2-7

「なにもかも自分が変わることで対応できるほど人間社会は甘くないですよ」

 そこそこにぎやかな美容室で文彦に髪を切ってもらいながら、史生はうなずいた。

「まあ、そうなんでしょうけど」

「弟さんに対して複雑な気持ちがあるのは確かなんだし、それはそのまんま受け入れて飲み込んでしまうのが一番いいかと。“この発想がなにかを生み出せますように”とか思わないで」

 ふう、と、史生はため息をついた。

「まあ、そうなんでしょうけどね。でもなんか私もまだまだだなって」

「仕事のときは仕事モードでしょうけど、プライベートのときはプライベートモードですし」

「ああ、まあ、それは、うん、そうですね」

「他人のことだと冷静になれても、自分ごとだと深刻になっちゃうっていうのはよくわかりますよ」

「わかります?」

「わかりますわかります」

 文彦とは昔からの付き合いであり、初めてこの美容室にやってきたときも店長の文彦に髪を切ってもらった。だが、いまでは常に指名している。

 史生と文彦の関係は単なる美容師と客の関係ではない。以前、コンサートがあって東京に遊びに行ったとき、一緒に行った友達が「二丁目行こう!」と史生を誘い、そしてそこのゲイバーで出会ったのが文彦だった。

 最初バーで文彦を見かけたとき、史生は、確か進藤さんは結婚して子どもが二人いたはずだと思い、そして彼が史生に気づいたとき、ヤバいところに遭遇してしまったという気持ちが生まれた。要するに文彦は既婚の同性愛者だった。

 文彦は文彦で、このまま放っておいて面倒なことになっては困ると思い、その場で史生に説明した。自分はゲイだが、結婚し、なんだかんだ子どもを設けたことを説明した。

 最初その説明を聞いたとき、史生は女として許せないと思う一方で福祉士として誰もがなにかを抱えているのだからという思いの方が強かったことをいまでも覚えている。どう取りつくろっても文彦が妻を騙していることは確かだったが、しかし、その選択をするしかなかった文彦に同情心が沸いたし、現在の日本社会に同性愛者を異性と結婚乱暴さ、あるいは異質さを感じたこともまた確かだった。

 結局、その晩はしばらく二人で飲み、話をし続けた。そして、それからはこの美容室にやってくるといつも文彦を指名するようになった。実際、文彦の美容師としての腕前は確かであり、店長であるというのもあるのかもしれないが一番きれいにしてもらえるといつも感じていたし、指名自体は不自然なことではない。これは史生と文彦の秘密であり、要するに自分も共犯者になってしまったのだが、だが別に他人の家庭を破壊するつもりもない。それは女として許せないという気持ちとは別だったし、それはあくまでも他人事だと考えていた。

 そんなわけで、いまではたまに食事に出かける“友人”としても、彼らは関わっているのだった。

「家族に障害のある人がいて、しかもその人がすごい才能を持っていて……なんて、兄弟姉妹としては複雑でしょうよ」

「進藤さんだったら、どうします?」

「どうって、やっぱり、面白くないな〜とか思っちゃうと思いますよ。例えば家族の行事とか学校行事とかで、兄弟が突然熱を出して……みたいなことが毎回毎回起こったら、やっぱり嫌だなって思うはずですよ」

「私、その辺に関して、単純に嫌だなって気持ちもあるんですけど、それより心配な方が強いのもそうなんですよね」

「ふむ」と、鋏を器用に動かしながら文彦は言った。「生まれたときからそういう家族がいるってなるとそういう認識にもなるもんなんですかね? 小さいときからそれが当たり前だから、殊更ことさらに大変だと思わないっていうのは。ぼくなんかは想像するしかないから仕方がないですけど、やっぱり小さい人間なんできっとイライラするだろうな〜としか思わないんですけど」

「例えばお子さんのどっちかが障害があるとかってなってたらどうします?」

「その場合、ぼくは親としての立場でしか考えられないからなあ。突然熱が出たりしても嫌だとか全く思わないです。特別な才能があったとしても、シンプルに喜ばしいんでしょうし、たぶん嫌だなとは思わないと思いますよ。でも兄弟姉妹で〜というと、いま言った通りなんですが」

 はあ、と、またしても史生はため息をついた。

「すみません、何度も」

「大丈夫大丈夫。ため息をつくと陰の気が出ていくからむしろいいって説もありますし」

 文彦は鏡越しに微笑んだ。つられて史生も微笑む。

「私には特に突出した才能がないから、その点でかなり……複雑というか」

「ああ、それはなんとなくわかりますよ。

ぼくの末の弟なんかも、特別な才能っていうんじゃないんでしょうけど、とにかく要領がよくてね。まあそれも才能なんでしょうけど。やっぱり自分はこいつに比べてダメだな〜と思います」

「じゃ、そもそも普遍的な悩みになるのかな。兄弟が凄い、っていうのは」

「それはあるかもしれませんけど、でもそんなに過度に一般化する必要もないと思いますよ。海川さんのそういう辛さとぼくのそういう辛さってやっぱり比較するものじゃないですし」

「そうですねえ……」

 文彦が“過度な一般化”などという専門的な言葉を使うのはやはり同性愛者として、しかも結婚してしまったという点で、人より多くのことを考えているからなのだろうか、と思うと、それはHSPの考え方と大差ないな、と即座に史生は反省した。

 ただ、文彦のものの考え方は決して自分一人だけで考えたものではなく、きちんと勉強したことによるものなのではないか、とは思っていた。複雑なことを当事者感覚だけで語れるほど世の中は甘くない。ただそれが同性愛者として生まれついた故だとは思えなかった。おそらく文彦の半生はんせいで差別や人権について考えるきっかけとなる出来事があったのだろうし、また、もともと文彦がそういうことを考える指向性しこうせいを持っていたということなのかもしれない。いずれにしても、史生は福祉士として文彦にそれなりのリスペクトを感じていた。

「弟は、自分になにができてなにができないのかをちゃんとわかってるんです」

「はい」

「で、その自分にはできないことを私たちがなんとかカバーしてるわけです」

「素晴らしいですよ」

「それについて、結局私、嘘を吐いているんじゃないかって思うときがあるんです」

「嘘というと?」

「私、本当は、実は航平のことがあんまり好きじゃないんじゃないかなって」

「それはないと思いますよ。でも、ある嘘を吐いているというのも否めない気がしますが」

「ある嘘?」

 興味深い、と思って史生は鏡越しではなく文彦の目を見つめた。その目は微笑みを浮かべてはいたが、どこか真剣だった。

「弟さんに対する“なんで自分でできないんだ”っていうイラつきに、でも私は大変じゃないから、って嘘を––––自分の正直な気持ちにふたをしてしまっているのではなかろうか、とね」

「––––」

「弟さんのことは好きなはずですよ」

 はっきりとそう断言されて、史生は安心していく。

「でも」と、文彦は続けた。「できないのはしょうがないからやってあげる、っていうのは、まあいい人なんでしょうけど、でもなんでできないんだーとか、思ってしまっているのであれば思ってしまった方がいいかと思うんです」

「?」

「だから、そういうことを海川さんたちが助けてあげてなんとかなってるっていうのは、結局海川さんたちが頑張って変わらなきゃいけないっていうさだめにあるってことじゃないですか。それってやっぱりフェアじゃないと思うんですよね。もっとも、もともとアンフェアに生まれついたのはそうなんでしょうけど、自分は自分で大変だ、自分だって楽がしたいって気持ちを周囲が抱いたとしてもそれ自体は責められるものじゃないと思うんです」

 文彦は、同性愛者としてそういう気持ちが常にあるのかな、と、史生は思った。自分は自分で大変だが周りは周りで大変だ、という認識の仕方を文彦はしている。例えば、文彦が安全な生活を営んでいくためには文彦の妻子が––––。

 史生はやや反論した。

「でも、それって余計に生きづらいんじゃないでしょうか。アンフェアに生まれついたのは本人の責任じゃないし、誰が悪いとかって話じゃないじゃないですか、そもそも」

「それはそうなんですけど、“自分はいま、大変な思いをしている”と思っている、というのは自分自身の素直で正直で率直な気持ちなわけだし、そこに誰々の方がもっと大変なんだからって蓋をしたり、自分は大変じゃないって嘘を吐いたりするのは自分をかわいがってあげていないって思うんですよね」

「……」

「やっぱり、嫌なことは嫌ですよ。たとえ自分が百パーセント悪かったとしても、自分が“嫌だな”と思った気持ちはその気持ちのまま丸ごと感じるべきじゃありません?」

「それは、わかります」

「それに例えば、自分じゃなくて相手に変わってもらわなければどうにもならない問題って普通にあると思いますよ。あらゆる場面で。リアルに」

「リアル、っていうのは、なんなんだろう。過酷で残酷な世界のことなんでしょうか」

「いろいろ考えなきゃいけない、っていうのを過酷で残酷なこと、と見なすのであれば、そうなんでしょうねえ」

 文彦の説明は論理的だった。なおかつ感情を大切にしているように見えた。

 文彦は、いろいろ面倒臭い人生を送ってきたのだろうな、と、史生はなんとなく思う。

 そして––––それは自分もそうだ。自分は面倒臭い人生を送ってきている。その発想はよくない、いや、悪だとさえ思っていたが––––しかし、正直な気持ちであるのは、確かだった。

 その気持ちに蓋をして、あの子の方がもっと大変なんだから私は大したことがない、と嘘を吐いているのではないか、ということを文彦は説明しているのだ、ということを史生は理解し始めた。

「でも、難しいです」

「でしょうね」

「自分に正直に生きるっていうのも」

「でも、自分の感情は正直に受け入れるべきですよ」

「……ですねえ」

 それでもどうしてもと思いきれない自分は、例えば善か悪かでいえばどちらなんだろう、と、ぼんやりと史生は思った。

 そんなのは決まっている、と、ちゃんとわかっていた。

 それは善でもなければ悪でもない。

 自分自身の正直な感情に対して誠実な態度ではないのだ、ということを。

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