四.その男、昔を想う
「…………ほんに野蛮なおなごよ」
男が頭を抑えてうずくまる。
立ち上っていた陽炎も、急激に上昇していた温度も、その瞬に掻き消えた。
高く跳躍した彼女の拳――もちろん、退魔の札付き――が男の頭へと落とされたことによって。
遠ざかっていたあのけたたましい蝉の声も戻ってくる。
同じく戻ってきた容赦のない夏の日差しが、今はとても優しく感じる。
それにほっと息をつきながら、彼女は拳の札を剥がした。
「
「てん……?」
男が涙目になりながら顔を上げる。
「そうっ!
ふふんっと胸を張り、彼女――天は得意げだ。
一方の男は渋面になる。
「……陰陽師が簡単に名を明かすでない。身を滅ぼすゆえ」
「そんなの知ってる。けど、あんたにならいいかなって思ったの。あたしの勘だけど」
あっけらかんと告げる天に男は呆れた。
呆れたけれども、男のすることは一つだった。
片手は懐手にしつつ、もう片方の手で払う仕草をする。
「私は聞かなかったことにするゆえ、さっさとその名はしまえ」
「もう出しちゃったから無理ですぅー」
増々渋面になる男に、天はからりと笑った。
「あんた、やっぱ本質は優しいじゃん」
「……なにを戯けたことを」
「さすが、神性を帯びてた妖は違うね」
男が小さく目を見張り、天を見やる。
天は柔く笑いつつ、その足は池へと向かっていた。
「調べてわかったよ。古い文献漁るのは大変だったけど、記録は残ってた。時の陰陽師があんたをここへ封じたのは、これ以上力を増すのを畏れられちゃったから、なんだよね?」
天が池の淵で膝を折ってしゃがむと、底から何かが泳ぎ出てくる。
けれども、その何かが水面から顔を出す気配はない。
「……それこそ、お主ら陰陽師の勝手だ」
「……そう、勝手だったって、あたしも思う」
池の水面に、恐る恐るといった様子で何かが顔を出した。
「――私はただ、人の営みを見ているのが好きなだけだった」
「うん。それを昔の人が見護ってくれてるって勝手に感じて、勝手に祀り上げた」
「……人がこの地に訪れるようになったのは嬉しかったゆえ」
「ここって、昔は蛍の名所だったって文献にあったよ」
天が岩に座する男を振り返る。
朽ちたしめ縄は、かつての信仰を意味するもの。
天はそっと瞳を揺らした。
「……あんた、蛍の妖だったんだね」
男の周りに幾つもの蛍火が浮かぶ。
蛍火はしばし男の周りを飛び交ったあと、ゆっくりと男の傍を離れ、天の横を過ぎ、池の水面へと降り立つ。
「人の信仰を受けたあんたは、やがて人の姿形を持つようになった」
「神は不定ゆえ。その時に生きとし人の願いを汲み、己の姿形を定める」
男は視線を投げ、どこかぼんやりと遠くを見ているようだった。
「そうして、神性を帯び始めた妖を時の陰陽師は畏れた。いつか人に牙を剥くかもしれないって――」
天が池を振り返る。
蛍火が護るように囲んでいた。
池の水面から顔を出し、ずっと天を見上げていた何か――金の鱗を持った金魚を。
金魚は水のないところでは生きられない。
地に縛り付ける器には向いている。
「勝手に畏れて、それで金魚を器に封じた」
「ほんに口惜しいことであったな」
男からほんのりと陽炎が立ち上り、姿が揺らぐ。
当時を思い出す。
男が個としての自我を持ったのだと自覚した頃は、まだ、ただのちっぽけな蛍だった。
しかし、本来の種以上の知恵を得てしまい、仲間と外する面を持ってしまえば、もうそこに留まることは出来なかった。
次の世代へと命を繋ぐために番うことも出来ず、仲間はじきで、居場所など在ろうはずもない。
その際に笑いかけてきたのが、己の蛍火に誘われた人々だった。
蛍の光も綺麗だけれども、自我を持ってしまった異質な蛍の蛍火にはぬくもりを感ずると、誰かが口にしたのが信仰の始まりだった――ように、今は思う。
そうして祀られ、やがて人々の信から力を宿し、人の姿形を得、暫く経った頃だ。
「この身に火の性質を宿した私を、時の陰陽師が、水の性質を帯びる器へと封じたのだ」
男の着物が尾ひれのようになびく。
当時はまだ、力を発現したばかりであった。
だから、口惜しくも封じられてしまったが。
「今ならば、返り討ちにしてやるものを」
金の瞳が妖しげな光を帯びる。
「だいぶ精気をつまんだゆえな、あともう少し――もう少しで、この地の縛りからも脱せられるであろう」
冷たい笑みが男の口の端に乗り、陽炎の如くに妖力が立ち揺らめく強さが増し始め――お約束事のように天の拳が入った。
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