1-4
「わあ。すごい」
海川家にやってきて、さっそく航平は航也を自分のアトリエに招待した。部屋の中を見て航也は思わず感嘆の声を上げる。
「すごいね、航平。これ、全部航平が描いたの?」
「はい! 全部ぼくの〜」
といって両手を広げて航平はアトリエの真ん中でくるくると回る。
県内のコンクールで賞を取って、などという話を聞いて、てっきり大したことのない賞なのだろうと思った自分を航也は恥じた。絵のことはよくわからない航也だが、どれもこれも凄まじい画力なのではないかと思う。写真のようで、しかししっかり絵で、美術の成績がさほど悪かったわけではない航也でもうまく褒めることができなかったが、素人目に見て素晴らしいと思った。これはなかなか、とんでもない才能の持ち主だったようだ、と、航也は並べられている数々の絵を見て、はあ、と息をついた。
「すごいねえ、ほんとに。絵のことはよくわからないけど、いや、すごいねえ」
「えへへ」
見渡すと、どうも海の絵が多いことに気づく。この海なし県で海の絵ということは、実際に見て描いたものより想像や写真を見て描いたものの方が多いのではないかと航也は推測する。
「いまは、どんなのを描いてるの?」
と訊ねると、航平はえへへ、と笑いながらある一つの絵の前に立った。
「これ〜」
それは渚の絵だった。夕焼けに包まれ、灯台が灯りを照らし始めた絵だった。どこか物悲しさを感じる。夏の終わりに、航平自身がなにか物悲しさを覚え、それをそのまま絵に込めたのかな、と、なんとなく思う。アンニュイな様子、とでも言えばいいのだろうか。
航也はこの絵を一番気に入った。
「じゃ、航平。そろそろお茶にしよう」
と、そう言う史生に、航平は、一瞬停止し、むむ、と唸り、そして絵筆を取った。
「あ、こりゃダメだ」
「え?」
「イメージ湧いちゃったみたい」微かに笑い、史生はうなずく。「こうなっちゃうとダメなの。もう絵のことしか無理」
「へえ」
「行きましょ。お茶を出すから」
と言って史生はアトリエから出て行った。
「あ、うん」
とうなずきながら航也も後を追う。ふと後ろを振り返ると航平はさっそく椅子に座り絵の具を出し始めていた。
「びっくりしたでしょう」廊下を歩きながら史生は航也に訊ねる。「結構本格派で」
「うん。ちょっとナメてた」
「みんなそんな感じなんだよね。それで絵を見ると、みーんないまのあなたと同じ反応」
「サヴァン症候群、ってやつなのかな」
というと史生の表情にやや翳りが生まれた。
「まあ、言葉で説明するならそういうことなんだろうけど……でも私、あんまりそういうの好きじゃないんだ」
「そういうのって?」
居間に入り、後ろを振り返らずそのまま台所へと向かいながら史生は答えた。
「障害のある人に“期待”してる感じで」
いまの航也には史生のこの説明の真意がよくわからなかった。だが、後になって思う。
それは、冷たいことなのだ、と。
「えっ。三十一歳?」
軽く目を丸くした航也に、史生は微笑む。
「そう。見えないでしょ」
「二十歳そこそこかと思ったよ。なんなら十代かと」
「すごい童顔だし、子どもっぽいからねえ、あの子。年子なのに私の方がずっと年上みたいで」
「ああ。そういえば君は三十二歳だったね。俺と同い年で」
「そう。だから、発見がだいぶ早かったみたい」
と、史生はお茶をテーブルの上に置く。
「明らかに私より発達の程度が遅くてね。調べたら知的に障害があるのだろうってことで」
「大変だったね」
「みんなそう言うんだけど、私にとっては航平がいるのが当たり前だったから、その大変さっていうのがよくわからないんだよね。ちっちゃい頃からこうだから」
「うん、なんとなくわかるよ」
「でも、親は大変だったみたいね。親は知的障害者と関わったことがなかったみたいだから」
「ふむ」
「まあ、海川家はそんな感じ」
「本当に絵がすごくて」
「気がついたら描くようになってたの。きっかけは誰も知らない。とにかく、気がついたら」
「はあ、すごいな」
「日置くんは、音楽は?」
と、自分の方に話を振られ、航也はやや戸惑った。
「四つの頃からピアノ教室に通ってて」
確かに早い時期から音楽に触れてはいたが、航平の話を聞いた後だとどうしてもインパクトの薄さを感じる。
「ギターじゃなくて?」
「ギターは中学からで。学園祭でバンドを組んで、それで、取り憑かれちゃった」
「将来はミュージシャンか」
「……そうなれると、いいんだろうけどね」
あまり追及しない方がいいのかな、と、史生は煎餅を食べる。つられて航也も同じものに手を伸ばす。
「あ。ところで」
「ん?」
「“フォレスト”って、なに?」
この質問も、いままで何度も受けてきたものなのだろう。史生は特に戸惑うことなく答えた。
「さあ」
「さあ、って」
「それも気がついたら、なんだよね。なにかいいことがあったらフォレスト、フォレストって」
「森がどうかしたの?」
「本当によくわからないの。でもネガティヴな気持ちのときには言ってないね。なにかいいこととか、嬉しいこととかがあったら決まってフォレストっていうの。おかしいでしょ」
「ふうむ……変わった口癖だ」
それも細かく分析すればなにかわかるのかもしれないが、精神分析など航也の領域ではない。確かに特養に勤めていて利用者たちのアセスメントを日々してはいるが、まだ介護士でもなんでもない丁稚の航也に決定的な心理学的アプローチはできない。
ただ、あるがままに。
それが特養で勤めて彼が得た仕事の流儀だった。
「あなたのことが気に入ったみたいね」
「そうなのかな?」
史生はくすくす笑う。
「昨日から日置くんの話ばっかりしてるもの。元気かなあ、また会いたいなあってね」
自分のなにかに航平がシンパシーを覚えた、ということなのかな、と、なんとなく思う。
それは少し、嬉しいことだった。
「にしても航平、さっきからずっと出てこないけど大丈夫?」
「いいの。あの子はいつもああだから。ふふ、お礼はどこにいったのかしらね」
ふふ、と、航也は微笑む。
なんだか和やかな昼下がりだった。
しばらくして、ようやく航平がやってきたタイミングで、そろそろ行かなくちゃ、と航也は立ち上がった。航平はそれはそれは残念がったが、史生に諭され、なんとか受け入れたようだった。
「じゃあ、俺はこれで」と、ギターケースを抱えて玄関に立ち、航也は軽く会釈した。「ご厄介になりました」
「ううん、大丈夫。それから、昨日は本当にありがとう」
「ありがとうですぅ」
絵の具だらけの作業着を着て航平は深く深くお辞儀をした。絵の具だらけの顔を上げ、航也は笑う。
「絵の具がすごいね」
「えへへ。もうちょっとで完成なのだ」
「完成したら見せてよ」
気軽に言ってみただけだったのだが、思いの外航平は喜んだ。
「はい! 絶対、絶対また見てね!」
「はは」
「ライヴ頑張って」
「頑張って!」
二人にそうエールを贈られ、航也は心の中でため息をつく。
頑張っては、いるのだが。
「じゃあ、また」
「はい! また!」
「バイバイ」
そして航也は海川家を後にした。
道を歩きながら、航也は、これは友達ができた、ということなのだろうか、と、なんだかわくわくしてしまった。
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