第三話 ちょっと、夏をもうちょっと
3-1
違和感は大切、というのを誰が言い始めたのかは知らないがまさに至言だと思う。これまで“なんかイヤ”と思った人間は
初対面の瞬間からどこか違和感を覚えていた。介護の世界をまるで知らず完全未経験だった自分に、笑顔で「ゆっくりやりましょう!」と言ってくれたが、どこか違和感を覚えていた。客観的に見ればなにもおかしなことはないし、スローペースでじっくり教えてくれそうだったわけだから安心材料にしてもいいはずだったのだが、とにもかくにも、初対面の瞬間からどこか違和感を覚えていた。そしてそれは初めて彼に指導してもらったときにやっぱりなと確信したことをいまでも覚えている。
具体的には、彼が直接航也になにかを教える、指導する、ということはほとんどなかった。他の職員たちに「よろしくね!」と言って任せ、そのまま立ち去って自分の仕事に移行するのが常だった。だから、指導員としてそのサブリーダーからなにかを学んだ記憶が航也にはない。もちろん他の職員に指導してもらえているわけだから介護職員としての成長自体はしていたのだが、しかし、だからこそそこが問題だった。
入社してしばらく経ち、サブリーダーが指導職員を担当して三回目のとき、別の先輩職員にいろいろ教えてもらっている中、これなら彼女に教えてもらった方が効率的だと思いついうっかり「今日はこの人に教えてもらおうと思います〜」などと言ってしまったのだ。あれはいまだにまずかったと後悔しきりである。いくら指導してくれないとはいえあれはなかったと思う。あれでは本日の指導職員を
それは仕事に支障が出るレベルにまで達していたので、ある日主任にサブリーダーとの人間関係で悩んでいるということを全て包み隠さず説明し、相談した。もちろん自分のミスについてもありのままを話した。その結果、主任が動いてくれたおかげで彼の態度は
あれが彼の指導のやり方なのだな、と思いきってしまってからはだいぶ楽になったが、遅くとも二回目にはそう思いきるべきだったと航也はつくづく後悔している。別にいじめられているわけではないのだが、彼にとってその件がもう終わったことだとしても航也の違和感は消えない。なにより自分の失敗からこんなことになってしまったわけだから一方的に彼を責め立てられないというのも問題だった。
そもそも彼は話しかけづらい雰囲気をまとっている。普段、なにもしていないときなど基本的に無表情だからなのかとにかく用事があるとき、彼に接することに危機意識を感じてしまう。むろん質問や相談は仕事をする上でしなければならないので行動はするし、聞いたら聞いたで普通に答えてはくれる。しかしいちいち気になってしまうのが自分自身厄介だった。
そしてさらに重要なポイントは、彼は別に職場の厄介者というわけではないようであることだった。他の職員たちからの評判はなかなかよく、この件を一人の年配女性職員に相談したら私はあの人好きよと言われてしまったので、だから他の職員たちと愚痴を言い合う、ということができない。要するに単純に彼と自分は相性が悪いということなのだろうと、航也は最終的にそう認識するに至る。しかしだからといって問題が解決するわけではない。相性の悪さが原因であるわけだから、お互いの性格改善によって問題が解決するわけではなく、どちらかがここからいなくならない限り航也の気は休まらない。そしてその点、正社員である彼が辞める理由はいまのところ存在しない。非常勤の自分が耐えるしかないことを航也は思う。この職場は自分にとって幸せな職場だった。職員たちも利用者たちもみんな気持ちのいい人たちだったし、待遇も給料も不満はなにもない。ただ一つ気になるのがサブリーダーの存在であり、したがって彼が休日の際、航也は「今日はラッキー」だと思うのが常になっていた。そして、それを思うこと自体が面倒だった。
そんなわけで、要するに今日はそのサブリーダー出勤日であり航也はちょっとした憂鬱を抱えながら働いた。今日一日を振り返ってみて彼と特にトラブルがあったわけではない。それはいつものことだった。しかし、彼が視界に入る度、彼の声を聞く度にいちいち縮こまってしまう自分は本当に気にしいだと思う。本当に、攻撃をされているわけではないのだ。とにかく航也は初対面の瞬間から感じた違和感のままに警戒心を持って彼と付き合うべきだったとずっと後悔し、反省している。
考えてみればこの三十二年の人生の中、いつも自分の中に生じた違和感に反してその人物と仲を深めようと思って失敗し続けていたものだった。つくづく学習能力がないとも言えるし、自分の違和感つまり感覚もとい感性に正直に生きていなかったのだと思う。それは氷を冷たくないと思うようなものだった。少なくとも今回の件で自分の違和感を重視しながら生きていこうと学べたという点では航也の人生全体を長い目で見ればいい経験になったと言えるだろうが、しかし、それにしてもこの特養に勤務し続けている限り、彼か自分のどちらかが退職しない限り自分のこの“なんかイヤ”が消えないのであろうことを思うと航也は悩ましかった。
サブリーダーの存在だけがこの仕事をする上での唯一の難点、ということを思うと、全部が全部うまくいくなどということはないと航也はよく考える。どこにいってもトラブルは付き物だ。この地球上にそこにいけば無条件で幸せになれるなどという安心安全な場所は存在しない。あるいはある問題が解決したと思ったらまた次の新たな問題が発生するのが世の常だ。全部が全部うまくいくなどということはない、というのも、おそらく航也がこの職場で学んだことだと言えるだろう。
とにかく今日も一日なんとか仕事を終え、航也は帰路に着く。ふう、と、ため息をつく。これは単純に仕事の疲労によるものだけではないことをはっきりと理解している航也は、しかしもう三十歳をとっくに超えているというのに自分はまるでお子様だ、と、つくづく自己嫌悪に陥るばかりだった。
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