第四話 光に吼える

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 米原一志よねはらかずしがしょっちゅう思い出すのは、中学生のときのとある事件のことだった。

 子どものころから、ある日学校に不審者ふしんしゃが出現し、そしてそれを自分が退治する、という想像を何度もしたことがある。その結果自分は英雄になり、しかしだからといって自分は「それがどうしたの」といった素知そしらぬ態度で過ごし、そのぶっきらぼうさによって周囲からの人気をより一層集める……などというストーリーだった。何度もした想像だった。

 そしてある日、実際に学校に不審者が現れ、あろうことが自分が授業を受けていた教室にナイフを持ってやってきてしまった。そのとき、一志は自分がこれまでそんなことを想像していたことを一切忘れひたすらおののく一方だったのだが、たまたま空手を幼稚園の頃から習っていた同級生がその不審者をあっという間に退治した。そして彼は英雄になり、しかし彼は「別に大したことじゃないよ」とクールに言って、それが余計に彼の人気を増すことになった、という思い出がある。

 あのときから一志は、自分が何者でもないことを理解したことをよく覚えている。

 自分は世界を救うこともないし、大切な友達たちを守ることも、好きな女の子を助けることも、なにもできない、ただの地味な人間であるということをよく思い知った。そしてそれは三十九歳になったいまでも考えることだった。二十歳の頃から統合失調症を患い、奇っ怪な幻覚が出現してもそれに関する妄想症状が起こっても、自分はあくまでもただの人間であるという意識はずっとそこにあり続けていた。

 その中学生の頃は不登校だった。特になにか決定的な理由があったわけではないが、とにかくある日玄関から一歩も動けなかったときからずっと不登校だった。しかし、仲のいい友達たちや、スクールカウンセラーのおかげで三年生の秋頃からなんとかして学校に通うことができるようになった。できるようにはなったのだが、せっかく登校できた日でも途中で帰ってしまうのが常だった。その理由は、教科書になにが書かれているのかさっぱりわからず、教師がなにを言っているのかまるで理解できなかったからである。それは当然で、自宅でもそれなりに勉強していたとはいえそれまでの積み重ねがなかったからだった。二年以上のブランクはあまりにも大きく、授業についていけないどころか自分がいまなにを教わっているのかすらも理解できないまま教室にいるのは苦痛だった。しかしクラスの友達たちに恵まれ、だんだんサボらないで教室にい続けることができるようになった。しかし、授業の内容がわからず、生来生真面目な一志としては寝ているわけにも落書きをしているわけにもいかなかったので天井の穴の数をひたすら数えていたということをときどき思い出す。

 あのとき、学校に通っていなかったら、自分はあの事件に遭遇することはなかったわけだから、ずっと自分のことを“何者”だと思っていたのだろうか、と思うと、僕は“何者”だったかもしれない自分に見捨てられてしまったのかな、と、なんとなく思い、なんだか残念な気分だった。

 その後、高校は通信制の学校に通い、なんとか卒業でき、親にすすめられたコンピュータ系の専門学校に通っていたと思ったら病気を発症した。そして、そのまま精神の障害者としての日々を過ごしている。

 だが一志は、自分が何者でもなくとも、あるいは精神の障害者になったとしても、世界を諦めてはいなかった。一志の夢は小説家であり、それは小学生の頃から一貫いっかんしている。本当だったら大学の文学部に行きたかったが、自分の学力でそれは叶わない。だから親は「役に立つから」と言ってコンピュータ系専門学校への進学を勧めたのだ。学校の勉強にはなにも興味が湧かなかったが、小説が書けるのであればなんでもいいと思っていた。だから、入院することになり通院することになったいまでもずっと小説を書き続けている。だがそれを去年まで世間に発表することはなかった。

 一志の念慮ねんりょで、いまはまだ自分の存在を世界に知らせるときではないとずっと思っていたからだ。それは何者でもない自分だからこそ虚無のエネルギーを持っている、などというストーリーによるものだった。彼は発症の頃からずっとそんな風に自分の存在をそう認識していた。

 このまま自分が表に出てしまったら、虚無が世界をおおってしまう、などと考えていた。

 だが、去年から地域活動支援センターに通い始め、同じ精神の病気の友達たちができてから、もうそれも潮時しおどきかな、と思うようになった。きっかけはセンターの友達と、その子の友達という人物の、統合失調症を患っている人間たちでカラオケのワンルームで自分の病気の話になったときに、二人とも自分の存在が世界に強大な影響をもたらすと考えることがあるという話を聞いて、さすがにそれはない、と思ったことだった。なぜなら、一志から見てこの二人がそんな力を持っているとは到底とうてい思えなかったし、ということはつまり、この二人からも自分がそんな力を持っているとは到底思われていないのであろうということを客観視したからだった。

 やがて、一志は自分の作品をインターネットの小説投稿サイトにアップロードすることを決めた。すると、日々PV数がカウントされていく。誰かが自分の話を読み続けていてくれているという日常に、この人たちのためだけにでもなんとかして書き続けていこうと思うようになっていまに至る。

 もしかしたら、いつか出版社の人から声をかけられるかもしれない、と、一志は自分の将来にときめいていた。自分は何者でもないし何者にもなれないけれど、それでも小説家になりたいと思っている。

 そう、“何者でもない小説家”、というのがいてもいいじゃないか、と思っていた。

 なぜなら、小説家だって、結局はただのサラリーマンなのだから。

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