猫と秘密と恋のおしゃべり ―前編―

 言語食種は植物への関心が薄い。そう気づいたのは、一人暮らしを始めたすぐあとのことだった。

 木ならすべて木、花はすべて花といった具合で、ひとつひとつの名前は図鑑を見なければわからない人がほとんどだ。一方で石の名前は子供でもたくさん知っていて、私の髪を煙水晶のようだという。これには戸惑った。

 飲食種がその食性のため植物への関心が高かったのに対し、言語食種にはその必要がなかったのだろう。モノを食べる習慣がない分リソースを嗜好品に割ける彼らは、庶民でさえ高級生地や宝石に囲まれて生活している。その文化の違いが、語彙にまで現れている。

 めまいがした。飲食種と言語食種は住んでいる世界からして違う。飲食種として育てられた私が、言語食種として生きるなんてできるのか?

 できなくてもやるしかない。これ以上『ネジ巻き人形の娘』として扱われたくないのなら。


* * * * *


「どうしたの? 迷子かな」

 そんな声が聞こえたので、私はゆっくり目を開けた。

 初夏ののどかな風景が視界に飛び込んできて、青空が目に痛い。大きな噴水のある公園では何組ものカップルが散歩している。噴水を囲む石畳が途切れるとその奥はちょっとした森になっていて、石畳と木々の境目に並んだベンチのひとつに、私は一人で座り込んでいた。

 閉じたまぶたの下に眺めていたのはコーヒーミルを回す白い手だ。ざりざりと不穏な音を立てながら、細い刃が赤い心臓を削っている——そんな妄想を幻視するのはこれが初めてではない。飲食種としての生まれを隠して暮らすうちに、時々見るようになった白昼夢。眺めていると、いっそ本当に心臓を取り出してナイフを突き立てたら楽だろうなと、魅了されてしまいそうだから恐ろしい。

 それにしても、あんなにたくさんいるカップルの談笑は幻聴にかき消されてしまっていたのに、その声が耳に届いたのは不思議だった。まさに迷子の心境だったので、名前を呼ばれたように脳が反応したのだろうか。実際は私に話しかけたのではなく、声の主は少し離れた茂みの前にいたし、もっと言うなら私に背中を向けていた。

 ふわふわしたピンク髪が、大人の背丈にしては低めの位置で揺れる。身をかがめて、木の根元にいる誰かに手を差し伸べているらしい。耳を澄ませると、泣きそうな子供の声が聞こえた。

「おりてこいってゆっても、ゆうこときかないの」

 ピンク髪の男性が上を見上げたので私も視線を動かすと、木の上で白い尻尾が揺れるのが見えた。にゃあ、と困ったような鳴き声が続く。

「ああ、あれは……下りられなくなってるんじゃないかなぁ」

「うええ……」

「あ、わ、泣かないで!」

 子供のすすり泣きが大きくなった。男性は慌てたように両手をばたばた振り、「よし!」と言って手をたたいた。

「僕がやってみよう。これくらい太い木なら登れそうだ」

「ほんと?」

「ほんとほんと。帽子とジャケットを頼むよ」

 男性はジャケットを脱いで胸元のリボンタイを緩めると、シャツの腕を軽くまくった。低いところの枝を手掛かりに、木の幹をよじ登り始める。ためらいのない動きはしなやかで頼もしく、立ち上がって顔を見せた子供の両目も輝いていた。

「――うわっ」

 頼もしげなのは最初だけだった。すぐに、足を滑らせて落ちそうになる。

「おっ、おにいちゃん!」

「ちょっと滑っただけ!」

 どうにか木の又に指をかけて落下はまぬがれたが、持ち直すまで木の下では、ハラハラした子供がか細い悲鳴を上げていた。

 持ち直してからも、子供の両目の輝きは失せている。無理をする大人を心配するまなざしが、向けられている本人ではない私にもわかるほどだ。

 考えてみれば、タイを締めた成人男性が日頃から木登りしているわけもない。しかも子供と違い体重があるので、どの枝にも手をかけられるわけではなく、肩を痛めそうな角度に体をねじりながら枝に手を伸ばす、なんてことになる。

 手が危うげに空を掻くたび、木が音を立てて揺れる。

 私は無意識にベンチから立ち上がっていた。

 いや、どうして関係ない私が。そう思い直して座るけど、「おおっと」とか「うわあ」とかのんきな叫び声が聞こえるとそちらを見ずにいられない。人を呼びに行こうか、でもその間に何かあったら。離れることもできずそわそわする。

 お願いだから落ちないでよ。視線で背中を支えるように、見つめる両目に念を込める。

 コーヒーミルを回す白い手は、いつの間にか消えていた。

「よい、しょっと!」

 彼はようやく猫のいる枝にたどり着いた。

 小さな猫は優しい声に呼ばれてその腕に飛び込んだ。太い横枝にまたがって猫を抱く姿に、ひとまず子供も私も安堵する。彼は首の後ろに猫をしがみつかせると、そぉっと、すぐ下の枝に足をかけた。

 登りのルートを逆向きにたどっていく。一度通った道だからか、先ほどよりは安定していて、悲鳴の回数はぐっと減った。

 もう大丈夫だろう。そう思って、ベンチから立ち上がったときだった。

「あっ――」

 不吉な声にハッと振り向くと、彼が木の根元にあおむけになっていた。

 最悪の想像がよぎったが、すぐに、何事かうめきながら半身を起こした。怪我は――ないらしい。ホッとする。

 白い猫はというと地面に横座りし、我関せずというように乱れたしっぽの毛をなめていた。どうやら地面が近づいたことで猫が勝手に首から飛び降り、それに驚いた彼が手を滑らせたらしかった。なんて恩知らずな猫、と、思わずため息がこぼれる。

「おにーちゃん、だいじょうぶ?」

「大丈夫、大丈夫。それよりもう猫逃がしちゃダメだよ」

「このこ、うちのねこじゃないよ」

「あ、そうなんだ……」

 どっと疲れた様子だ。

「でも、うちのねこにする!」

 子供は高らかに宣言すると、元気よくお礼を言って駆けていった。腕にはしっかり猫を抱いている。立ち上がった男性は手を振ってそれを見送ると、ズボンとシャツの土を払い、ううんと伸びをした。

 空気を含んだ甘そうな髪がふわふわと風に揺れる。背は私より少し高いだろうか。汗の染みたシャツが張りついて、肩甲骨の形が浮き上がって見えた。それを隠すようにジャケットを羽織ると、彼は何事もなかったかのように歩き出した。

 あ、帽子。忘れてるじゃないの。

 木漏れ日の下に取り残されたトップハットを拾う。軽く土を払ってから、私は彼を追いかけた。

「すみません、これ、お忘れでは?」

 振り向いた彼は――。

 彼は、何を言われたかわからなかったように前髪の下の目をぱちくりさせた。星が輝くような銀の瞳は私を見ているようで見ていない。もう一度言ってもその調子なので、「聞いてます?」と声をとがらせると、ようやく自分の帽子が私の手にあると気づいたらしい。

「あっ、はい! 僕のです!」

「やっぱり。もう忘れないようにしてくださいね」

 子供を諭すような口調になってしまったが、彼はあまり気にしないようで、「ありがとうございます!」と帽子を受け取った。元気のいいお礼が先ほどの子供と重なり、笑みがこぼれそうになる。愛想笑いにごまかしながら、じゃあ、と立ち去ろうとしたところで、慌てたように呼び止められた。

「あの、これ、僕の電話番号で……!」

 鞄をひっくり返すようにして書きつけた紙切れに並んでいたのは、隊列を乱した九桁の数字。何度か書き損じて黒く塗りつぶしてある。

「気が向いたらでいいので、お暇なときとかに、連絡くれたら、嬉しいです」

 道端で渡された連絡先なんて、普段なら捨てていただろう。でも今日はなんだか悪戯心が湧いた。

「私の連絡先は聞いてくれないんですか?」

 顔を輝かせるのと驚きにひっくり返るのと、どちらを先にしようか体が迷ったようだった。開いたり閉じたり忙しい口から「教えてください」の言葉が出るまでしばらくかかった。

 最初に連絡をくれたのは彼の方だ。それからは誘ったり誘われたり。可愛い人とのちょっとした予定が週末を彩るのは悪くない。

 でも恋人になるつもりはない。現実問題、嘘をついていては家に招けないし、隠し事があると長時間一緒にいることもできないし。

 だからこれでいい。そう思っていたのに。

「何かを隠していたとしても、そんなこと全然なかったとしても、どんなあなたでも僕は好きです」

 そんな言葉を言われてしまって、どうすればいいのだろう。手に持ったシガーの赤い先端は迷子の導灯には頼りない。

 だって、簡単に言わないでほしい。言語食種に生まれて言語食種として生きてきた言語食種に何がわかるの。隠し事があっても変わらず好きだなんて、たいていの場合は綺麗事だ。

 そう、たいていの場合は。じゃ、そうじゃない場合もある?

 頭の中がぐちゃぐちゃになる。信じたい気持ちとせめぎ合う。

 どうして人の感情ってたったひとつじゃないんだろう。この胸に湧く感情が、悪意でも疑心でもあきらめでもなく、

 ただの恋心ならよかったのに。


* * * * *


「何してるんだよ、ダフロート!」

 気づいたときには、彼──レットムさんが、バーのテーブルに手をついていた。

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