3-5

「仕事はどう」

「ぼちぼちかな。日置くんは」

「ぼちぼちかな」

 日曜日。航也はファミレスで史生と昼食を取っていた。航平は参加していない。なぜなら今日二人きりで会っているのは航平の受賞祝いをどうするかの計画をするためだったからである。

 ある程度話がまとまり、二人はホッとしていた。今度また二人で会い、目当てのプレゼントを買いに行くことなどがだいたい決まった。これであの子が喜んでくれたらいいんだけど、と、史生ははにかむ。そしてそれは航也も同じだった。だが表には出さなかったが、航也は心の中でもう一つ別の理由で今日は朝からはにかみっぱなしだった。

「今日はどうもありがとう。せっかくの休日の日曜日なのに」

「いや、平気だよ。たまには音楽以外のこともしないとね」

 それに君と一緒にいられるんだし、というセリフを思い浮かべ、航也は心の中で苦笑してしまった。

 まだはっきりとは形になっていないが、航也は史生に対してほのかな恋心を抱いていた。職場の同僚以外に若い女性の登場人物が現れるのが久しぶりだったからというのもあるが、とにかく史生の立ち居振る舞いに航也は好感を抱いていた。このまま放っておけばこの気持ちはやがてはっきりとした恋愛感情になるだろう。そう予感すると、そうなってくると問題なのは自分の社会的立ち位置だな、と思って気が滅入った。

 なんといっても自分は夢追い人のフリーターである。三十二歳の大人の男として、結婚を前提としない恋愛ができるほど自分はジゴロではない。将来性のない男と付き合う大人の女がいるとは思えなかった。そして航也自身、先日音楽になにか勝機を見出したような気がして結婚どころではなくなってしまったし、もしかしたら自分はこの気持ちに蓋をしてしまうかもしれないな、と、なんとなく航也はいまから残念な気持ちになっていた。

 だいたい見込みがなさそうな時点でいま告白するわけにはいかない。少年時代は見込みのない告白を何度かしてきたが、いま思うにあれはよくなかったと思う。向こうからすれば普通に接しているだけなのを航也が勘違いしてしまったということだが、しかし、さらにいま思うに、高校生のとき初めて付き合った女の子に対して“いける”と思ったから告白しそして付き合えたという成功体験が、なんだか自分に冒険をさせない性格にしてしまったような気もする。ダメならダメでダメなりにできることもあるはずだ––––というのは、クリエイターとして必須な前提のような気がするのだ。自分は音楽に対して自信と闘争心が欠けているが、なにより冒険心が欠けているのではないかとぼんやりと思う。そしてそれは文彦の言うような“リアル”と何ら矛盾することではない、と、なんとなく思うのだ。

 とにかく、見込みが感じられない以上いま史生に交際を申し込むわけにはいかない。それはなんといっても航平の存在が大きかった。航平とはこれまでも付き合っていくつもりだったし、そうなると史生との関係がギクシャクしてしまうわけにはいかなかった。友達の姉を好きになる、という場合、相当慎重にやらなければならないのだな、と、初めての経験に、航也は三十二歳の大人の男としてかなり計算する必要があった。

「仕事は大変?」

 と、そう訊ねる史生に、まあね、と航也は答える。

「楽しいしやりがいはあるけど、だから大変じゃないということにはならない」

 史生はくすっと笑った。

「あたしも同じ」

「地域活動支援センター、っていうのが、ネットでさらっと調べてみたけどあんまりよくわからなくて。具体的にどういう場所でどういうことをする場所なの?」

「障害のある人たちがより良い生活を送るための支援をする場所––––って感じかな。あなたの特養と違って介助の必要はないけど」

「知的障害の人が多いの?」

「ううん。知的の人も身体の人もいるけど、精神の人が大多数ね」

 航也はちょっと目を丸くした。

「精神って、精神障害?」

「そう。あなたのところにもいるんじゃない?」

 実際、航也の勤める特養にうつ病や統合失調症の利用者が数人いることを航也は思い出した。

「いるね、確かに」

「まあ、老人ホームの利用者さんとは全然違うけどね。みんな日常生活自体は普通に送れてるし」

「そうなんだ」

「居心地のいい場所を提供する、っていうのが、要するにあたしの仕事。それは日置くんもそうでしょ」

「そうだね」

「だから一緒になって遊んだりもするけど、それも仕事だからね。仕事モードで遊ぶ、っていうのもなかなか大変かな」

「わかるよ。俺もピアノを弾くときとか、あくまでも“楽しませよう”っていう気持ちのもとやってるもの」

「え、でも音楽自体が“相手を楽しませよう”って気持ちがないとやっていけないんじゃないの」

 ぐ、と、航也は咽喉のどを詰まらせた。

「やっぱ才能ないのかなあ?」

日々是ひびこれ勉強じゃない?」

 航也は苦笑いを浮かべた。

「まあ、そうなんだけどね」

「あたしもいつも利用者さんたちから勉強させてもらってるなあって思うよ」

「例えば?」

「もちろん個人情報は言えないんだけどね」と、史生はカプチーノを一口飲んだ。「それはお互い様ってことで」

「うん、大丈夫」

 そして史生は話し始めた。

「一人、いろいろ考えちゃう利用者さんがいて––––小説を書いてる人なんだけど」

「うん」

「その人じゃなくて、別の、音楽をやってる利用者さんがいるんだけど、その人が“精神の病気があると健常者と恋愛はできないのかなあ”って言ったことがあって」

「うん」

「あたしとしては、例えば会ってすぐ自分は実は糖尿病で、なんて言わないわけで、だから精神の病気もそれと同じって言ったのね」

「うん」

「ただ、そしたらその小説を書いてる利用者さんがちょっと涙ぐみ始めちゃって」

「どうして?」

「その人、いま健常の人に恋をしている最中なの。それで音楽の人にすごい感情移入しちゃったみたい。まあもともと感受性豊かな人なんだけど」

「ふむ」

「……あたしならどうするだろう、って思ったんだよね、帰り道で」

 話が核心に入り始めた、と思い、航也は身を引き締める。

「……うん」

「要するに、あたしが精神の人に病気のことを告白されたとしたら、あたしはどうするんだろうって思ったの。その二人には精神の病気も身体の病気も同じことって言ったけど、でも本当に“同じこと”ってあたし思えるかなって。もしもそのときがきたら」

「君なら思えそうだけど」

「ありがとう」

 と、史生は微笑んだ。どこか苦しげな微笑みだった。

「精神の病気って、理解とか共感がされにくいのよ。たぶん、身体や知的と比べて」

「うん」

「あたしはスタッフとして、ちゃんと“わかれて”いるだろうか、って思ったのをよく覚えてる」

「理解、できてるんじゃない? 少なくとも恋愛相談をされるぐらいの関係性が築けているわけだし」

「だといいけど」

 航也のその説明に、史生は少し安心したようだった。

「……小説の人が、言ってたことがあって。別のシチュエーションなんだけど」

「うん」

「––––“障害者は社会の役に立たなければならないのだろうか?”って」

 一瞬、航也は黙りこくってしまった。

 そしてそれを史生は見逃さなかった。

「まあ、いまの日置くんの沈黙が、要はその人の悩みの根源こんげんになるわけね」

「俺は、別に」

 と、取りつくろうとしたが、やめた。

「いや。そうだな」

 航也は正直に言った。

「そういう思いがないといえば嘘になる」

「そうね」

「例えば航平なんかは、社会の役に立つわけだろ。それを思うと、“よかったね”と思っちゃうのは事実だ」

「うん」

「––––もしかしたら、航平に絵の才能がなかったら、俺は航平に特に興味を持たなかったかもしれない。友達になってなかった可能性がある」

 ここまでの説明を聞いて、史生はちょっと興味深い、と、航也と向き直った。

「日置くん、かなりいろいろ考えるタイプなんだね」

「まあ、ちょっといろいろね」

「あたしはそれ、ちょっと嬉しいかも」

「そう? 俺は差別的なんだぜ」

「そうやって自分で自分のことを“差別的だ”って思えるっていうのはかなり大変なことだからね」

 それはまさにその通りだと思う。航平と関わってからの初めての気づき。それを自分の中で消化することはかなり苦痛を伴う作業だった。しかし、認めないわけにはいかない。なぜならこれが自分の率直な感想であり、社会的弱者に対する態度なのだから。

「あたしも福祉の仕事をしているけど、差別っていう現象について詳しく考えたことがあるわけじゃないの。だからこれを機に少し勉強してみようっていう風に思ってるんだ」

「いいことだと思う」

「あなたも一緒にしない?」

「それはいいね」

 史生ともっと一緒にいられる、という下心がないといえば嘘になるが、それよりも航平に対してなにかできることがあるのではないかと思った気持ちの方が大きかった。

 航也は一呼吸置こうと思いコーヒーに口をつける。

「俺は体とか心とかに別に障害があるわけじゃないし、そういう家族とか知り合いがいないから、そういう話に参加する立場にはないのかなって思ってたんだけど」

「うん」

「前まではね」

「航平?」

「あいつが少しでも気楽に生きられる世界の方がいいなって。そしたらその小説の人が––––社会の役に立たなければならないのか、って無理に気に病む必要もなくなるんじゃないか」

 史生は微笑む。

 ただ、と、史生は言った。

「日置くんはいま、自分は障害者じゃないし、自分の周囲にも障害者がいたことがないから、そういう話に参加する立場に自分はいないんじゃないかって言ったけど」

「うん」

「でも」

 史生は自分の中で言葉をまとめ、そしてゆっくりと説明する。

「でもあたし思うの。ううん、障害のある人たちだけじゃなくて、いろいろなマイノリティの人たちのことに関して––––よくわからないことに口出しはしないっていう態度自体は誠実だと思うけど、でもあなたも社会の構成員である以上差別に加担かたんしているわけだから、いろいろな差別に対して、いつまでもノーコメントってわけにはいかないんじゃないかな、って」

 それを聞いて、航也は考え込んでしまった。

 身近な問題ではない問題に対して追求しない、というのは、結局のところ問題を放り投げているだけなのではないか、と。

 だが、しかし––––世界中のあらゆる問題を自分のこととして考える、ということが一人の人間にできるとはとても思えなかった。

 それでも、と思う。

 “社会の構成員である以上”と史生は言った。

「無視できちゃうっていうのが、差別なんだろうね」

「そうね。そう思うね」

 二人は微笑み合った。

 距離が近くなったような気がして航也は嬉しかったし、やっぱり自分も航平のためになにかできることがあるはずだと確信できたのも嬉しかった。

 嬉しかった。

 そう、嬉しかったのだ。

 そのとき、史生のスマホが鳴った。

「ごめん、ちょっと」

 と、史生はスマホを耳に当てる。

「もしもし、お母さん? ––––え? ちょっと落ち着いて……えっ……」

 史生の顔がどんどん蒼ざめていく。どうしたんだ、と、航也は心配になり––––怖れた。

「うん……うん、わかった、わかったから、あたしもすぐ行くから、あたしもすぐ行くから––––すぐ行くから」

 やがて、史生はスマホを切った。

「……どうしたの」

「日置くん」

 史生の表情はほんの数秒でまるで変化していた。そしてそれは“悪い変化”だった。

「こ、航平が」

「––––」

 そのとき、航也はふと頭の中で、航平のお祝いパーティのことを考えたのはなぜだろう、と、思った。

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