悪いの?」

「いや、普通には仲良しなんだけど、なんていうか、全体的に面倒な話を避けたがる人たちっていうか。人としてはいい人たちなんだろうけど」

「わかるよ、家の中の人間関係でトラブってるっていう日置くんのストレス」

「それなら家を出ればいいのにな」

 でも、と、史生は心配そうに言った。

「非常勤のお給料じゃアパート暮らしは無謀むぼうじゃない?」

「一戸建てならピアノもギターも弾き放題だしな」

 吐き気がする。結局のところ、家に不満があるのに家を出ないのは自分の利益を最優先に動いているからだ。居場所がないと思っているくせに、食事も洗濯もしてもらっていて、家に金を入れているとはいえ家賃というほどの額ではない。防音設備の整っているアパートに住むには給料が足りないし、だからこのまま不平不満を言いながら、そのまま家族と暮らしている。子どもならまだしも三十二歳の大人として、社会人として、自分は最低最悪な人間だと思う。

 航平はいいなと思う。以前自分をいましめたはずなのにどうしてもそう思ってしまう。あいつは生活の面倒を家族に見てもらいながらまるで生活ができるはずもない給料もとい工賃を稼ぎ、広いアトリエを作ってもらって好きな絵を描いていた。自分に吐き気がする。だからといって航平に憧れていたりするわけではないのに。そう、自分にも知的障害があればよかったなどとは微塵みじんも思わない。それは生活にあまりにも支障が出るから、という実際的なことよりも遥かに、“なんかイヤだ”という暗い気持ちがまずそこにあるからだった。いま、それをはっきりと自覚して、航也は自分自身に対する嫌悪感が果てしなく生まれ続けていた。自分はこんなに邪悪な人間だったのかと思うと、吐き気が止まらない。

 こんなことを考えている自分を、殺してしまいたい。

「合わないものは合わないよ」と、史生は航也に同情した。「あたしの施設の利用者さんんも、親とあんまり仲がよくない人いっぱいいるけど––––血が繋がっていようがどんな関係性だろうが、合わないものは合わないよ」

 史生は航也の目をまっすぐに見る。

「家族だって、人間関係だもん」

 史生はいま、自分がこんな最低なことを考えているなどとはまるで思っていないだろう。そんな自分に同情してくれる史生に罪悪感が止まらなかった。

「ごめん、なぐさめてもらいに来たわけじゃないんだ」

「いいよ別に。日置くんもショックだと思うし。むしろありがたいよ」

「そんな風に言ってくれて、ありがたいよ」

 ふと愛斗のことを思い出した。

 航平と出会ってから、いろいろなことを考えるようになった航也からすれば、愛斗が“なにも考えていない”ようにしか思えなかった。それはもちろん愛斗も愛斗で考えなければならないことは山ほどあるのだろう。妻のことや子どもたちのこと、仕事のこともそうだ。そもそもいろいろなことを考えるにあたって現代社会は忙しすぎる。どうしても自分ごと以外の問題は二の次三の次になるだろう。そしてそれは自分だって同じだ。かつて、自分は障害者とは関係のない生活を送っているから、自分はなにも言える立場にはない、だから自分はなにも言わないでいていいのだというある種の特権性に支配されていたことを思う。それがよくわかる。しかしそれでも愛斗の思慮のなさがどうしても気になる––––自分の家族親戚全般における“面倒な話を避けたがる”という彼らの傾向が。

 でも、自分だって航平と関わるまではこんな風にいろいろなことを考えたりはしなかった。だからあいつだって同じだろう。あいつだって、もし息子に知的障害があったりすればいまの自分と同じように絶対にものを考えるはずなのだ。そうならないのは結局他人事だから––––あいつに言わせれば「なんで俺がそんなこと勉強しなきゃいけないの?」とでもなりそうなところを、当事者になれば自分が一番ものを考えているみたいな顔をするのだろう。それは要するに、いまの自分そのもののような気が航也にはした。そんないまの自分自身、最低な人間で、それでも史生の優しさによってここにいるというのに。

 愛斗だって、なにかのきっかけがあれば、きっと変わる。自分と同じように変われるはずだった。だから––––愛斗が、単純に––––気に入らない。

 

 自分は最低な人間で、傲慢ごうまんな人間だ。

「俺はさ」

 その声色こわいろはあまりにも深刻だった。それが史生にもはっきりと伝わってしまったことがわかってももう遅い。それでも史生は、うん、と、うなずき航也の次の言葉を待った。

「航平のことが、大好きなんだよ」

 そう。こんな最低で最悪で、傲慢な人間の自分だけれど、その感情は間違いなくそこにあり続けていた。

 その想いは、確かなものだった。

 史生は少しきょとんとしていたが、すぐに目を細めた。

「本当に、ありがとうね」

 航也の罪悪感と自己嫌悪は止まらない。

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