第3話

 徒歩で十分ほど道なりに進み続けると、凛之助の目指す目的地が見えてきた。開発途上の忙しない雰囲気から少し離れた地区にある真新しい小さなビルヂング、照郭楼の二階にはいっている”坂口霊能事務所”は彼の住処でもある。


「おはようございます」

 

 折り目正しく四回ドアを叩いてから中へ入ると、応接用に置かれた革張りのソファに客人が座っていた。ちょうどさっき来たような風貌であった。

 座っていてもわかるほどの長身?躯で、怖気のするほど耽美な顔立ちをしていた。男女の色香を混ぜ合わせたようなその風貌はある種の抗い難い蠱惑が漂っており、見る者を倒錯させる妖艶な色がありありと噴出している。身分は、茶褐色のマントを羽織り、ところどころに金糸の刺繍がはいった茶褐布の軍服という恰好からして陸軍、胸元の勲章から階級は大尉と推測された。


「おや、フフフ……お邪魔しているよ」


 凛之助の存在に気が付いた陸軍将校が挨拶をすると、凛之助は脱帽して礼することでこれに応えた。思っていたよりも高い声だった。女性のように艶やかである。


「おお、凛之助か。ちょうどいい、茶と菓子を用意してくれ」


「はい」


 机を挟んで陸軍大尉と相対する無精髭を生やした背広の男、事務所長である坂口に指示され、凛之助は外套をドアー横のコート掛けに掛けてから、給湯室へと向かう。

 三文雑誌や研究資料など、多くの書物が乱雑に積まれた小さなこの場所は、機関科学の発展した現代においてはいささか眉唾な”オカルト”を専門とする探偵事務所である。

 犬神憑きや悪霊騒ぎ。妖怪の噂に呪いの品々。古今東西の様々な不思議な出来事、奇妙な物品を研究、調査して解き明かす。そういう奇天烈なお題目を恥ずかしげもなく掲げているのがここだ。

 そしてかような場所であるがゆえにか、それともオカルトというのはいつの時代も奇異な人物の関心を引くものであるからか、ここに依頼を持ち込む人物もまた別の方面で奇特にあった。もちろん。この陸軍大尉も例に漏れずその奇特な人物に相違なく、凛之助が茶を用意している間、二人の間ではこのような会話が起こっていた。


「しかし”辻斬り権兵衛”ですか……にわかには信じられませんな。そのような話」


「そうであろうな。吾輩も信じるには少々の時間を要した。だが火のない所に煙は立たぬと云う通り、実際に被害が出た。先日にも袈裟懸けにバッサリと斬られた上に、内臓を引き摺り出された土座衛門が上がっている。雨が降った次の日……噂通りならば、雨の日の午前〇時に殺されたことになる。新聞社には無用な混乱を招かぬように規制を強いているが、人の口に戸は立てられぬ」


「それはそれは、背筋の凍る話で……対策はなさっているので?」


「憲兵と警官隊が共同で捜査に当たっている。が、知っての通り両陣はこと不仲でな。嘆かわしいことだが、末端のほうではお互いに足を引っ張り合って、捜査が遅々として進まぬ。このままでは何の進展もしないまま次の犠牲者が出かねぬのだ。臣民の安全を守るのが仕事というに、それではまったく恥の極み。陸軍としてもそのような事態になるのは避けたい」


「それで、我々に依頼を?」


「うむ。憲兵も警官隊も己の利と威信を守るばかりで役立たず。となれば、ここは第三者に頼み両者の顔を立ててやるのが筋であろう。立てる顔があればの話だが」


「ハハハ……しかし我々はオカルト専門です。どのようなお心算で?」


 ここで、陸軍将校はわずかに声を潜めて私語いた。


「これは吾輩の勘なのだがな、どうも今回の事件は人知を超えた者の存在を感じるのだ。例えば、そう……”怪異”の仕業なのではない、かとな」


 ”怪異”。


 それは災害などの超自然的現象。流行り病や不治の病。心中に燻る他者への悪意や執念。過去の事故、事件に由来する怨念。土地や地域に根付いた忌避と嫌悪。噂や伝承に対する人々の畏怖。それらが人々の放つ無意識の呪詛によって具現化した存在だ。

 人に害をなす悪しき妖怪や物の怪の類である。と云えばわかりやすいだろうか。噂をすれば影が差す。誰かが吐いた?や作り話であろうと、多くの人々が畏れを以って伝え続ければやがて本当に成る。


 市井で実しやかに私語かれている噂の中の存在でしかない殺人鬼が、今まさに事件を起こしている辻斬り権兵衛なのではないかと、この陸軍将校は疑っているらしかった。 


「とにかく、そのような存在が今回の事件の裏に見え隠れしている。ゆえに、ここへ来た。専門家の力を借りるためにな」 


「お国を守る皆々様のお力になれるほどとは思いませんが」


「フフフ、これでも下調べは欠かさぬ身でな? 浅学ながら、ここがどのような場所かを理解しているつもりだ」


 陸軍大尉が上品な笑い声を上げ、坂口の眉が微かに釣り上がる。

 と、ここで凛之助が来客用の玉露と山盛りの菓子を運んで来ると、坂口が冷徹さを纏った眼になった。


「では、合言葉もご存じというわけだ」


「無論。合言葉は、たしか……そう。”今昔聖は人世のために”だったかな?」


 聞いて今度は、凛之助が柳眉を釣り上げた。この場で合言葉を発したということは、この将校は坂口霊能探偵事務所の”本当の姿”がわかっているということに他ならない。

 無論、凛之助の”真の役職”も理解しているに違いなかった。


「凛之助」


「はい」


 坂口の鋭い声に素早く返答した凛之助は、真面目腐った無表情で空の盆を脇に持つと、陸軍式の敬礼と共に名乗った。


「これよりは秘密結社ユザレ所属、帝都守護任陰陽師、赤城凛之助がご用件を承ります」


 ほう、と陸軍大尉が感嘆した息を吐く。


 帝都守護任陰陽師。


 名の通り、帝都守護の任務に就く”陰陽師”のことだ。帝都の平和を脅かすあらゆる脅威を排除する役目を背負ったこの役職は、無論大任である。


 日本の首都たる東京の防衛を一手に担うこの任務に就くには、死と隣り合わせの非常に厳しい試練が課せられる。

 おおよそ五十年も後任がいないのが普通だと云えば、どれだけ厳しい道のりか少しはわかるだろう。

 生半可な実力では到底越すこと叶わず、血の階が染みのひとつになるだけ。試練を乗り越えることのできた真に強き陰陽師のみが、この誉れ高き任務に就くことが許されるのである。


 伊高大尉の溜め息は、このような少年がその役職についていることへの驚きと懐疑であった。


「大日本帝国陸軍所属、伊高大尉である」


 とはいえ、そんな感情を見せたのも一瞬であった。束の間には感情を隠してすっくと立ち上がってそう返した陸軍大尉は、にこやかな表情で陸軍式の敬礼をすると奇妙な文様の付いた白い革手袋に覆われた右手を差し出した。

 座っている姿勢でも随分と背が高いようであったが、立つとその長身がいやでもわかる。おそらく六尺五寸はあるだろう。軍人特有の雰囲気も合わさってなかなかの威圧感がある。


「今だ若輩非才の身ではありますが、よろしくお願いします。大尉殿」


「うむ。……しかし君のような紅顔の美少年が陰陽師とは、フフフ……」


 真面目腐って差し出された手を握ると、どこかいやらしい手つきで握り返された。心なしか、視線にも全身を丹念に舐めるみたいな淫らなものがあって、背中に妙な汗が滲む。凛之助は慣れない出来事に、ほんのわずかに目元を強張らせた。


「何、そう緊張するものでもない。取って食おうというわけでは……ないからな」


「はぁ……」


 何となく貞操の危機を覚えた凛之助であったが、それはそれである。

 失礼にならない程度にさっと手を振り払うと、誤魔化すみたいにわざとらしく咳払いをして改めて依頼の内容を問うた。


「では、依頼の内容をお話しいただけますか」


「フフフ、袖にされてしまったかな? まあよかろう。陰陽師、赤城凛之助よ。貴様に猟奇殺人の犯人、通称”辻斬り権兵衛”の調査、および討伐を依頼したい。報酬は前金で二十円、依頼達成で五十円である」


 前金で二十円。ずいぶんな太っ腹な数字に見えるが、これは凛之助が依頼を達成することを確信しての額だった。

 依頼を断ることはありえない、失敗すらもしないだろうという桁外れな期待の表れだ。


「承知いたしました。では、こちらの契約書に署名をお願いします」


 依頼の内容を聞いて二言もなく頷いた凛之助は、一枚の白紙の札を胸元のポケットから取り出す。一見それは何の変哲もない紙切れであったが、見る人からすれば、何か云い様のない奇妙なものを纏っていた。


「これは?」


「あらゆる場面でユザレの者が用いる契約書です。あり得ないこととは思いますが、もしも伊高大尉か、私赤城凛之助が契約を不当に破棄、または不履行とした場合に呪詛が発動します。署名の前には、今一度お考えを」


「呪詛とは、穏やかではない」


「我ら人世の安寧の爲に在れど、道理埒無き者に差し伸べる手はなく、しかして不義理には誅を以て之に応へん。それがユザレの掟です」


「なるほど、あくまで”ビジネス”というわけか」


「俗な云い方をしてしまえば、その通りです。不快であったのならば申し訳ありません」


「いや、なんの見返りを求めぬ輩よりはよっぽど信用できる。……これは、名字だけでも良いのか?」


「……? ええ、まあ構いませんが」


「フフフ、ではそうさせてもらおう」


 からりと笑った伊高大尉が手持ちのペンで”伊高”と署名する。すると、たちまち複雑な模様が浮き上がって名前を縛り付けた。


「我らの契りは不滅なれど、道理に背くは外道なりて、之誅する正義我に在り」


 最後に呪言を唱えて封をすれば、これにて契約は完了である。


「ふむ、なかなか奇妙であるな。これで終わりか?」


「はい。契約は成りましたゆえに、赤城凛之助はこれより辻斬り権兵衛の調査、及び討伐のために動きます」


「うむ。期待しているぞ、若き陰陽師殿」


 妖艶に笑みを浮かべて伊高大尉は凛之助の肩に手を置いた。やはり触り方には妙な雰囲気があったが、凛之助は努めて感情を出さないように顔を強張らせて、陸軍式の敬礼で返した。


「では、用も済んだので吾輩はこれで失礼する。坂口殿、赤城殿、あとをよろしく頼むぞ」


 サッと踵を返してマントを翻すと、伊高大尉はそれだけを云い残して出て行った。残されたのは手を付けられていない湯気立つ茶と菓子だけである。

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