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というわけで翌日の日曜日、航也は史生に指定されたファミレスへと向かっていた。昨日、家に帰ってしばらくして史生からLINEが来て、その指示に従っている。どうやら航平はただ足を捻っただけで大事には至っていないようだった。
背中にギターケースを抱えて、航也は目的のファミレスへと足を運ぶ。
なんだか不思議なことになってきたな、と、航也は思う。本当に、大したことはなにもしていないのにこんな大袈裟な、と思う。しかし、史生からすれば「結構考えることがある」のだろう。具体的なことはよくわからないが、イメージはわかる。要するに、助けてやったんだから金を出せ、などと言われるのを避けようとしているのだろう、という風に航也は解釈した。その不安を払拭するために乗り掛かった船だ、と、航也はてくてくと歩いていた。
歩いている中、航也はすれ違う街の人間たちをなんとなく観察していた。趣味であり夢である自分のやっていることをするのに、自分にとっては人間観察は欠かせない。のんびりと歩きながら航也はふと、なんだか街には人がいっぱいいるんだな、と、別に普段引きこもっているわけでもなんでもないのになんだか感慨深い気持ちになっていた。
この人たちにもいろいろなドラマがあるのだろう、と思う。自分も三十二年間生きてきていろいろあった、と思う。そんなに派手な半生なわけではないが、さりとて客観的に地味だとも言えないのかな、と思う。確かに派手な人たちと多く付き合ってきたが自分は別に不良ではない。ただ––––なかなか思春期が長引いてしまった、ということなのだろう。
そしてそれは結局、いまだに長引いているのだろうなと、なんとなく思う。
もう三十二歳だ。まだ三十二歳と言われることもあるが、やはり三十路であるというのは自分自身思うところがある。三十二歳といえば自分の子どもがいてもおかしくない年齢であり年代だ。しかし自分は気ままな脛かじりである。確かに働いてはいるし、家に金も入れてはいるが、とても自立しているとは思えなかった。しかし、それでは自立していると言うのは具体的にどのような状態なのかといえばいまひとつイメージが湧かない。とにかく自分はまだ全然自立などしていないお子さまだ、というのが航也が自分自身に下した評価だった。
三十歳成人説、というのがあるそうで、要するに、そういうことなのだろう。つまり自分は、いまだに人に成りきれていない。そう思えてならなかった。
しかし思うに、みんな多かれ少なかれそんな気持ちを抱いているのではないだろうか。街中の人間たちを見てみると、この中にきちんと“大人”になった人間はどれぐらいいるものなのだろうと思う。自分のことを成熟しきった一人の人間だ、と思っているような者ならいくらでもいるのだろうが、そんなのは当てにならない。果たして大人とはなんなのだろう。それは決してただただ年を重ねた人間のことを言うわけではないはずだという確信があった。社会的にはもうとっくに大人になっていながらそんなことを考える自分をひどくみっともないと思う。
目的地へと到着し、店内を見渡すと史生と航平を発見し、彼らのもとへと近づく。
「こんにちは」
二人も航也に気づき手を振る。
「こんにちは」
「こんにちは!」
大きな声で挨拶をする航平を史生は別に注意したりはしない。いつものことだ、といったところだろうか。そしてそれは、いつもの自分の仕事風景でもある。
近くの席に座っていた客たち数人は大声で挨拶をする航平を怪訝そうな目で見る。
“注意しないとダメじゃないか”と言わんばかりに。
そう、これが一般的な反応だ、と航也はそんなことを思いながら席に着いた。
「どうも」
「改めて、こんにちは。それからどうもありがとうございます」と、史生は頭を下げる。「わざわざ来てくれて」
航平の“にこにこ”は最高潮に達していた。
「ありがとうですぅー」
「いえいえ」なんだかかわいいな、などと思っていることを悟られないようにしなければ、と航也は身を引き締めた。「こっちこそ、奢ってもらえるみたいで」
「ええ。それぐらいしかできませんけど」
それ以上のことはなにもしないからそれ以上のことは諦めろ、というただならぬ気配を感じた。
「なんにします?」
と、史生はタッチパネルを差し出した。
「ええと、そうだな」
しばらく熟考し、やがて航也はハンバーグランチを選んだ。二人はもうとっくに決めていたようで、パパッとタッチパネルを操作し注文を完了させた。
「それ、ギター?」
と、たぶん絶対にそう質問されるだろうな、ということは航也も考えていた。
「このあとライヴで」
「あれ、じゃあミュージシャン?」
「の、たまごだね」
「いいね、夢があって」
「まあね」
史生と自分が同い年であることは昨日のLINEでもうお互い知っていた。だんだん敬語からタメ口になっていく。
「ぼく、トイレ」
航平も航也のギターに興味津々の様子ではあったが尿意には逆らえない。行ってきます、と言って、航平は席を立った。
二人きりになり、史生はカプチーノを飲んだ。自分もドリンクバーに行かなければと思い立ち上がり、コーヒーを淹れたのち戻ると史生は姿勢を正した。
「日置くんが“安全”なのは昨日のLINEでもなんとなくわかってはいたけど、念のためね」
「いろいろ考えることがあるみたいだしね」
「そうだね。知的障害の弟がいるとね、自分たち以外の人間はみんな頭がおかしいぐらいに思わないとキツいの」
「そんなに世の中殺伐としてるかな?」
「前に一度イタズラされそうになって」
聞き捨てならない、と史生を見つめる。
「家族でデパートに行って、はぐれて、見つけたと思ったら知らない男の人にトイレに連れ込まれようとしてて」
「なにもなくてよかったね」
「本当」
「ゲイの人、増えてるっていうしね」
と、そこで史生はキッと軽く航也を睨みつけた。
「増えてるわけじゃないと思う。昔からたくさんいたと思う。それに、その犯罪者が頭がおかしかっただけよ」
「まあ、そうなんだろうけど」
「ゲイの友達がいるから、なんとなく。ごめんなさい、今日はお礼なのに」
「いえいえ」
史生はカプチーノを一口飲んだ。
「日置くん、知的の知り合いでもいるの?」
専門用語、というわけではないのだろうが、知的障害者のことを単に“知的”と表現するのはよくあることだった。
「知的というか、特養に勤めてて」
「介護施設?」
「うん、老人ホームだね」
「じゃ、介護士?」
「の、たまごだね」と、航也もコーヒーを一口飲んだ。「もう五年経つから、受験資格はあるんだけど」
「ミュージシャンと二足のわらじかぁ」
ふう、と、航也はため息をついた。
「どうかした?」
「いや。果たして俺に音楽の才能などというものがあるのだろうかと」
「航平はそういう面倒臭いこと考えないから強いんだろうな」
そういえば、と、航也は昨日のLINEを思い返す。
「絵を描くんだよね」
「そう。結構、うまいんだよ。県内のコンクールでいくつも賞を取ってるし」
「賞を取ってるからうまいっていうのも、あれだな」
「まあ私も絵のことはよくわからないから、うまいとか下手とかは正直よくわからないんだけど。結果が評価されてるわけだから、要するに才能はあるんだろうね。本人はそういうことどうでもいいみたいだけど」
「強いなあ」
「日置くんはどうなの」
「なにが」
「音楽は評価されてないの?」
「あいにく、ちらほら気に入ってくれてる人はいるけど、とても稼げてるとは言えない。高校生の頃はビルボード一位だぜ、なんて夢見てたこともあったけど」
「ビルボードって、なに?」
「そういうチャートがあるの。アメリカの」
「じゃ、大きく出たわけだ」
「まあ––––諦め損なったんだろうな」やや自嘲気味に航也は呟いた。「やってて単純に楽しいから、別にいいんだけどね」
「そうそう。楽しいのが一番」
「海川さんは?」
「仕事は楽しいけどね」
「お仕事は?」
「地域活動支援センターって、わかる?」
はて、と、航也は首を捻った。
「全都道府県の全市町村に一つ以上設置されてる、障害のある人たちの憩いの場っていうのかな」
「ああ、そんなのがあるんだ」
「そこの職員」
「ということは、海川さんは福祉士かなにか?」
「そ。精神保健福祉士と社会福祉士」
「えっ」と、航也は目を剥いた。「すごいね。すごい難しいんだろ」
「まあ、なんとか突破したわけですよ」
「へえ〜。っていうか俺の先輩だな、となると」
「福祉士繋がりだね」
と、二人は顔を見合わせ、笑う。
「ただいまぁ」やがて航也が戻ってきた。「トイレ行ってきました」
「お帰り」と、史生。
「ただいまぁ」と、航平はまた繰り返した。「航也さん、ギターかっこいいね」
「ああ、ありがとう」
ふと顔が綻ぶ。
その後、食事をしながらしばらくお喋りを続け、小一時間経った頃、航平は航也に訊ねた。
「航也さん、もう帰っちゃうの?」
「え?」
「寂しい」
と、顔を俯かせたものだから、航也は、困ったな、といった表情になった。
「日置くんこれから出かけるんだから」
「うう」
「それとも日置くん、これからすぐ出かけるの?」
「え? あ、いや、ライヴは夕方からだけど……」
その瞬間、航平の顔がぱぁっと弾けた。
「じゃ、お家に来てくださーい!」
はち切れんばかりの笑顔で、大声でそう言われ、航也は軽く引いてしまったが、しかし、続け様に史生が言った。
「私からも、よかったら」
例えば、もしもここで自分が断ったら、あるいは航平は泣きじゃくるのではないだろうかなどと想像し、航也は苦笑しながら、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
と、返してしまった。
それだけのパワーが航平にはあった。
……そして、これだけのパワーがあるからこそ、あれだけの素晴らしい絵を描き、そしてたくさんの弔問客が葬式にやってきたということなのだろうと、後になって航也はいつも思う。
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