第9話 霧払う朝焼け



 心臓の奥にヒビが入ったような、肉体的なソレとは違う、鈍痛。

 思考が割れて、光る。

 認識が散って、壊れる。

 何が起こったか理解できないと思うのにも数秒かかった。

 揺れた五感が少しずつ補正されていく。元に戻る。



「はっ……かはっ……」



 咄嗟に横腹をさする。

 痛みはない。骨も折れていない。

 当たり前か。これは現実じゃないんだから。



「おぬし! 大丈夫か!?」

「うぐ……」



 大丈夫かだって?

 なわけがない。

 この感覚は最悪だ。

 吐きそうだ。



「どういう……ことじゃ……?」

「うう……!」



 こっちが聞きたい。

 何が起こったのか説明してくれ。

 前を見れば分かるのか?

 いいさ。顔上げて見てやろうじゃないか。



「あ」



 失敗した。

 見なきゃよかった。

 そいつの容貌が、目に入った。

 入ってしまった。



「なんじゃこいつは……? こんなものが……?」



 あれの正体、俺は知ってる。

 春の妖精は知らないのか。

 そりゃそうか。

 こいつは、俺の中にしかいないものな。



「どうして子供の中に、これほどの恐怖心が?」



 恐怖心? その言い方は間違ってるな。

 こいつは、高校3年のころから、ずっと付きまとってきた俺の一部だ。

 こいつを……、森の木々をなぎ倒し、絞め潰し、叩きつけ、蹂躙するこいつを、もっと的確に言い表す言葉を、俺は知っている。



「ああ……そうか」



 俺は全部、知っている。



 馬鹿みたいに巨大な図体。

 丸まった肩から突き出した腕。

 父さんの腕。俺を抱きしめて、心の奥を締め上げた腕だ。



 森の木立をへし折る触手。

 脳天の先から垂れる髪。

 母さんの髪。顔よりも多く見た、後ろ姿を飾る髪だ。



 バラバラになって前面に散るパーツ。

 無数の組み合わせで作られる表情。

 アオイの顔。全ての組み合わせを覚えている、彼女の顔だ。



「また後悔しろって言うんだな」



 罪悪感。背徳感。負い目。引け目。心の傷。後ろめたさ。

 全部ひっくるめて、俺はそいつを、後悔と呼ぶ。

 前世の俺を蝕み続け、全ての行動を阻害したそいつが、実体化して目の前に居る。



「そっか。もう二年も会ってなかったもんな」



 こいつも、俺を探すのに苦労しただろう。

 なにせ俺は、生まれ変わったと思ってから、ほとんど前世のことを思い出さなかったからな。

 前世の傷を忘れて、逃げ切ったつもりでいたものな。



「レーダ! 今すぐ返ってくるのじゃ!」



 帰る? ああそうだな。迎えが来たなら、帰らないとな。

 眼前の異形が、森を埋め尽くすそいつが、俺に駆け寄るように、腕と触手を伸ばす。

 俺はただ、立ったまま、そいつが戻ってくるのを待つ。



「レーダ! レーダ! なにをしておる! 【諦める】のじゃ! 念じるのじゃ!」



 そうだな、普通は諦めるべきだ。

 でも違うんだ。俺はこいつを迎えなければいけない。

 元々一緒だったんだ。

 二年間、忘れてただけで。



「レーダ!」



 触手が地を這い、伸びてくる。

 森を埋め尽くすように、伸びてくる。

 地を覆い、幹を覆い、葉を覆い、視界を覆う。



「レーダ!」



 ほっといてくれ。

 俺は逃げちゃダメなんだ。

 俺はここに居て、受け入れなきゃいけないんだ。

 一度死んだだけで、

 リセットしちゃいけないんだ。



「レーダァ!」



 うるさいな。

 だからほっといてって……



「うん?」



 今の声、春の妖精の声じゃないな?



「時も凍える夜は散り、黎明告げるは花吹雪」

「えっ?」



 薄暗い森の葉の屋根を、光る何かが突き抜ける。

 月明かりと共に、地面に向けて矢が降り注ぐ。



「地ならす足音響かせて、果ての果てから夜明けを走れ!」



 光の束となった十数本が、地を這う触手を張り付けにする。

 光が増して、黒髪の触手を真っ赤に照らす。



「霧払う朝焼け!」



 光が弾けて、視界を覆いつくす。

 俺の思考も、そっちに持っていかれる。

 これをやったのが誰なのか、考えてしまう。



「ここまでされると、黙って見ていられなくてね」



 ああ……本当に勘弁してくれ。



「リーラント。文句はないだろう?」



 俺の前に降り立ったのは、一つの人影。

 光を纏う全身に、フード付きマントの後ろ姿。

 右手には弓を握りしめ、矢筒の先へと手を伸ばしている。



「せっかくここまで頑張ったんだ」



 本当に、お前のせいで忘れちゃうじゃないか。

 俺が罰せられるべきだって、思えなくなっちゃうじゃないか。



「君の努力はきっと、無駄にしちゃいけない」

 


 そうだ。



 記憶を掘り返せば、雑多な後悔はいくらでも湧き出てくる。

 沼から這い出た小さな触手が、俺をどん底に引きずりこもうとしてくる。

 でも、それくらいなら簡単に振り払える。

 今世の充実感によって、打ち消してしまえる。



 問題は、充実感によって引き起こされる方の後悔だ。



 彼女への負い目は、もちろん大きい。

 でも、最近は特によく、父親のことを考えるようになった。

 ダイアーの……今世の父親のことではなく、前世の父親のことを。

 浮気で家庭を崩壊させた、父親のことを。



 前世の父親のことを悪く言うつもりはない。

 母親と、父親を繋ぎ止めていたのが俺だったことくらい、理解してる。

 一人っ子の選択が家庭に及ぼす影響くらい、理解してた。

 それでも……



「レーダ! 絶対諦めるんじゃないぞ……!」



 こんな仕打ちないだろ。

 どうして、こんな……



 どうして、俺の身に余るほど。

 後悔を打ち消して余るほど。

 俺の心を救って余るほど。



「パパ……!」



 どうしてこんなにかっこいいんだ。

 俺の今世のパパはさあ!


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