蒸気の狭間の闇の底
四十九院暁美
辻斬り権兵衛の怪
第1話
その少年は、親友を食べて生き延びた。
食べたのは、ひどく痩せ細った小さな仔犬であった。
田園と昔ながらの木造平屋ばかりが並ぶ、森の奥にある名もなき寒村の中。静かな水のせせらぎと枯葉のざわめきで満ちた川辺で、襤褸を纏った裸足の少年と親友の仔犬が流れる魚たちを眺めていた。
歳はわからない。
どちらもひどく痩せていて、正確な年齢を把握するのは難しくある。
少年は黒髪であった。仔犬の毛色は茶であった。少年はよく磨かれた藍玉のような美しい瞳を持っていた。仔犬は琥珀色の澄んだ瞳を持っていた。
「なんとか、つかまえられないかな」
くぅ、と小さくなった腹を擦る少年の言葉に、仔犬は鳴き声で答えた。
季節は冬。まだ雪もちらつかぬ時期と云えど川の水は凍えるほどに冷たく、むやみに手を突っ込むのは憚られる。かといって、釣りや罠を作る知識など少年は持ってはいない。
「おじさんは、なにかしってる?」
困り果てた声のまま、虚空に向けて少年が言葉を向ける。もちろん、誰もいない空間から答えなど返ってくるはずもない。独り言は白い靄として、寒空の下に消えていく。
はずだった。
「……あみかごかぁ。でも、わかるところにおいたらこわされちゃうからなぁ……」
まるで誰かが教えてくれたような云い方をして、少年が可愛らしく首を傾けた。
どれだけ周囲を見回しても川辺には少年と仔犬しかいない。
ではいったい誰がこの少年に知恵を与えているのだろう。
「じょうりゅう? そこにおけばいいの?」
再び少年が誰もいないはずの虚空へ話しかける。
彼の視線の先にはやはり誰の姿もなく、言葉を返してくれる生者は存在しなかった。
そう。生きている者はここに存在していない。だが彼の視界には、確かに濁った透明色をした誰かがいた。
無邪気に彼が話しているのは、死者の魂……いわゆる幽霊そのものであった。
彼は生まれつき特殊な能力を備えていた。人とは思えぬ透き通った青い輝きを放つその瞳は、視えざるものを視る眼、生きとし生けるモノの思念を色として読み取る上人の証。
すなわち、浄眼。
少年はこの生まれ付いた浄眼によって、この世に生きる遍く生きとし生けるものすべてが持つ霊的エネルギーである”霊力”を宿した身体となり、この世に留まっている霊魂との対話を可能にしていた。
「わかった。じゃあ、あとでつくりかた、おしえてね。やくそくだよ」
穏やかな表情で目尻を下げた少年が、右の小指を差し出す。そうして、ゆびきりげんまんと手を振って約束をすると、仔犬と一緒に不器用な笑顔を浮かべた。
と、そこへ足並み揃えてやって来た村の子供たちが、寄ってたかって少年に川辺の石を投げつけ始めた。彼ら彼女らが口々に叫ぶのは「ばけもの」「いぬがみつき」「やくびょうがみ」と悪意の籠った言葉であり、石を投げつける際の表情は子供らしからぬ醜悪な笑みであった。見ている大人は助けることをせず、むしろ子供より酷薄で悍ましい顔をして声を上げている。
少年が仔犬を抱きかかえて逃げるように走り出すと、子供たちは歓喜に諸手を挙げた。大人たちもよくやったと頭を撫で、鼻高々に子供たちの健闘を褒め称えた。
少年はこの村では誰からも忌み子と扱われている。
瞳のせいだ。閉鎖的で因習めいたこの村では、彼の特徴はあまりにも異質で受け入れがたく、村全体が彼という存在そのものを嫌悪しているのだ。
浄眼によって青く澄んだ双眸は妖めいて恐ろしく、視線を向けられるだけでも怖気がした。幽霊と会話している少年の姿は、異様な無気味さを纏った”何か”にしか見えなかった。親ですらも彼が物心付く頃には彼を家から追い出した。
「……だいじょうぶだよ、いぬこ」
心無い人々の言葉を背に受けながら腕の中で震える仔犬にかけた言葉は、どこまでも優しい強がりに溢れていて。
まだ、生きているようだった。
時、文明開化より幾星霜。
明治から大正へと移り變はりて、人々の生活には西洋の華やかなりし異文化が根附く。
浪漫の風も匂やかに、人々の眼に火は絶えず、なおも新進氣風と往く。
ここ帝都東京は亞細亞の中心となりて、氣焔萬丈たるモダン都市、勇往邁進と世界の大海に漕ぎ出せり。
なれど天に遍く理を閲し、地に敷かれし法を知ろし食す、祖、曰く。人在る所に闇生まれ、惡鬼羅刹の影ぞ在り。人、豫てより夜を恐るるは、邪知外法が所以と傳へらる。
すなわち、人世に科学蔓延れど、今だ闇夜の怪ぞ解き明かせず。
故に、闇に潛みし尋常ならざる獸、世の理に非ざる悍ましき邪惡、道理に背き外道を走る埒なき者。其れら異形の者共、總じて之”怪異”と呼び恐れ給ふもの也。
又、之を祓ひ清め、調伏せしめる者。總じて”陰陽師”と稱するもの也。
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