第2話

  

 大正七年、春。


 我々の知る世界とは少々違う、煤と排煙に彩られた、煌びやかな頽廢に滲る世界でのこと。


 眼鏡が特徴的な学生服の少年、赤城凛之助は愛用の黒い外套をはためかせて、凍える風が吹く帝都東京の街を歩いていた。

 耳をつんざくような軋みを上げる蒸気機関と、狼の遠吠えにも似た汽笛が響く帝都たる東京は、発展を急ぐ新宿の表通り。今日は休日ということもあってか、道には歩くのにも少し苦労するほど人と物で溢れている。

 辺りを見回せば、肩を落として死んだ目をしたスーツ姿のサラリーマン、当世風に生きるのよと強い足取りの職業婦人、今日は帝劇明日は三越と歌う成金の奥様方が道を往く。街角を見やれば、仕事を探すたちんぼが右往左往し、浮浪者どもは今日も元気にゴミ漁りに精を出している。

 道路を見れば薄霧の向こうで、同盟國たる大英帝國由来の蒸気自動車がシュポポと煙を吐き出しながら行き交い、日本が独自開発した蒸気機関を積んだ路面汽車はガタリゴトリとのんびり走っていて、その中に度々混じる人力車や馬車が、時代の流れとノスタルジィを感じさせた。

 英國で発明され、異常とも称されるほどに急速な発展を続ける蒸気機関。かの英知の導入によって、日本は列強諸國の仲間入りを果たした。けれど、煤と排煙によって自然が失われつつあることを、忘れてはいけない。清らかであった河は汚濁の黒に染められた。頭上に広がる天蓋はいつの頃からか灰色以外になくなった。海と空から色がなくなって久しくあるのは、あな、まこと悲しきことである。


 不意に、ビュゥと肌を突き刺すようなひどく冷たい風が吹いて、黒い外套がはためくと凛之助は小さく身震いした。寒さのせいか、誰もがいちように襟の長いコートを着ていたり、厚手の長羽織を身に着けたりして、表情もしかめ面ばかりが目立っている。

 乳白色のモダンなビルヂングと縦横に空を走る真っ黒な電話線も、冷えた空気に当てられてかどこか寒々しい印象である。かつては人々の頭上にあったはずの空が、排煙と煤によって覆われたことが、それを助長しているのだろうことは想像に難くない。

 三寒四温を知らぬ東風にまた身震いした凛之助は、ほうと長く息を両手に吐きかけて擦り合わせると、足早に露店や屋台が建ち並ぶ小さな通りを抜けた。


 山手線が延伸された新宿の街は今、都市開発の真っただ中にある。建設用の機関クレーンが林立して、建設途中の高層ビルヂングには蜘蛛の巣のように足場が張り巡らされていた。遠くからは地面を掘るドリルの音や金槌が鉄を叩く甲高い音が響き、足元の地面からは新たな地下鉄道の通路を掘っているのであろう振動を感じた。ヨイトマケの歌は高々と、灰色の空を駆け抜けていた。

 立ち並ぶ店々ではドロドロに汚れた労働者たちが騒がしく飯を食い、街娼や立ちんぼがお零れにありつこうとして目を光らせている。この道はいつ通っても、寒さをものともしない活気に溢れていた。発展途上ゆえの泥臭くて華やかな明るさがあった。しかし通りを包む活気と明るさとは裏腹に、道を行く人々は何やら物騒な噂を口々に私語いては小さな怯えの情を見せている。


 筆舌しがたい世にも残忍な方法で人を殺してしまう、人面獣心の殺人鬼の話が原因だった。


 最近になって帝都では、不思議なことには、失踪者が相次いでいた。いずこかへ消え失せた者は老若男女問わず、また、居なくなった時間帯もそれぞれで、警察部もほとほと手を焼いていると新聞は報じているから、もしかしたら、一連の失踪事件はこれらの殺人鬼のうち、どちらかではなかろうかという予測が帝都では季節外れの怪談として流行っていた。

 とはいえ、噂話にしては中々に奇妙な話である。

 そも、殺人鬼の話からして呆れたものだ。遊園地という巨大な娯楽施設で、雲霞の如くひしめく人々を、たったひとりでどうやって虐殺するというのか。目の見えぬ人間が、どうやって次々と人を殺し、その惨たらしい死体を衆目に晒すというのか。時代遅れの侍に至っては与太話も甚だしい。

 無論、聞いていた誰も彼もが噂を真に受けたりはしないだろう。まるで猟奇小説のような荒唐無稽、聞けば誰もが現実に起きるわけがない。当世に満ちるエログロナンセンスの趣向が生み出した怪奇な妄想だと、そう思うに違いない。


 ただひとりを除いては。


「書生さん、そこな書生さん。ちょいとお待ち」


 ふと呼び止める声に、凛之助は立ち止まった。見ればおそらく浮浪者であろう小汚い老婆が、広げた風呂敷を前で変に笑っていた。風呂敷は真っ赤なサテン生地でいやに高級感があったが、その上に転がされた泥まみれのガラクタは店番の身なり通りで、機関街灯の明かりを受けてぎらぎらと下品に輝いていた。


「アンタ、悪霊に憑かれてるだろう。アタシにゃわかるよ」


 老婆は凛之助の背後を指差して唐突に云うなり、ガラクタの中から奇妙な形をした金属片を摘まみ取って、笑いながら差し出した。凛之助はちらと視線を逸らして、微かに目を細めた。


「そんなアンタにおすすめの品があるんだよ」


「それは」


「遠い異国の伴天連様が付けてたバッヂさね。これさえ着けていりゃ、伴天連様のエンジェルさんが、アンタを悪霊から守護してくれるのさ」


 老婆の言葉に、凛之助は溜め息めいて鼻を鳴らす。この老婆はバッヂを伴天連の物と云うが、これは十字どころか文字の形すらもしていない。不揃いで無意味な模様が施された双角錐だった。

 おそらくは鉄屑を溶かして雑にメッキしたものであろう。今時、伴天連の信者は皆が十字架を身に着けているのは、幼子ですら知っている常識だというに、こんな粗末な代物でよもや人を騙そうなどとは見上げた商魂である。


「申し訳ないですが、伴天連には興味はありませんので」


 やおらと首を振ってそれだけ云うと、凛之助は背を向ける。後ろで老婆が他の品物を見てくれとがなり立てていたが、彼の足は目的地まで止まることはなかった。


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