ある出会い

萩谷章

ある出会い

 夏の暑さも盛りを過ぎ、秋の接近を感じる季節になっていた。このまま順調に気温が下がり、穏やかに季節がめぐるかと思いきや、孝太郎が住む地域を台風が襲った。川沿いに住む孝太郎は、弱まることのない大雨に恐怖を感じながら過ごしたが、幸い決壊には至らなかった。台風は夜の間に過ぎていき、翌朝には大雨から一転して雲ひとつない晴れとなった。

 恐怖で眠れなかった孝太郎は、日が昇って明るくなり、空が晴れていると分かると、川へ向かった。どこまで増水したか、この目で見ようと考えたのである。

 堤防にのぼって見下ろすと、孝太郎は川幅の広がりように驚いた。河川敷にある野球グラウンドは完全に水没し、目を凝らすと魚が泳いでいるのが見えた。あまりに非日常的な光景に昨夜の恐怖を思い出しかけたが、孝太郎の目にあるものが留まり、彼の興味はそちらへ移った。

 孝太郎が見た「あるもの」は、人のような形をしていた。下半身が水に浸かっているように見え、長い髪を持つ頭をときどき動かしている。見れば見るほど人であった。孝太郎は、声をかけようと近寄った。台風が過ぎたとはいえ、増水した川に入るのは安全ではない。

「あの、危ないですから、上にいた方がいいですよ」

 すると、「あるもの」は振り向いた。それは疑いようもなく、髪の長い女性であった。ちょうど、孝太郎よりやや年上とみえる。黒いロングドレスを着ており、彼は何よりその点に驚いた。

「あ……」

 女性は、驚きと恐怖が混じったような声をあげ、孝太郎の目をじっと見ていた。その様子にただならぬものを感じた孝太郎は、女性の次の言葉を待たずに言った。

「大丈夫ですか?体調がすぐれないようなら……」

「いえ……、大丈夫よ。体調は問題ないわ。お気遣いありがとう」

「そうですか……。でも、何かお困りの様子に見えますが」

 女性は少し悩み、不安そうな目を孝太郎に向けた。

「実はね……。流されてしまったのよ」

「流されてしまったとは、ご自宅がですか?今回の台風は、家が流されるほどの被害はなかったと聞きましたが」

「いいえ、自宅じゃないの。私自身が流されたのよ。大雨で川が荒れたせいで、ここまでたどり着いてしまったの。私ね、人魚なのに泳ぎがあまり上手くないの」

 孝太郎は、女性の言うことに耳を疑った。

「人魚……」

「そうなの。途方に暮れていたんだけど、あなたみたいな優しい人に声をかけてもらえて嬉しかったわ。おかげで元気が出たわ」

「しかし、これからどうされるんですか」

「どうしたものかしら。ここがどこかも分からないから、でたらめに川に飛び込んでも仕方ないし。まあ、見通しは立たないけど何とかなると思うしか……」

「何か、僕にできることはありますか」

 孝太郎は、困っている様子の彼女をそのままにして去ることができず、そう言った。すると、人魚は笑って返した。

「嬉しい。じゃあ、話し相手になってもらおうかしら」

「いや、しかし、食事や住む場所の面は……」

「そこは心配には及ばないわ。食べるものは川に入ればとりあえず確保できるし、住む場所だって、水さえあれば私はどこでも生きられるの」

「それならよかった。でも、話し相手が僕だけでは、少し物足りないでしょう」

 孝太郎は、千紘を呼ぶことにした。


 千紘は、孝太郎の恋人である。通う高校こそ違うが、家が近いので、堤防の上で待っていると伝えるとすぐに来てくれた。

「あ、千紘。急に呼んで悪かったね」

「いいのよ。それで、どうしたの」

 孝太郎は、人魚に会ったこと、話し相手になろうとしたが自分だけでは足りないだろうと思い千紘を呼んだことなど、丁寧に説明した。孝太郎とは違って千紘はさほど驚かず、むしろ喜んでいる様子であった。

「人魚に会えるの?私、昔からおとぎ話とかファンタジーが好きだったのよ。こんなこと、夢のようね」

 孝太郎は、堤防を下りて千紘に人魚を紹介した。千紘は、かなり興奮していた。

「は、はじめまして。伊藤千紘っていいます」

「はじめまして。わざわざ来てくれてありがとう」

「いえ、そんな。会えて嬉しいです。まさか、人魚を見られるとは……。お名前は、何とおっしゃるんですか」

「そういえば、自己紹介を忘れてたわね。私、ユウっていうの。遅れてごめんなさいね。よろしく」

「ユウさん。綺麗な名前ですね。よろしくお願いします」

 孝太郎は、千紘を呼んで正解だったと強く感じた。千紘はユウにあれこれと質問を繰り返し、ユウはそれに優しく答えていた。孝太郎もときどき話に入り、人魚の生活の様子をいくらか知った。数時間ほど話し、明日以降も会いに来ると約束をして、孝太郎と千紘はユウと別れた。


 その日からしばらく経つと、大雨によって増水していた川は以前のように穏やかな流れを見せるようになった。ユウはいつも下半身を、つまりヒレを水につけながら川べりに腰かけていた。孝太郎と千紘が行くと、嬉しそうに振り向き、楽しげに会話をした。

「そういえば、初めて会ったときから思っていたんですが、人魚ってロングドレスを着るイメージがないんですよね」

「それ、私も思ってました。ヒレが隠れて見えないから、最初は人魚だって信じにくかったんですよね」

「おしゃれよ。人魚も、いい服を着て楽しみたいの」

 自分たちとは全く違う生活を送る生き物を前にして、孝太郎と千紘は興味が尽きなかった。あれこれと質問すると、ユウは丁寧に答えてくれた。

 そのうち、二人が聞き、ユウが答える会話の形式から、いわゆる世間話のような形式に変わっていった。双方向的になり、ユウから話のきっかけを作ることが増えた。

「あなたたち、デートはどんなところに行くの」

「僕たちはまあ、そうですね……。駅前で買い物をしたり、カフェやレストランで食事をしたり、そこまで変わったことはしないですよ」

「いいわね。私は基本的に水のなかでしか活動できないから、羨ましくなっちゃう」

「私たちは、水のなかを自由に動き回るのも楽しそうだと思ってしまいます」

 孝太郎と千紘は、決まって二人でユウに会いに行った。いつしか、ユウに会いに行くこと自体が二人にとっての「デート」のようになっていった。

 そうした日々が続くなかで、孝太郎は千紘とともにユウに会うことに抵抗感を感じるようになった。できることなら一人でユウのもとへ行きたかったが、それは千紘を裏切ることになる気がしてならなかった。そのため、彼は心のなかに満ちるモヤを晴らす機会がないまま、千紘とともにユウと会う日々を過ごした。

 しかし、ついに孝太郎は、「ユウのもとへ行くときは千紘とともに」という暗黙の了解を破ってしまった。千紘が部活動で来られない日を知っていたので、その日を選んでユウに会ったのである。

「あら、一人で来るなんて初めて会ったとき以来ね」

「まあ、そうですね……」

「どうしたの。何だか気分が沈んでいるようよ」

「実は、どうしても言いたいことがありまして」

「何か、重大なことのようね」

「実は、僕はユウさんのことが好きなんです」

「あら……」

 ユウは、大いに驚いた様子で孝太郎の目をじっと見た。何も言わず、しばらく見つめ続けた。孝太郎は、その美しい目に見つめられる時間が幸福だと感じた。一方で、その幸福感に強い罪悪感を抱いてもいた。

 孝太郎は、それ以上ユウと目を合わせていることができず、走って家へ帰った。ついに言ってしまった。達成感と罪悪感が入り混じるその感情をどう処理していいか分からず、その夜は眠ることができなかった。


 それ以降は、孝太郎は一人ではなく千紘とともにユウへ会いに行ったが、以前と同じように楽しく会話を楽しむことはできなくなった。ユウとともに千紘に嘘をついている罪悪感。作っている笑顔はぎこちなかったようで、ある日、デートで行ったカフェで千紘の方から孝太郎へ追究がなされた。

「孝太郎、最近ユウさんと会うとき楽しくなさそうじゃない」

「いや、そんなことないけどな」

「何というか、笑顔がぎこちないというか。作ってる感じがする」

「変なこと言わないでくれよ。僕は楽しいよ」

「うーん……。こうして二人で会ってるときも、何だか楽しくなさそうな気がするのは思い過ごしかしら」

「思い過ごしだよ。千紘と一緒のときにそんな……」

「もし、何かあるなら言ってね。私は孝太郎の味方なんだから」

 千紘のその言葉で、孝太郎のなかの何かが途切れた。言ってしまおう。円満に、とは希望的観測であろうが、それほど波風立つことなく彼女と離れることができるかもしれない。

「千紘……」

「なあに」

「僕は……。ユウさんに惚れてしまったんだ。だから、その……」

 千紘は、うつむきながら話す孝太郎から目を離すことなく、やや間を置いてから答えた。

「そう……。分かったわ。こういったことは、どうしようもないわ。でも、これをきっかけに孝太郎と疎遠になるのは嫌よ。せめて、友達としての関係は続けさせてほしいわ」

「そ、それはもちろん。僕も、千紘と全く話せないようになるのは嫌だ。でも……」

「それならよかった。でも、こうなった以上、私がユウさんに会いに行くのはやめた方がいいわね。もう行かないわ」

「千紘……」

 想定よりはるかにすんなりと受け入れてくれた千紘に対し、孝太郎は一種の不気味さを感じたが、安心感がそれを打ち消す勢いであった。

 こうして、孝太郎は千紘と別れ、ユウと心置きなく二人きりで会えるようになった。ユウも孝太郎を恋人として認めてくれ、いつしか孝太郎のなかにあった罪悪感も薄れていった。

 しかし、孝太郎とユウの二人きりの時間も、長くは続かなかった。千紘と別れて二か月ほど経ったある日、いつものように孝太郎がユウに会いに行くと、そこにユウがいなかった。一時間ほど待ってみたが現れず、結局その日、彼は帰った。

 その後も、孝太郎はユウに会えない日が続き、彼のなかに不安感が渦巻くようになった。せっかく恋人になったのに、そうと呼べるほど多くの時間をともに過ごしていない。孝太郎は毎日、ユウがいつもいるはずの川べりに行ったが、彼が高校を卒業するに至るまで、ついにユウが姿を見せることはなかった。

 孝太郎は大学に進学し、地元を離れた。やがて就職すると地元に戻ってくることになり、かつて放課後を過ごしていた川べりに行ってみたが、やはりユウはいなかった。仕事に追われ、川べりに行けなくなるうち、彼はユウのことを忘れていった。


 孝太郎が四十代も半ばとなった頃、彼は高校の同窓会に呼ばれ、すぐさま参加の旨を伝えた。千紘とユウのことは、すっかり忘れていた。そして当日、孝太郎は青春を過ごした友人たちとの談笑を楽しんだ。

 高校の違う千紘も、同じ頃に同窓会開催の連絡を受け、参加していた。孝太郎と同様、友人たちと楽しげに話していた。

「千紘、あなた全然老けないのね。あのときのままだわ。若々しくて羨ましいわ」

「何か秘訣とかあるの」

「お世辞はやめてよ。特にこれといったことはしてないわ」

「またまたあ。特別なことをしてないと、説明がつかないほどよ」

「不老不死の薬でも手に入れたんじゃないの。あるいは、人魚の肉を食べたとか」

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