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ということを夕方、例の公園で絵を描いていた航平に、ひと段落したあとに聞いてもらった。航平は真剣であるような、微笑んでいるような、あるいは悩ましげな、なんとも言えない複雑で、しかし穏やかな表情で航也の話をじっくりと聞いていた。
「だからさ、仕事でなかなか俺も大変なんだよね」
「いとこのやつが本当に面倒で厄介で」
「音楽で食っていくっていうのもほんとにいろいろ難しいなあって思うんだよなー」
さっきから航平は航也の話をひたすら聞いているだけだった。ひたすら黙って、うん、うん、と時折うなずきながらずっと航也の話を聞いている。それが航也にはとにかく落ち着くことだった。愛斗の無神経で無遠慮なやり取りは論外として、文彦の論理的かつ淡々とした説明を聞くことよりもずっと自分の心が落ち着いていくのを感じる。航平は航也の愚痴や相談に対してなにも返事をしない。ただ、穏やかに、黙って話を聞いてくれるだけだ。それが航也には心地よかった。癒されていくかのようだった。
だが航也は思う。それは航平が自分の悩みごとに関してなにか気の
そして、それがあまりにも失礼なことであり––––残酷なことであるかのように航也は感じる。
「あの絵、どうなった?」
と、航也は話題を変えた。これ以上航平に対して“してはいけないこと”をしてはいけない。
「もう完成しましたぁ!」
ぱあっと顔を輝かせ、嬉しそうに航平は答える。
「もうどこができてないのか、俺にはよくわからなかったんだけど」
「空に、黄色を、ちょっと入れました。それで完成しました」
「じゃあほんとに、ちょっとした手直しなんだね」
「はいですぅ。フォレストですぅ」
またこの口癖を言う航平はにこにこしている。
そのきらきらした笑顔を見て、航也は自分が“嫌な人間”になってしまったかのように思った。
「あ」
「ん?」
そのとき、いつもの“みむちゃん”がやってきて、航平の創作意欲が刺激されたのだろう、一瞬で一気に真剣な表情になってひたすら猫の絵を描き始めた。
相変わらず物凄いスピードで絵を描くその様を眺めながら、航也はぼんやりと文彦が話してくれた“リアル”について考える。
売れない商品に価値はない。それはその通りだと思う。売れることだけが全てじゃない、などというセリフを言っていいのは売れている者たちだけだ。レコード会社としては利益を出さなければならないわけだから、売れないミュージシャン=商品を抱えている理由はない。なにもしていなくてもなにかと経費がかかるのだから会社として損失を出すわけにはいかない。もちろん“社長さんのお気に入り”にでもなれば話は違ってくるかもしれないが、おそらく航也にとって“お情けで音楽をやらせてもらう”ことに、自分ならいつか限界が来るだろうと思う。
ミュージシャンになる、というと、どこかファンタジー世界の出来事であるかのように思えるが、しかし現実はあくまでも現実だ。売れなければクビになり、利益を出さなければ契約は更新されない。そういう意味で普通の会社員となにも変わらない。自分が商品を扱う側なのか、それとも自分自身そのものが商品であるかという違いはあれど、本質的にはミュージシャンもサラリーマンである。
そんなことを考えながら、一心不乱に絵に集中する航平を見ると、航也はどうしても、こいつはいいなあ、と思ってしまう。航平は富にも名誉にも興味がない。絵で食っていこうなどというつもりもないだろう。ただただ絵を描きたいから絵を描いているだけだ。絵を描くことが航平にとって生きることそのものなのだろう。だから航平は絵を描く。“リアルなこと”など一才考えず、ただそれだけの理由で絵に向かうことのできる航平が航也は羨ましかった。
だが事は単純ではない。航平は絵に関して、魂からの才能はあれど仕事としての才能はたぶんないだろうと思う。仕事となれば描きたくないものも描かなければならないはずだったし、そもそも売れなければ生活できない。売れるための絵、というものも、やはり描かなければならない。そしてそんな諦めや割り切りを航平にできるとは思えないし、するとは思えない。なぜなら航平にとって絵は“生きることそのもの”なのだから。そこに余計なノイズを混じらせることは航平はしないだろうと航也は思う。
航也は心の中で自分にため息をついた。いちアーティストとして航平を羨ましいと思う気持ちは本音であるが、しかし、やはり航平を羨ましいとはどうしても思えなかったからだ。いまは両親の
天才的な才能を持っているからつい忘れがちになってしまうが、航平は知的に障害があり、自分の生活を自分で守ることができない。航平は自分になにができてなにができないのか、どこまでができてどこからができないのか、といったことをちゃんと理解している。そしてその“できない部分”は他の人たちに助けてもらうことを前提として生きている。だから、自分の生活を自分で守ることのできる自分の方がよっぽど恵まれていると思うし、自分はなんだかんだ航平と比べてあまりにも“できる部分”が多いことを思う。だがしかし、それでも「生活保護を受給しながら日々の面倒を福祉の力にやってもらいひたすら好きな絵を描き続ける」という航平の未来に羨ましさを感じてしまう自分がいまここにいるということを航也は自覚し、それを考える自分があまりにもとんでもない––––“悪”だと思えてならなかった。
(こいつは気楽に生きてる、と俺は思っている)
航也は、心の中で自分自身を殴り飛ばした。
(こいつの立場になりたい、なんて、思ってないくせに)
そもそも自分の勤めている特養という場所がそういう場所だった。生活保護を受給している利用者もたくさんいるし、介護職員たちが日々の面倒を見て、中には自分の趣味を全力で楽しんでいる者もいる。そして航也が彼ら利用者に対して羨ましさを覚えたことは一度もない。なぜなら彼らは「かわいそう」だから––––。
航平と関わってから、航也はいろいろなことを考えるようになっていた。そして、いろいろなことを考えるようになった結果、自分自身が知的障害者ひいては社会的弱者を実のところどう思っていたのかを目の当たりにしていくのを思う。そしてその先にあったものは––––自分の航平に対する、はっきりとした、差別心であった。
自分が誰かを差別しているなどと航也はこれまで考えたことはなかった。それは確かに、自分は誰かに石を投げたこともなければ誰かを殴ったこともない。例えば中学生のときのあの子を面倒な目に遭わせたこともない。日本に差別がないとまでは思わないにしても、諸外国に比べれば大した問題ではないはずだと思っていた。しかしいま、差別とはそういうことではないのだろうと思う。悪口を言っていなくても
いや、あるいは“普通に生きてる普通のやつ”だからこそ差別をしているのだろう、あるいは差別をしてしまっているのだろうと思う。いや、あるいは––––。
差別をしているからこそ、普通に生きられているのだろうと、いまの航也にはそう思えてならなかった。
それでも、と、航也は思う。
それでも航平と俺は友達だ。
––––だから、その航平のために、俺にはなにができるのだろうか。
あの渚の絵のような夕焼けがだんだんやってくる。全身全霊で絵を描く航平を見ながら、航也はふと、この想いを音楽にすることはできないだろうかと、なんとなく感じた。
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