04_02__ラブコメの裏のサスペンス劇場②
●【旧主人公】宇治上樹
――今週の火曜日。
俺は赤羽先生がDV被害に遭っているかもしれないと考え、水無月に相談した。
その時点では確証のない思いつきだったが、返ってきた反応は思っていたよりも肯定的だった。
「いったん貴方の見立てが正しい前提で話を進めるわよ」
そう言って、水無月は腕を組んだ。
「赤羽先生は一人暮らしをされているそうだから、加害者は御家族ではないはず。きっと、更科さんが目撃したという恋人じゃないかしら」
「あぁ。大雑把な特徴は聞いてる」
百九十に近い長身で、短い髪に垂れ目が印象的なイケメンらしい。
「更科さんは彼氏の特徴を表す際に、中華料理の名前を呟いていたそうだけど、もしかしたら餃子耳と言いたかったのかもしれないわね」
「餃子耳?」
「耳にダメージを受けて、皮膚の下に血種ができると、外から見ても分かるくらい膨らんで餃子みたいに見えるの。正式な名前は耳介血種だったかしら。柔道やレスリングを熱心にやっていた人によく見られる特徴よ」
「つまり、彼氏も武道の経験者かもしれないのか」
「……あくまで推測だし、ひとまず鏑矢さんに事情を話して、担当の方を先生に紹介するのが無難じゃないかしら?」
「そうだな。仮に予想が正しかったとしても、子供に口を出されたところで、先生が本当のことを話すとは思えないし」
半信半疑のまま方針を決めた俺たちは、更科から彼氏の特徴を聞きこんで鏑矢さんに相談した。
そして今朝、俺たちは急遽鏑矢さんに呼び出された。
「さぁ、好きなものを頼んでいいぞ。この店のモーニングは絶品だからな。もちろん代金は俺が持つ」
「はぁ……、奢っていただけるなら、ありがたく頂きますけど」
奥まった個室に入るなり、鏑矢さんはメニューを広げた。
本題に入ろうとする水無月を宥め、頼んだ品の量を見て「朝から意外に食うんだな……」と零した。
水無月はスリムな体のわりに、量を食べる。
「先日話を聞いたDV男だが、身元を特定できた」
突然の切り出しに、思わず咽た。
「担当の方を紹介してもらおうと思っていたのに、彼氏を調べたんですか?」
「男の容姿に心当たりがあってな。当たってほしくはなかったが」
「……成程。身内の警官だったんですね」
さらりと言い当てる水無月に肩を竦め、鏑矢さんは写真を取り出した。
「川北署の皆元健司巡査、二十六歳。高校時代には柔道でインターハイの出場経験があり、彼が採用された時には、この甘いマスクで女性職員を中心に話題になった。改めて評判を聞いても、実直で正義感が強く、勤務態度もいたって真面目とお褒めの言葉ばかりだ」
挙げられた特徴を聞く限りは、DVをする人物とは思えない。
「裏表のある人なんですか?」
「いや、高校時代まで遡っても悪い噂は聞かれなかった。ただ、最近は魂が抜けたように呆然とすることがあって、一部で心配されているらしい」
「ソッチですか……」
うつ病か自律神経失調症か――具体名はともかく、精神的に問題を抱えているらしい。
「あくまで周囲の声を聴いた俺の想像だが、生真面目で柔軟性に乏しいタイプらしい。性格は善人でも警官に向いていない奴は大勢いる。この仕事は突き詰めれば、悪意や非常識と向き合う仕事だからな。上手く適応できないとキツイ」
犯罪者の身勝手な言い分や、カスハラじみた通報はニュースでも度々取り上げられている。
理不尽な人たちと接するうちに、心を壊してしまったのかもしれない。
「それは大変お気の毒ですね。でも、私たちにはどうでもいいです。問題はこの皆元氏が先生に暴力を振るっているかどうかです」
「……水無月さん、飲み物のお代わりでもどうかな?」
「いりません」
静かな圧を放つ水無月の前で、鏑矢さんはとりだしかけたメニューを引っ込めた。
「まだ確実な証拠はない。ただ、近隣の警察署で聞き込みをしたところ、赤羽さんらしき女性が相談に来ていたことが分かった。その時は、彼女が彼氏を困らせるための痴話喧嘩と判断されて、話し合うことを勧めたらしい」
「なんですか、それ……」
「呆れる気持ちは分かるが、言い訳も聞いてくれ。どうやらその女性は『警察官の彼氏が仕事で疲れているので、署内でストレスケアの取り組みはないか』と遠回しな相談をしたらしい。おそらく、個人が特定されないよう気を遣ったんだろう」
「……それは、赤羽先生らしいですけど」
説明の仕方にも問題はあったかもしれないが、先生からすれば身内を庇って取り合ってもらえなかったように映ったかもしれない。
「それで、鏑矢さんはこの件をどう片付けるつもりですか?」
「俺は表沙汰にするのは避けたいと思っている。警官の不祥事なんて今時ありふれているが、バレないに越したことはない」
話の流れから予想はしていたが、聞きたくはない一言だった。
さすがに断ろうとしたところで、水無月に腕を掴まれた。
「それは赤羽先生にとってもメリットがある話なんですよね?」
「ああ。実は皆元の父親も警官でな。ノンキャリの限界まで登れそうな敏腕だ。DVの件が表沙汰になれば息子は退職するほかないとして、父親の評価にも影響が出る恐れがある。田舎の狭い組織だから、万が一にも自主退職に追い込まれれば、精神的に不安定な息子を支える環境がなくなってしまう」
「つまり、父親を巻き込んで息子の面倒をしっかり見てもらうと?」
「同じ警官としてスキャンダルの怖さは身に染みているから、手は抜かないはずだ。無論、慰謝料を含めた責任はしっかり取らせる」
鏑矢さん曰く、DVを抑えるには、依存症のように精神科を受診させるのがベストらしい。
ただ、精神疾患の治療にはどうしても時間がかかる。再犯のリスクを下げるためにも、家族の庇護下に置くのが双方にとって有意義だという。
警察側に都合よく話している部分もあると思うが、理屈は通っている。
「でも、その辺りは赤羽先生次第じゃありませんか?」
「もちろんだ。被害者を無視して話を進めるつもりはない。これから俺は、皆元の父親と会う約束を取り付けてくる。君らはその間に事情を話して赤羽さんから証言を引き出してくれ。間違いなく黒だと思うが、冤罪だったら洒落にならんからな。合流する時間は決まり次第連絡する」
「分かりました。私から先生に連絡をとってみます」
水無月がスマホを操作する横で、俺はコップを持ったまま固まってしまった。
「言い出しっぺのわりに、状況についていけてないようだな」
「そう、ですね……」
正直、勝気で芯の強そうな赤羽先生が、DV被害に遭って口を閉ざしているのは今でも少しイメージ出来ない。
いや、逆に強いからこそなのか。恋人も元は良い人のようだし、精神的に弱ったところを支えようとした結果、自分に我慢を強いてしまったのかもしれない。
……止めよう。妄想に妄想を重ねても仕方ない。
「今回は色々と調べてもらってありがとうございました」
俺はまだお礼を言っていなかったことを思い出して頭を下げた。
「いや、こちらこそ俺に相談してくれて助かった。調べれば調べるほどまずい要素が出てきたからな。昨日も皆元の行動を確認していたんだが、奴は夜遅くに近くのコンビニに出かけてな」
その道中、ゴミ集積所にルール違反のゴミ袋を見つけた皆元は、静かに近寄り、乱暴に踏みつけ始めたという。
「狂気に塗れた光景だったが、俺には大きな子供がすすり泣いているようにも見えた。……ちなみに、皆元のアパートの電気が消えるまで見届けたから、昨日は赤羽さんには接触していないはずだ」
鏑矢さんは席を立ち、上着を羽織った。
「君らも皆元とかち合わないように気をつけろよ」
+ + + + +
「――というわけで、この件は知り合いの刑事さんにも知られています。今頃貴方の父親にも接触しているはずです」
俺は事の経緯を掻い摘んで話した。
もちろん面と向かって『精神科で診てもらえ』とは言えないので、多少の脚色は加えている。
皆元は口を挟まず、黙ったままだ。
保身、猜疑心、苛立ち、困惑――様々な感情が錯綜しているのか、顔全体が赤く、額には薄っすらと汗が浮かんでいる。
危うい感情のシーソーゲームに、俺は思わず唾を呑んだ。
「俺たちもただ皆元さんを罰したいわけではありません。今後赤羽先生に近付かないと約束していただければ、表沙汰にはしないと約束します。もし、俺の話が信じられなければ、父親に連絡を取ってみてはどうですか?」
お互いにとってベストな提案のはずだが、中々思い通りに動いてはくれない。
じれったい気持ちでいると、固く閉ざされていた口がようやく開いた。
「その刑事とやらの名前を教えろ」
「県警の鏑矢警部補です」
「……ぁ」
小さく声を漏らしたのは赤羽先生だ。
先日学校で顔を合わせているから当然の反応だが、事情を知らない皆元にはさぞ意味深に聞こえただろう。
「……君の話を信じる証拠がない」
言葉とは裏腹に、天秤は信じるほうに傾きかけているように見えた。
「それじゃあ、鏑矢さんに連絡を取ってみましょうか」
俺が携帯電話を掲げると、皆元も一瞬怯んだが、今度は頭ごなしに止められなかった。
不信感を持たれないよう、画面を正面に向け、ゆっくりと操作する。
「心配しなくても、他の人を呼んだりはしませんよ。そもそも不法侵入をしているのは俺のほうですからね」
思いつくまま喋って時間を稼ぎ、通話ボタンを押した。
よしっ! あとは鏑矢さんが上手く話を合わせてくれれば――
『ツー、ツー、ツー、ツー、ツー』
「…………」
「…………」
まさかの通話中って、嘘でしょ鏑矢さん!?
ここは格好良く登場して、事態を収める場面ですよ!?
「フッ、……ハハ! やっぱり嘘だったんだな! 親父の話まで持ち出して、俺を騙そうとしたんだろ!」
「落ち着いてください。決めつけるのは早いですよ。一時的に電話に出られないだけじゃないですか。ここで騒ぎを起こしたら全てが台無しに――」
「黙れっ! 非常識な連中を相手にするのは、もううんざりなんだよ! 簡単なルールも守れない屑が、偉そうに語ってんじゃねぇっ!」
皆元が近くにあったガラス細工を掴み、床に叩きつけた。
「くそっ!」
リビングの入り口から向かってくる皆元に、俺はソファカバーを広げて投げた。
上手く全身に掛かり、足が止まる。その隙に先生と後ろの部屋へ避難しようと振り返り、
「えっ」
予想外の衝撃で床に転がった。
先生が俺を後ろに引き倒し、正面から覆いかぶさってきたのだ。
庇ってくれているのだと思うが、この状況はまずい。
「ちょっ、先生! 離れて!」
利き腕が肘から抱え込まれて、片手じゃ引きはがせない。
皆元がカバーを振り払うと、悲痛な面持ちに歪んだ。
「っ……! お前も裏切っていたんだなっ! 突然別れ話を切り出してくると思ったら、俺からソイツに乗り換えるつもりなんだろっ!」
「いやいや、何でそんなアクロバティックな発想に!? 俺は学生なんだが!?」
「だから何だよっ!」
「教師と生徒だぞ! 問題しかないだろ! アンタの大好きな常識はどこ行った!?」
傍から見れば間抜けなやり取りかもしれないが、コッチは必死である。
皆元が先生を踏みつけようと足を振り上げ、俺はせめて上下を入れ替えようと力を込めた。が、その直後、バタンとドアを閉じる音が部屋に響いた。
「水無月――」
「ハァ……、美人教師に抱きしめられて良い御身分ね。ウジ虫君?」
「この状況でツッコむの、そこ!? そんなことより、ちょっと助けていただけませんかね。ほら、鏑矢さんに連絡を――」
「次から次へと何なんだよ!? どいつもこいつも、ふざけやがって!!」
「うん! やっぱ無理っぽい! とりあえず水無月だけでも逃げとけ!」
「助けろって言ったり、逃げろって言ったり、私にどうしろってのよ」
こめかみを抑えて呆れる水無月さんの安定感が半端ねぇっす。
「連絡ならもうとったわよ」
水無月は印籠のごとく携帯電話を掲げた。
限られた視界からも画面が通話中になっているのが見える。
「だからもうハッタリは十分だ! 怪我をしたくねぇなら、テメェも引っ込んで――」
『――健司』
呼びかけの効果は劇的だった。
名前を呼ばれた本人は、頭から冷や水をかけられたように硬直した。
「親父……?」
やがて理解が追いついてきたのか、皆元はゆっくりと膝から崩れ落ちた。
虚ろな目で俯く姿は不気味だが、暴れる気力は枯れ果てたらしい。
先程の電話が通じなかったのは、水無月が一足先に事情を話していたからか。
考えてみれば、自由に動ける水無月がただ手をこまねいているはずもない。
何はともあれ、助かった……。
一息吐き、全身から力を抜いた瞬間、先生の頭の位置がずれ、喉に激突した。
「ぐっ!? 赤羽先生っ……。事態が落ち着いだみだいなんで、ぞろぞろ離れでぐれると、……あの、ちょっど、息が……ぐ、苦じい」
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