第4話

 ドアーを見ながら、どうも苦手な質の者であった、と凛之助は思い返した。

 将校というのは得てして気位高々で良くも悪くも誇り高い人物が多いのが相場なのだが、伊高大尉はこれにまったく該当しない性質であったから、彼のようなのはやりにくい感じが否めなかった。


 というのは、事実上の建前で。


 本音を云うと、あの獲物を見つけた肉食獣のような眼といやらしさが透けて見えるねっとりした手つきに、本能的な貞操の危機を覚えているだけであった。残念ながら(?)凛之助にはそういう趣味はない。


「オイ、いつまで突っ立ってんだ。座れ」


 いつの間にか茶を啜っている坂口に声を掛けられて──さっきまで伊高大尉が座っていた場所を避けて──ソファーに腰掛ける。


「辻斬り権兵衛の噂か。ユザレのほうからも話が来てたが、また面倒くさそうな怪異だな?」


 茶請けの最中をバリバリ食いながらぼやく坂口に、凛之助は綽然として答えて伊高大尉が口をつけなかった茶と菓子を口に運んだ。


 ユザレ。


 秘密結社ユザレ。


 要人でも一握りの許された人間しか存在を知らない、日本の霊的守護を担う裏組織にして平安から続く陰陽師一族たちの集まりである。

 その歴史は古く、祖は平安初期の陰陽寮にて名を馳せた滋丘川人にあると云われている。

 人に仇なす怪異を機密裏に狩るのが、秘密結社ユザレと陰陽師の使命である。そして坂口霊能事務所はまさに秘密結社ユザレの窓口であり、同時に帝都守護任陰陽師たる赤城凛之助が生活する拠点なのだった。


「ある程度の条件がわかっているならば、対策は容易です。労することはないかと」


「へっ、そうかよ。で、今回は何を持ってくんだ」


「いつものを一式。破魔の祝詞が彫られた投げナイフ四本、モ式拳銃の銃弾三〇発。銃弾は伴天連の祝福済みの銀弾頭を。前回の依頼で在庫が切れましたので」


「あいよ。ったく、相変わらずな注文だぜ」


 つらつらと紙切れに注文を書き取った坂口は、文句をぼやきつつも受話器を持つとダイヤルを回してどこかへと連絡を回し始める。

 この坂口と呼ばれる男は、坂口霊能事務所の所長。

 などと嘯いているが、本当の仕事は所長なのではない。彼の本当の仕事は、凛之助の監視──ようするにお目付け役である──と、補佐。

 とりわけ物資調達や情報収集など裏方での支援が主だ。特に情報収集に関しては凄まじく、母校であるアメリカはマサチューセッツ州アーカムのミスカトニック大学で培った巧みな交渉術で必要な情報をすぐさまかき集める。

 その仕事ぶりは、さすが元帝国海軍諜報部の面目躍如と云ったところか。


「調査へ行ってきます。情報は不要ですので、物資だけを」


「はいはい、いってらっしゃい」


 茶と菓子を食べ終わるなり立ち上がった凛之助は、自室の本棚の裏にある隠しクローゼットから、退魔刀である祀狼丸とモ式拳銃がはいった銃嚢を取り出し、外套を羽織って再び外へと出た。


 斜陽とて雲に隠れては姿も見えぬ。

 影法師に飲み込まれた夕暮れの帝都は日本橋区。

 機関街灯と窓から洩れる機関ランプの明かりの下を行く凛之助は、辻斬り権兵衛の噂の内容をより具体的に知るため、日本橋の調査を行っていた。


 多くの問屋が軒を並べるのに加えて魚河岸が置かれているここは、今日も今日とてたいへん多くの人々で賑わっている。

 魚河岸では男たちが威勢の良く売り物をがなりたてて、女たちが籠を片手に大勢詰めかけていた。問屋街のほうでは、モダンな外装の建物の下を、これまたモダンな服装で着飾った若者たちがご機嫌な足取りで道を行き交っていた。


(辻斬り権兵衛。その正体はたして枯れ尾花か、それとも……)


 そんな雑踏の中にあって、日本橋の端っこに立つ凛之助は、眼鏡を外して辺り一帯を浄眼による霊視でつぶさに観察していた。

 彼の瞳から見た世界では、人が濁った透明色に映っていた。時々、青色や赤色を帯びた人間がいたり、死者の魂が漂っていたりもするが、どれも凛之助が探しているものではない。彼が探しているのは、怪異の痕跡である。


 仮初の肉体を与えられたと云っても、呪詛によってできた身体だ。怪異が現れた場には必ず、霊視や特殊な道具を使ってしか捉えることのできない呪いや穢れが、毒々しい紫色になって残る。ゆえにこうして、地道に怪異の痕跡を目視確認しているのだ。


(怪異の痕跡が見えない。やはり雨の日の午前〇時という条件が整わないと、姿かたちも視認できないか)


 通常の怪異ならば何らかの状態で出現した痕跡が確認できるのだが、今回は少しばかり勝手が違った。

 どうやら出現条件がある程度指定されている以上、その時にならなければ辻斬り権兵衛は見えないようだ。


「……そうか。ならしかたないな」


 誰か伝えるでもなく呟き、眼鏡をかけ直す。現状では怪異の姿を確認できない以上、これ以上の霊視は不要だ。ここにはもう用はない。


 凛之助が次に行ったのは、周りの人物への聞き取り調査だった。


 まず最初に聞き取りを行ったのは、いつも日本橋の手前で屋台を構えているたい焼き屋、その店主をしている老夫婦である。

 同じ場所で長く生きているからこそ、調べ物をする際は、変化に敏感である彼らに委細を聞くのが手っ取り早い。


「ああ、あの妙な噂か」


「ええ。オカルトを研究しているので、少し興味が湧きまして」


「やめなよ書生さん。縁起でもない噂を調べるだなんて。大学に受かんなかったらどうするんだい」


「まあまあ、いいじゃねえか婆さん。そう目くじら立てなくっても。男ってのは、いつの世も刀と侍が好きなもんでぇ、こういう噂の聞ちまえばどうしても知りたくなっちまうのサ」


「まったく何を云ってんだい、この老いぼれ爺は」


 不愛想に聞く凛之助に、老夫婦は仲睦まじい様子でこう答えた。

 今回の噂に関しては、ふたりからしてもいささか以上に不気味なようで、噂に関しては不安に笑顔を曇らせるばかりであった。


「して、噂の程は」


「実は辻斬り権兵衛ってのはな。ここ最近、急に聞き始めたんでぇ。俺らも驚いてんだ」


「昔から、似たような噂もなかったと?」


「そうさね。ここいらで辻斬りがあったなんてのは、聞いたこともないからねえ」

「ふむ……」


 老夫婦の話では、日本橋で幽霊騒ぎ、あるいは刀傷騒ぎなんてのは、これまで一度も起こったことがないらしい。

 流石に江戸以前まで遡ればあるかもしれないが、少なくとも明治から現在に至るまでは平穏であったそうだ。

 これを聞いた凛之助は手帳に鉛筆で情報を書き留めながら、となるとやはり原因はあの噂か。と頷いた。

 今回の場合であれば、人々が辻斬り権兵衛の噂をすることで畏れが日本橋に集まり、噂を再現する怪異に転じてしまった。ということになるだろう。


「他に、何か変わったことは?」


「さあねえ……黒い手袋を付けた人が増えたくらいかしら」


「知ってるぜ。ああいうのが、今の若者の流行りって奴なんだろ? お前さんはしてねえみてぇだが」


「自分はあまり、興味がないもので……。お話、ありがとうございました。必要なことは聞けましたので、これにて失礼させていただきます」


「おう、もういいのか?」


「ええ、十分です」


 どちらも人好きしそうな雰囲気でたい焼きを勧めてくるから、凛之助はついついたい焼きを三十個ほど買ってしまった。たい焼きは実に美味であった。


 腹ごしらえを済ませてから、さらに書生や女学生、辺りを走り回っていた浮浪児などに聞き込みを続けていくと、辻斬り権兵衛についての噂について様々なことがわかって来た。

 曰く、濃い緑色の流しを着ている。

 曰く、黒い籠手に赤い陣羽織を羽織っている。

 曰く、六尺以上もある美丈夫の貴族である。

 曰く、青ざめた顔で骸骨の如く痩せこけた落ち武者である。

 曰く、人を切るのは首級を求めているから。

 曰く、人を切るのは人殺しを快楽としているから。

 曰く、曰く、曰く……。

 まるで話に纏まりがなく、情報が確定しない。

 恰好どころか、人を斬る目的すらも曖昧でわからない。だがどの話でも共通して、雨の日の午前〇時に日本橋に出て通行人を斬る、という部分だけは一致していた。

 どうやらこの部分こそが辻斬り権兵衛の核になる部分らしい。噂以上の情報は得られなかったが、怪異の出現条件を確定できたのは確かな成果だ。

 凛之助が覚えている限りでは、今週末は雨模様だと新聞の天気予報で報じられていた。もどかしいが、それまでは待つしかないだろう。

 逆を云えば、雨が降るまでは被害も起きないだけだから、そう慌てたものでもないから気は楽だ。雨が降るまでにしっかりと準備を整えておけるのは、存外と心に余裕ができる。


(まあ、準備の時間が十分にあるのは良いことか)


 これ以上の調査は不要と判断した凛之助は踵を返して、日本橋から問屋街の雑踏に足を踏み出した。


「おう、凛坊。今日は何十個だ」


「二十個お願いします。それと凛坊ではありません、凛之助です」


 事務所にも戻る道すがら、新宿にあるお気に入りのあんぱん屋で買い食いをしていると、この辺りでは見ない顔の宣教師が、道端で声を張り上げて説教をしているのを見つけた。


「──で、あるからして、我々の修める教義とは、皆様の心身に安寧をもたらし、清らかにするものでありますゆえ、もしも興味のあるのであればそこなお方、是非ともお声かけ下されば、我ら広く心を開く次第にございます」


 頬がこけて、目の下に大きな隈ができた、今にも倒れてしまいそうな青白い男だった。

 長髪が脂ぎっており、額から大量の汗を垂らしている。手の甲の部分に奇妙な文様のついた黒い手袋がやに光って見えた。

 通行人は彼の話に興味がないのか、誰も彼もが無視して通り過ぎたり、怪訝な視線を送っている。

 足を止めているのは浮浪者や労働者ばかりだが、暇潰しに聞いているだけで真面目には聞いていない様子である。


「あの宣教師、いつからここにいるんですか。前は見かけなかったはずですが」


「さあなァ。気付いたら毎日あそこで説教してんだ。宇宙神秘教だか何だかって、朝から晩まで、熱心なもんだぜ」


 あんぱん屋の店主に聞くと、不愉快を隠そうともせずに眉を顰めて云った。


「そうですか。信心深いのですね」


「冗談じゃねえ。あれのせいで浮浪者が集まってくんだから、邪魔ったありゃしねえよ」


 残念ながら彼の頑張りは、周囲の人間からあまり好意的には見られていないようだ。

 凛之助は宣教師の男を哀れに思ったが、彼自身も説教を聞く気はなかったので、話は聞かずに横を通り過ぎるだけにした。

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