記憶外部ストレージ

武上 晴生

 夢から意識が戻ってきて、思考が徐々に動き始める。

 まどろみの中で、ひとつひとつの感覚をじんわりと確かめる。

 頭がある。呼吸がある。腕が温かい。背中が痛い。目蓋はまだ重い。しばらく開けられそうにない。

 そもそも、本当に、目を開けられるのだろうか。この目蓋は本当に、自分の意思で動くものなのだろうか。いつも、どこに力をいれて、どんな意識をして目を開けていたのだろう。そもそも目を開けるって、なんだろう。目蓋を上に持ち上げることで合っているだろうか。目覚めるという言葉は目を開けることと同じことだっただろうかか。起床や起きるという行為は目を開ける動作とどのような関係だったか。目を開けるってなんだっけ。起きるってなんだっけ。何をすればいいのだっけ。今、なにをすべきなのだっけ。

 瞬間、自分の存在が危うくなるほどの強烈な不安に駆られて、とにかく全力で跳び起きた。

 浮き上がった背中の下から、何かの物体がパキッと音を発した。

 それを本能のまま、身体の覚えるままに、無我夢中で捕まえる。そして、ガシカシと顔に叩きつける。

 そろそろ顔が痛くなってきた頃、運よく目元につぽっとハマった。

 目をパチパチさせて、ようやく、思考がクリアになってきた。

 あぁ、これはメガネだ。いつもつけているグラスだ。背中が痛いのは、こいつがなぜか自分の下敷きになっていたせいだ。

 そのまま、また癖で、左耳の近くの柄を触った。ポォン、と音を立てて、グラスは起動した。



2022年10月25(火) 7:24

☀9℃ 半袖+パーカー着用推奨

起床モード

やることリスト

□朝食 (詳細)

□着替え(~9:30,Ave.15分)

□洗顔

□お手洗い(0/2回)

□ログボ(3件)

□連絡確認(緊急0件,趣味2件,他3件)


本日の予定

・大学通学

・課題提出

・シナハン

・本返却

・昼ごはん

その他11件(非表示)


メニュー/体調確認/今日の豆知識/趣味情報

情報表示設定/画面色設定/視点操作/モード変更

 画面いっぱいの文字。

 そうか。自分は「起床」したんだ。ようやく実感を得られて、心底安心した。

 そのごく当たり前の二文字の熟語を今更実感しながら、自分の危うさなんて考えたくないので蓋をする。

 グラスに表示された文字を上から順番にざっと眺める。一番上の「朝食」の「詳細」に視線を合わせた。表示が変わる。


   『キッチンへ移動』『余り物調理(0~60分)』


 二つの選択肢が表示された。レシピを考えたいわけじゃないので、移動、を選択。

 自動的に、モードが『起床』から『歩行』に切り替わる。

 すると、床に矢印による道案内が表示され、同時に、壁や天井、見え得る範囲そこかしこに『ⓘ』のマークが現れた。

 とりあえずⓘは無視して、レッドカーペットのように地面に描かれる矢印を踏んで廊下を歩き、階段を降り、キッチンに入る。


   『人物検知』


 一瞬、ビクッとたじろぐ。

 人がいると、それが誰であっても、何か自分のモードを変えなきゃいけない気がして、固まってしまう。

 でもここ、確か自分の家、(画面を見て現在地が「自宅」とあるのを確認した)、そう、自分の家の中、にいる人ということは、家族か何か見知った人であることに違いはないはず。

 一歩進むと、その人の認証結果が表示された。


   『道沢 安芸(ミチザワ アキ) 続柄:姉 呼称:兄貴

    親密度:最高、会話ガイド不要』


 アキ。アキ姉、と口が自然に開きそうになる。が、「兄貴」の文字を見て、

「あね……アニキ? おはよう」

 エプロンをつけ、髪の毛を明るく染めた、グラスをつけていないアキはにやっと笑った。

「おっ、呼称欄変えた効果あり。昨日はあねさまって呼ばせてた」

 いたずらをされた、と悟った。相手の口ぶりからするに、軽口を叩ける関係なのだろうか。安心して口を開く。

「おかしいと思った。勝手にいじんないでよ」

「今日の予定は?」

「話逸らすな」

 言いながら、予定を確認するために、モードを切り替えようと右手をあげたとき。

「予定、覚えてないの?」

 予想外の言葉に、対応できない。咄嗟に会話ガイドを開こうとしたが、それは望まれていない気がした。グッとこらえて手を下ろす。

「覚えて……な、0、なわけ、ではない、けど。でも、グラス、裏付けがないと、不安、分かんな、い」

 やっぱりガイドがないと、上手く言葉が紡げない。アキから目を背ける。

「覚えてるって言いたいの?」

「……目が悪い人はメガネなしじゃ何も見えないでしょ? それと同じで。覚えてないんじゃなくって、これがないと、記憶が見えにくくって」

「ぼやけている、と」

「そう。このグラスを外したら記憶という視界がぼやける。記憶の補助装置だから、これがあるから別に全部を覚えていなくたって構わない」

 アキは頭を掻いた。

「あんたってさぁ、反論するときだけ口下手が消えるよねぇ」



 今日は大学の授業が休講の代わりに、課題が設定されていた。

 『本日の予定→課題メモ』を見ると、「シナハン」とだけ書かれている。忙しかったのだろう、意味も何もメモされていない。

 グラスに保存されていた、授業ノートを確認したところ、これはシナリオ創作演習の課題で、「シナリオハンティング」の略。さらに先週の先生の音声録音を聞くと、外に出たり大学構内を歩いたりして、目についた

ものを観察したり、人にインタビューしたり、思い思いに過ごして、一時間後に帰ってきたら印象的なシーンを元に一~五ページのシナリオを書く、という課題らしい。

 〆切は明日。

 タイマーをセットして、『歩行モード』にし、外出した。


 目的地を設定しないと、どうやらエラーメッセージが出てしまうようだった。消し方が分からない。興味のまま歩けと言われても、エラー表示の点滅にしか目がいかない。表示を最小に設定して、人のいない方へまっすぐ歩く。

 道々に表示される『ⓘ』マークに視線を合わせる。一秒くらいすると詳細情報が表示される。

   『エゴノキ(Styrax japonica)落葉小高木 和名は果実の味がえぐいことに由来』

   『ドバト カワラバトを家畜改良した家禽が逃げ出して野生化したもの』

   『駐車禁止標識 駐車の禁止。違反した場合道路交通法により違法になる』

   『永島書店 いらっしゃいませ!私たち永島書店は映画や演劇関連の書籍を専』

 視線入力でブックマークをつけたり、メモしたりする。『書店 古そう』などの雑なメモが百七件たまったあたりで、まぶたがピクピクと痙攣してきた。


 河川敷に座って、グラスを外してみる。情報の少ない世界はソワソワする。

 見ているものが「何」なのかを、誰も何も教えてくれないことが、こんなにも怖くなろうとは。昔は思ってもみなかった。じわじわと不気味な感覚が身体を蝕む。

 すぐ前を歩く人が知り合いなのか分からない。ここにあるものが何て名前か分からない。記憶を掘り起こしても、感動した物語も、結末を思い出せない。昔何百回も歌った歌のサビの音程が分からない。昨日何やったかうまく答えられない。固有名詞が、思い出が、自分の中からどんどん薄れていくのを感じている。

 自信を持って答えられるものなんて、自分にはないんじゃないのか。

 グラスのことをアキがどう思っているのか分からない。物を覚えているのが当たり前のことだ、という雰囲気を感じ取るとちくちくする。

 でも、きっと帰ったら、こんな疑問も忘れている。メモをしようとして、それもやめる。忘れたくないことを半永久的に留めておけるのがこのグラスなのだ。忘れたいことは瞬間的に捨ててしまえる。それはいいことなんじゃないか。だからグラスはいいものだとアキに伝えれば認めてもらえるのだろうか。あれ、そんなことを言いたかったんだっけ。

 思考がまとまらなくなって、眠くなって、居場所が分からなくなって、とりあえず自宅までのルートを検索した。



「ただいま」

 門限の時間に玄関に着いた。このあと手を洗ってお風呂をつけて、夕飯をどうするかアキと話して、などとチェックボックスを確認していると、アキがキッチンから声をかけてきた。

「おかえり。夕飯あるけど」

「食べる」

「課題の取材に行ったんでしょ? なんかあった? ネタになりそうなの」

 そういえばシナハンに出ていたんだ。ハッとしてグラスを触る。

「一・五キロ歩いて、河川敷の方まで行って、十三分滞在して、帰ってきた」

「そうじゃなくて」

 アキはぶんぶんと手を振る。

「河川敷にはなにがあった?」

「え……あ、グラスで撮ったけど見る?」

「いやー? 言葉で説明してほしい」

「覚えてないって」

「そんなわけないんだって」

 ムッとして何か言おうとするが、言葉が出せずに詰まってしまう。

「朝聞いたじゃん、『予定、覚えてないの』って」

「聞いた」

「実はさ、私、一か月間その質問してたんだよ。あんたがあまりにも覚えてない覚えてない言って自信なさそ~にしてたから、試してみたくって。最初は言葉につまってばっかだったけど。でもグラスを肯定する言葉だけは、日に日に饒舌になっていった。今日なんかあんたの記憶が0じゃないって、自分で言ってたじゃん?」


 そのときだった。突然、ふわっと、景色が浮かんだ。もやのかかった景色。でも、感覚だけは鮮明な記憶だった。握った手はあたたかく、聞こえる言葉は強めの口調で、どこかから感じるメロンシロップの香り。ここは河川敷で、二人で歩いている。

 手が離れた。一人になった。目の前を探した。大きな川が、向こうの景色がはっきりしてくる。川の向こうに立っている姿があった。アキが立っていた。行ってしまう、と思った。それを止めることができなかった。

 その輪郭が消えていく。声が、においが、感触が、二度と戻せなくなっていく。

 記憶がボロボロと崩れていくのを、止めたかった。

 閉じ込めたかった。

 だから、記憶の外部ストレージとして、このグラスを頼った。


「そういえば、予定、今朝、言わなかったのに、シナハンに……河川敷に行ったって知ってたんだ。グラスの設定をいじれたのも、その」

 口をついて出た。その瞬間、アキがにっと笑った。

「そりゃ、私がグラスの中の存在だからね」

 その声色を聞いて、そうか、と気づいた。アキは、グラスの中じゃない、本人を思い出してほしかったんだ。

 メガネを外してみた。キッチンには誰もいない。一人前の食器が、夕陽に照らされていた。

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記憶外部ストレージ 武上 晴生 @haru_takeue

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