02_07__【幕間】天使様の地上生活奮闘記②

●【旧主人公】宇治上樹


 十五時を過ぎた喫茶店は、穏やかな雰囲気が漂っていた。

 客層も落ち着いた大人が多く、ガラスのペンダントライトが淡く輝いている。


「お待たせしました。えーっと、『店長のお勧め・気まぐれコーヒー』です」


 即興の商品名を語りながら、三十代くらいの店主がそっとカップを置いた。


 注文時にお勧めを尋ねたところ、俺たちの飲みたい味に合わせて淹れてくれることになったのである。

 クレアが熱心に聞くものだから、店主も饒舌になっていた。


「こちらのチョコレートは私からのサービスです。よかったらお召し上がりください」

「わぁ! ありがとうございます!」


 喜色満面のクレアに店主の女性は笑みを深めた。


「フフッ。つまらないコーヒー談義を聞いてもらったお礼です」

「いえいえ、とっても参考になりました。今度自分でも買ってみたいと思います」


「喜んでもらえたなら良かったです。当店では豆の販売もしていますので、機会があればぜひ」


 個人経営だから出来るサービスだな。

 俺からもお礼を言うと、お姉さんは『気にしないで』と言うように一礼して踵を返した。



 淹れてもらったコーヒーは、程よい酸味と苦味で落ち着く味がした。

 コーヒーにこだわりはないが、普段飲むインスタントとは明らかに違う。

 気まぐれで入った店としては大当たりだったかもしれない。


「ふぅ……。ひとまず、最低限必要なことは体験できたか」


 俺は一息つき、今日の成果を思い返した。

 バスと電車には乗れたし、コンビニやスーパーで買い物もできた。

 レジの種類を教え、便利なプリペイドカードも作成済み。

 初日としては上々だろう。


 クレアも店ごとに違うタッチパネルや買い物で貰えるポイントに首を傾げていたが、全体的には卒なくこなしていた。


「先日、神社で泣き喚いていたのが嘘みたいだな」

「あ、あれはサポート業務への不安で取り乱してしまっただけですから! だって、現世の暮らしに疎い私が、生活と仕事を両立出来るとは思えなくて……。でも、日本の文化は以前から興味がありましたし、樹さんのおかげで今はとっても楽しいです!」


 協力者が確保出来たから楽しむ余裕が生まれたということか。


 まぁ、今日の様子を見る限り、今後は一人でも学んでいけそうだ。

 クレアは外見が欧米寄りだし、多少ミスがあっても不審には思われないだろう。


「そうだ。今日教えてもらったことを整理しておかないとですね」


 そう言って、クレアは街のガイドブックをテーブルに広げた。


 地元民にも観光客にも人気の一冊らしく、メモ帳と一緒にプレゼントしたのである。

 オーバーテクノロジーに慣れた天使様は、紙の本を気に入ったらしい。


「えっと、『レジ袋は有料なので、近いうちにマイバッグを買う』、『コンビニよりもスーパーがお得』、『お弁当が割引される時間帯は要チェック』、『同じ店で同じ商品を買い続けると、店員さんに渾名を付けられる』と」


 ……無駄な知識を吹き込みすぎたかもしれない。


 天使様の所帯じみた呟きを聞いていると、携帯電話が鳴った。

 ディスプレイには隆峰の名前が表示されている。


「もしもし――」

『私だけど』

「ヒッ! な、なんで水無月が隆峰の携帯から掛けてくるんだよ」

『動揺しすぎでしょ。貴方の連絡先を知らないから隆峰君に借りたの。知らない番号からの電話には出ないと思って』


 ご明察です。中学時代に散々嫌がらせを受けてきたので……。


『突然で悪いけれど、座ったまま左を見てくれないかしら?』

「左?」


 言われた通り窓の外を見ると、道路を挟んだ向こう側に見慣れた人影があった。


「もしかして、ビルの前に立っていらっしゃるのは水無月さんですかね?」

『他の誰に見えるのかしら?』


「なんでここに?」と口にしかけて気付いた。

 向かいの建物は、色々なレジャーが楽しめるアミューズメント施設だ。


 背後のドアからはぞろぞろと他の生徒たちも出てきている。ちょうど打ち上げをやっている現場に出くわしたらしい。


 ふと、俺は自分が置かれている状況を客観的に考えてみた。

 のんびりコーヒーを楽しむ俺と、美味しそうにチョコレートをかじるクレア。


 その光景が離れた水無月の目にどう映るかといえば――

『人に仕事を押し付けてデートを楽しむド屑に尋ねたいことがあるの』


 周囲の喧騒の中でも、その冷ややかな声はやけにはっきりと聞こえた。


『死ぬ前に言い残すことはあるかしら?』

「いやいやいや! 誤解だから!」


 俺は離れた水無月に身振り手振りで必死に言い訳した。


 一方、状況が理解できていないクレアは、窓の向こうへ無邪気に手を振っている。

 その暢気な様子に気勢を削がれたのか、水無月は案外あっさりと引き下がった。


『……分かったわ。今はその話を信じてあげる。もし嘘だったら切り落とすわよ』

「き、切り落とすって、何を?」

『貴方が思い浮かべた中で一番最悪のモノを』


 怖っ……。


『ほらほら、入り口の前に固まっていないで二ブロック先のカラオケに移動するぞー』


 電話越しに聞こえてきた声に驚き、思わず腰を浮かした。


「赤羽先生も打ち上げに参加してんの?」

『ええ。先生のほうから提案してくれたの。赤羽先生ならみんなも歓迎ムードだったし、私もイベントの監視に注力できるから助かっているわ。……ただ、その本人がさっきイベントを起こしていたけどね』


「マジ?」


 確か、隆峰の挙げたヒロイン候補に先生の名前は無かったはずだが……。


『水無月君と隆峰君。私がみんなを先導するから、君たちは最後尾からはみ出す者がいないか見ていてくれ』

『分かりました』


 二人が返事をすると、一際大きく先生の声が響いた。


『くれぐれも横に広がって、他の方の邪魔にならないよう注意してくれ! 引率の私が怒られてしまうからな!』


『はーい』『うぃーっす』『オッケー!』


 打ち上げに進んで参加するメンバーだけあって、ノリが良い。

 ふざけながらも授業のように整列して歩きだした。


『ねぇ、先生の隣に行ってもいい?』

『あ、ずるい。私も!』


『こらこら、横に広がらないようにと言っただろう。私の首を飛ばしたくなかったら、二人仲良くこの広い背中を拝んでいなさい』

『アハハ! 分かったー』


 賑やかな声が段々と遠ざかっていく。


『それじゃあ、私も仕事に戻るわ。詳細をまとめたレポートは後で隆峰君に渡しておくから』

「すまん。助かる」


 改めて礼を言うと、すぐに通話が切れた。



「水無月さんもお元気そうでしたね!」

「ウン、ソウダネ……」


 元気も殺意も一杯で頼もしい限りです。

 俺はスマホを傍らに置き、口元で震える手を合わせた。


「よしっ、今からクレアの現世での設定を作りこむか」

「え、ええ。助かりますけど、なんだか急に切羽詰まった表情になりましたね……?」


 分かりやすい成果を残しておかないと、俺の大事なモノが切り落とされるからです。




 それから俺たちは、クレアが花咲高校に転校してくるまでの経緯や家族構成などを話し合った。

 学校にはアメリカからの帰国子女として話が既に通っているらしい。

 現地の暮らしは俺も無知なので、なるべくボロを出さないよう濁すコツも教えておく。


 設定の大枠を作り終えた頃、レトロな時計から木彫りのハトが顔を出した。


「もう十七時か。そろそろ街から出て解散するか?」

「あ、待ってください。今日は樹さんに一つお願いしたいことがありまして……」

「おっと、申し訳ない。そういえば、家を訪ねてきた理由を最後まで聞いていなかったな」


「いえ、現世での過ごし方は教えていただきたかったので助かりました。ただ、要件のほうはどうしても、先延ばしにはできなくて……。実は、私――」


 と、クレアは身を乗り出してきた。

 大きな瞳が潤み、引き結んだ唇が儚げに揺れている。

 その姿を見て心臓が大きく跳ねた。


 指先が痺れ、心臓は脈打ち、熱と冷気が同時に頭へ流れ込んでくる。

 こ、この感覚は、もしかして――――――――悪寒?


「私、今日帰る場所がないんです!」


 案の定、クレアの一言で頭に鈍い痛みが走った。


「……ちょっと待ってくれ。準備ができたから現世に降りてきたんだろ? 帰る場所がないってどういう意味だ?」

「えっと、準備は終わっているのですが、私が少し先走ってしまったと言いますか……」


「大変申し訳ありませんがぁ! 馬鹿なワタクシにも分かるように説明していただけませんかねぇ!?」


「丁寧な言葉が逆に怖いですっ! つ、つまりですね、準備は全て終わったのですが、気合を入れて一日早く地上に降りてきてところ、前倒しは出来ないと言われまして、今日は泊まる場所がないうえに、荷物も受け取れなくて」


「単なる凡ミスじゃねぇか!」


 そりゃ仲間の天使もフォローしきれないだろうさ!

 張り切るのは良いけど、報告ほう連絡れん相談そうはしっかりしてくれよ!


「でも、現世にも宿はたくさんありますよね? お金は必ず返しますので貸してください!」

「……あ。そうだな」


 言われてみれば泊まる場所くらい難しい問題じゃないか。

 混乱して取り乱した自分が情けない……。


「そ、そうだな。宿泊先くらい幾らでもあるか」

「アッチには大きな建物もいっぱいありますよね」


 おそらく偶然だろうが、クレアの指した方向は歓楽街だった。

 誰かさんのお陰で疲れ気味だったので、取り繕わずに事実だけを告げる。


「そっちは駄目だ。若干治安が悪いし、質の悪い客引きも多い。泊まる場所があっても多分ラブホテルだから」

「ほぅ、パートナーとの営みに特化したホテルですね。中には回転するベッドや派手なライトアップの摩訶不思議な部屋もあると学びました!」


 そのいらん知識分をよそに回してほしかった。

 あと、好奇心一杯の眼差しを向けられているが、絶対に行かんぞ。


 近場のホテルを検索しようとスマホに手を伸ばすと、くぅと気の抜ける音が聞こえた。

 同時にクレアが恥ずかしそうにお腹を押さえる。


「……そういえば、ご飯も食べてないのか?」

「天界で朝は食べましたけど」


「荷物もお金もないってことは、当然着替えも無いよな?」

「は、はい」

「っ……!」


 俺は携帯電話を握り締め、酸っぱい顔で苦渋の決断を下した。

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