03_07__過去の写真⑦
〇【新主人公】隆峰宙
宇治上先輩の登場で、張り詰めていた空気が緩んだ。
ただ、更科さんも振り上げた拳の置き所がないようで、気まずい空気が漂う。
「あー。更科ー。お前は完全に包囲されているー。人質を解放して投降しなさーい」
「ウチは立てこもり犯かよっ!?」
「絵面は似たようなもんだろ」
「更科君、教師として暴力沙汰は見逃せないよ?」
「チッ」
お二人の説得で、ようやく更科さんは手を放し、玉川先輩から距離を取った。
誰からともなく溜息が零れ、宇治上先輩が部屋に入ってくる。
「隆峰たちが何をしていたかは察しがつくとして、どうしてこんな物騒な展開になってんだよ」
「それは――」
あ。更科さんが『話すな』と言わんばかりにコッチを見てる。
「ちょっとした行き違いがありまして……」
「はぁ、そうかい」
「……行動を控えるよう言われていたのに、勝手なことをしてすいません」
「別に
宇治上先輩は更科さんに近付くと、何かを耳打ちした。
更科さんは驚いた表情を浮かべた後で、皮肉気に笑う。
「好きにしろよ。ウチは知らん」
ぶっきらぼうな返事だったけど、宇治上先輩は満足そうに肩を叩いた。
今のやり取りは、何だったんだろう……。
「さて、先程は身内の可愛い狂犬が失礼しましたね」
「……別に、アレくらいで騒ぐほど
宇治上先輩が声を掛けると、玉川先輩は居心地悪そうに襟を直した。
「それは良かった。そんな器の大きい先輩に、俺からも一つ質問させてください。玉川徹――アンタは俺に何の恨みがあってあんな書き込みをしたんだ?」
突然の斬りこみに、場の空気が凍りついた。
「……何の話かな?」
「とぼけるなよ。チャットの書き込みはアンタの仕業だろ」
「ハハッ、酷い濡れ衣だな。そもそもどうやって僕は他人のアカウントを乗っ取ったというんだい? 僕はその生徒と縁も
「アカウントの乗っ取りなんて誰にでも出来る。なにせアンタが使った方法は総当たりに近い力技だからな」
「え。総当たりって、全パターンを試す方法ですよね?」
仮に数字のみの四桁でも、最大一万通りを試すことになる。
パスワードを破る手段としては古風な方法だけど、さすがに難しい気がする。
「もちろん、ただ闇雲に全てを試したわけじゃない。コイツは試行回数を減らすため、パスワードに設定されている可能性が高い単語をピックアップしたんだ」
「パスワードに設定する単語?」
「その生徒の『名前』や『誕生日』だ。大方、幾つかのキーワードを設定すれば、色々なパターンのパスワードを生成するプログラムを組んだんだろう。それくらいならネットにいくらでも転がっている」
そういえば、ある企業がパスワードに設定する単語をアンケートした際、上位に誕生日があった。
その中には『password』や『0123456789』という冗談みたいな回答もあって、驚いた覚えがある。
「最近はSNSで誕生日を公開している人も多いから、情報収集は簡単だ。今回乗っ取られた二年生も、自作の絵をSNSで公開していたらしい」
「……少々決めつけている気がするけど、理屈は分かるよ。でもその方法なら君の言う通り、誰でも出来るじゃないか」
余裕のある玉川先輩に向かって、宇治上先輩は人差し指を立てた。
「五月十七日の放課後、二十日の昼休み、二十一日の昼休み、二十四日の放課後」
「? その日付に何の意味が――」
言葉が不自然に途切れ、玉川先輩が口を抑えた。
「気付いたか? 今、挙げたのは、アンタがパスワードを破るために作業していた時間帯だ」
「え? どうして、そんな具体的に分かるんですか?」
「情報処理の授業で習っただろ。一般に、サーバーの運営者にはユーザーのアクセス記録を一定期間保持する義務がある。コイツがアカウントを乗っ取るために試した記録も、全て残っているんだ」
「っ……」
「赤羽先生に頼んでCANVASの運営会社に尋ねたら、すぐに特定してくれたよ。一定時間に連続してエラーを返す履歴なんて嫌でも目立つ」
目撃証言が出てきていないことからも、犯人が書き込み当日に細心の注意を払ったのは間違いない。
でも、パスワードを破る時は?
自動で入力するプログラムを組んでいても、実行中は席から離れられない。
「察しはついていそうだが、説明してやるよ。五月二十四日に、アンタが情報処理室のパソコンを使っている姿が目撃されている。そして、この日はログイン失敗記録の後で、今回利用されたアカウントへのログインまで確認された日でもある」
「で、出鱈目だ! その証言は、僕を陥れるために――」
「残念ながら、その線はないよ」
赤羽先生がやんわりと割って入った。
「宇治上君は先入観を与えないよう、ダミーとして適当な日付を加えて証言を集めていた。聞き取りには私も立ち会ったから、中立性は保たれている」
「っ……」
玉川先輩が
額に汗が浮かび、顔色も悪い。
その異様な雰囲気に、僕は無意識に一歩下がった。
「運営会社の見立てでは、何某かの入力プログラムを組んでいたようだが、三十人前後の生徒を対象に十時間以上かけてパスワードを破ったそうだな。下調べの時間も含めると、その執念には、うすら寒い思いがするよ。ログインに成功した時はさぞ嬉しかっただろ? 本当にお疲れ様」
――そして、ご愁傷様。
嘲るような囁きに、玉川先輩の拳が震えた。
「宇治上君」
「煽った後で悪いが、改めて質問させてくれ。アンタは俺に何の恨みがあるんだ? どれだけ思い返してみても、玉川という名前には覚えがない。もし俺に非があって、その自覚さえないなら、ちゃんと説明してくれないか?」
仕切り直した宇治上先輩には、寄り添う気持ちがしっかりあった。
けれど――
「…………」
歯を食いしばる玉川先輩の口からは、謝罪の言葉は聞こえてこなかった。
「『答えたくありません』てか。ハァ……往生際悪すぎ」
「っ!!……黙れっ!」
「はい?」
「黙れと言っているだろうがっ!!」
僕はその時の玉川先輩の顔を、多分一生忘れない。
直後、鈍い音と共に、宇治上先輩が倒れる。
「え?」
理性を捨てた獣が、倒れた先輩に覆いかぶさり、拳を振り下ろす。
まるで心臓ごと止めようとする剣幕に、胃がひっくり返るような吐き気がした。
「っ……宇治上先輩!」
震える足をなんとか前に動かす。と同時に宇治上先輩が動いた。
玉川先輩の腕を掴み、ブリッジの要領で体の左側だけを持ち上げると、体勢を逆転させ、両腕を押さえこんだ。
上体を固定された玉川先輩はそれでも足をばたつかせて抵抗したけれど、無駄を悟ったのか次第に大人しくなっていった。
僕は足が止まっていたことに気付き、改めて宇治上先輩に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけないだろ」
その言葉とは裏腹に、宇治上先輩は捉えた獲物を静かに見下ろしている。
腕が痛々しく変色し始め、口を開いた拍子に赤い液体が零れた。
「おい、血が――」
次の瞬間、僕は目を見開いた。
赤羽先生の手が、ふざけているのかと思うくらいにガタガタと震えていた。
先生自身も宇治上先輩に触れる寸前で気づき、手を引っこめる。
そして、いつもは明るい笑みを浮かべている顔が、完全に色を無くしていた。
大きな感情の揺れに、思わず唾を呑む。
もちろん赤羽先生の動揺は何もおかしくない。
大人とはいえ、剥き出しの悪意は誰だって身が
もしかしたら僕だって同じくらい震えているかもしれない。
頭では分かっているのに、強烈な違和感が消えてくれない。
混乱したまま顔を正面に戻し、再び血の気が引いた。
赤羽先生を見る宇治上先輩の目が、ゾッとするほど冷たかった。
怒り、嫌悪、軽蔑、不快、諦念――負の感情をかき混ぜたコールタールのような色が渦を巻いている。
その濁った瞳がこちらを向くと、途端にくはっと笑みが零れた。
「お前は、なんて顔してんだよ」
「え、いや、だって……」
ほっとする気持ちと消えない混乱で、次の言葉が出てこない。
「更科。まだコイツが暴れるかもしれないから人手が欲しい。悪いけど、職員室の先生を呼んできてくれないか」
「了解」
更科さんが部屋を出ると、僕はたまらず床にへたり込んだ。
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