第5話
調査を終えた凛之助が、夜の帳が下り始めた新宿の街のけばけばしい機関ネオン燈看板の輝きの下を歩いて事務所にはいると、坂口が酒で鼻を赤くして管を巻いていた。
「ったくよぉ、なんで海軍の出世柱だった俺が、こんな辺鄙な事務所の所長で、ガキのお守なんかしなきゃなんねえだァ……」
「あまり飲むと健康に悪いですよ」
「ウルセェ~……知らねぇ~……」
行儀悪く事務机に足を投げ出して、ジンで満たされたグラスをゆらりと傾ける彼を横切り自室に戻った凛之助は、身に着けていたものを脱いで部屋着になると呪符の制作に取り掛かった。
墨を硯で何度か擦って墨水に筆に浸すと、自身の霊力を筆に流しながら、長方形の和紙にさらさらと呪詛を書き記していく。
凛之助は陰陽師の中でも火、水、木、金、土の属性からなる結界を呪符で操る”五行結界術”を得意としていた。
五行には相乗と相剋と呼ばれる関係があり、それぞれが補い合い、または征服し合う関係にある。
今まさに彼が作っているのは、五行においては水の属性に対してもっとも効果を発揮する土の属性を宿した呪符だ。
河川や湖などの水辺には霊が集まり易いと云われているように、水と呪詛の結びつきは非常に強い。
これは怪異にとっても同じことで、水辺に生まれる怪異は総じて強い水の力を持って生まれてくるのが常だ。
当然”雨の日の日本橋”という水が豊富な場所で生まれた辻斬り権兵衛もまた、非常に強い水の力が宿っていると考えられる。
だから彼は、土剋水……土は水を吸い、あるいは堰き止め水の流動する力を弱め打ち勝つ力があると決められている、土の属性を持つ呪符を用意しているのだ。
「……こんなものか」
おおよそ十枚ほど土の呪符を作り終えて、ひと休みに身体を伸ばす。背中からパキパキと小さく骨の鳴る小気味の良い音が聞こえて、大きな溜め息が漏れた。
壁の時計を見ると、もう夜更けが近くある。思っていた以上に時間が経っていたようだ、そろそろ食事をしなければ遅い時間になってしまうだろう。
欠伸を噛み殺して立ち上がった凛之助は、部屋を出ると台所へ向かう。その時、隙間風か、部屋に残された呪符の一枚が風もないのにかさりと小さく揺れた。
「んぐご……飯かぁ~?」
「坂口さんも食べますか」
「ガキに飯食わせてもらうほど落ちぶれてねえよ、ばぁ~か」
ほとんどへべれけに答えた坂口に、凛之助はそうですかと返して料理に取り掛かる。
今日作る料理は肉炒めだ。機関式冷蔵庫からとりあえずいろんな肉と少々の野菜を中華鍋にぶち込んで調味料を適量振って炒めたら、あとは茶碗に文字通り山盛りの白米と漬物を盛る。これでご機嫌な夕餉の完成である。
「うぇ……見てるだけで胃もたれすんぜ……」
心なしか上機嫌に夕餉を事務所の机に持ってきた凛之助を、坂口はいかにも具合悪そうに見た。
なにせ運んでくる量が尋常ではない。
大盛なぞ甘えだと云わんばかりに盛られ、大食いの人ですら躊躇するであろう山になった白米と肉炒めだ。酒とつまみで膨れた中年の胃袋には見た目だけでもかなりきついものがあった。
「いただきます」
しかし当の本人は坂口の視線なんてどこ吹く風。両手を合わせて小さくお辞儀をすると、かなりの速さで白米と肉とを交互に口に運び始めた。
「……お前よぉ、んなに食ってどうすんだよ」
「どうする、とは」
「あれだよ、ほれ。なんつうの? え~と……」
目の前で無心に箸を動かす暴食の権化みたいな少年に、坂口は呂律の怪しい気だるな声をかける。
酔っぱらいの戯言はいつの世も迂遠な話になるものだ、例にも漏れずこの会話も、坂口の欲している答えからはひどく迂遠なものだった。
「無駄じゃねえの?」
「坂口所長、食事に無駄はありません。食べることは生きること、生きることは食べることです。我々は飢えを凌ぐため他の命をいただくことを意識して……」
「うるせえよ、勝手に話を進めんな。そうじゃなくてなぁ、そりゃ食いすぎじゃねえのってんだよ」
「食いすぎ、ですか」
「バカスカいっぺんに食わなくたっていいだろって話だ。どんだけ食ったって、心が餓えてたら満たされねえんだよ……それをお前、こんな毎日山盛りで食って……」
「霊力を消費すると腹が減ります。それに精神エネルギーたる霊力は他の命を糧として日々体内で生じているのです、陰陽師たる者は大いに食べるべきです」
「だからってなぁ、おめえよお……ガキが重荷ばっか背負ってんじゃねえよ……」
徐々に眠気が襲ってきたのか、うつらうつらと坂口が舟をこぎ出す。凛之助は箸を止めて、酒精に淀んだ彼の瞳をじっと見つめた。
「ガキなんだからよ……ちったぁ、大人を頼れってんだよなぁ……。てめえばっか、頑張るんじゃねぇよなぁ……」
「……はい」
「俺ぁお陰陽師の才能はねぇし、国のためとか、んなのにちっとも興味はねえけど……ガキの未来は、かくあるべきだと思ってんだ……」
「……」
「おめえは、本来……大人に、守られてりゃあいいんだよなぁ……俺には才能なんかなくって、とんと無理だったけどよぉ……やっぱ、こんなガキに背負わせるにゃ、責任が重すぎ……だよ、なぁ……できりゃあ、かわって、やりてぇな……」
最後の力を振り絞ったようにここまで云って、かくりと頭が落ちた。アルコールがもたらした睡魔に敗北した坂口が、机に突っ伏して高いいびきを立て始める。
彼が最後に見せた感情は、普段の憮然としたものではなく、凛之助というひとりの少年の未来を案じる大人の顔だった。
普段は面と向かって云えない本心を、アルコールの力を借りてしか伝えられない不器用な大人の顔であった。
「……坂口所長」
少しだけ、過去の話をしよう。
坂口は元々、陰陽師の家系に生まれた三男だった。
しかし彼に陰陽師としての才能はなく、実家からは出来損ないの烙印を押され、小さい頃はふたりの兄の活躍を聞きながらとぼとぼ学校へ通っていた。
兄ふたりは実家の者たちと違って優しかった。
才能がないことで実家では冷遇されていたが、ふたりの兄から愛情を受けていた。坂口の少年時代は、恵まれてはいなかったが幸せに満ちていた。
そんな日々が終わったのは、彼が十歳になる頃だった。
ふたりの兄が怪異に負け、殺された。
子供に任せるには荷が重いと云われていた強さの怪異を、実家が箔付けのために無理を通して押し付けた結果であった。
兄たちはまだ、十五と十七だった。
兄たちは大人たちの勝手な事情で殺されたも同然だった。
そういう経験があるから、坂口は子供である凛之助にだけ危険を背負わせるのを、心の底ではどうしても納得できないでいた。
兄たちを大人の都合で振り回して殺した、家族と同じように思えてしかたがないのだ。
「気遣い、痛み入ります。坂口さん」
もう声は聞こえていないはずの坂口に、凛之助はぺこりと小さく頭を下げる。
「ですがこれは、自ら進んで選んだ道。躊躇いはありません。自分はあの日、あの森で、命を救ってくれた御師様に報いるため、御師の遺した言葉”己が信ずる高きに順うべし”に従い、伏魔滅殺を絶対と胸に刻んで生きているのです。牙無き人々の明日を守る。御師より受け継ぎ、そして己に課した高きに順じる。その覚悟が”俺”にはある。そのために努力したんだ、御師さえも見捨てて。……ですから、気遣いは無用です」
まどろみに落ちた優しき大人に、あえて突き放した言葉を以って答える。
その顔はどこか悲しそうな、それでいてうれしそうな、複雑な表情だった。もっと踏み込んで云えば、迷子を認めない子供のような、強がった顔であった。
過去に受けた経験、心の傷は、そう簡単には癒えない。
どれだけ時が経とうとも、凛之助は大人という生き物を心のどこかで信じることができなかった。
自分を拾い育て、糧となった御師以外は。
「おやすみなさい、坂口所長。良き夢を」
凛之助は最後にこう告げて、静かに席を立って食器を片付けに行く。
「……ばかがよ」
狸寝入りの坂口が呟いた一言は、彼の耳に届くことはなかった。
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