恋とシガーと彼女の秘密 ―後編―

「レットムさん。このメロディ、何でしょうか」

 彼女——カミラさんが僕を振り返った。くりくりした夕日色の目が楽しそうに輝いていて、つい見惚れてしまう。

 下ろしっぱなしの髪は煙水晶けむりずいしょうのブラウン。首を傾げる動きに合わせて優雅に流れ、髪に反射する日光に、僕は一瞬目を眩ませた。

 昨日ダフロートと喫んでいる間に振り出した雨は夜のうちに止み、連休初日の今日はすっきりとした夏空を背景に、町のあちこちにある煙突が元気に煙を上げるのがよく見えていた。シティの東西を貫く目抜き通りはウィンドウショッピングの客で混み合い、歩道からあふれそうなくらい。蒸気自動車が煙を吹きながら肩身狭そうに走っているが、人々はそんなことお構いなしにショーウィンドウの前で立ち止まる。僕も足を止め、耳を澄ませた。

「オルゴールですかね。見に行きますか?」

「行きましょう!」

 彼女は満面の笑みで答え、さっそく歩き出した。スカートの裾が左右に揺れる。

 小柄な彼女には小鳥模様の赤いドレスや、胸元を飾る大きなリボンがよく似合う。背筋を伸ばした歩き姿は凛としているのに、ふざけて水たまりを踏んだりするから無邪気だ。可憐な姿が隣を歩くのはちょっと前までありえなかったことで、まるで妖精が現実世界に迷い込んだみたいだった。混雑していることもあり、目を離したら消えてしまいそうだ。

 手でもつなげば現実感が湧くだろうか。そんな勇気はないけれど。

 音楽の聞こえる方に歩いていくと、辿り着いた店では、大きなショーウィンドウの中で小さな人形が踊っていた。抱き合う男女の姿をした陶器の人形が丸いテーブルの上をくるくる回る。オルゴールの音はどうやらその人形からだ。女性のスカートの後ろにはハート形のゼンマイが生えていて、それもまた緩やかなスピードで回転していた。

「ネジ巻き人形ですね。かわいいなあ」

「ネジ巻き人形……」

 ふっと、カミラさんが長いまつげを伏せる。表情が陰った。

 どうしたのだろう。でも尋ねる前に彼女は顔を上げ、変わらぬ笑顔を見せた。

「ちょっと休みませんか? 歩き疲れちゃったので」

「それならこの近くにお勧めのバーがありますよ。友人とよく行くんですけど、そこでよければ」

 バーと言えばシガー・バーを指すのが普通だ。タバコを吸うかどうか一応確認すると、カミラさんは「たしなむ程度です」と胸を張った。その答えじゃどの程度なのかわからないけど、シガー・バーに出入りできる程度には吸うということだろう。

 それに昨日のあの店なら、軽めの葉からベテラン向けまでそろっている。横道にあるので目立たないが、老若男女誰に勧めても間違いない店だ。

 ところが店に近づいて、看板の文字がはっきりすると、楽しげに歩いていた彼女の足がハタと止まった。

「あのお店、会員制じゃありませんでした?」

「ああそういえば……店に入るとき年齢を確認されますね。会員制ってのは少し大袈裟ですよ。市民証か滞在証を見せるだけです」

 僕はジャケットに吊るしたロケットペンダントを持ち上げて見せた。楕円形のふたを開けると中にフルネームや生年月日が刻印されている。年齢制限のある葉を扱う店ではたいていこれを見せなければならない。日常生活に必要とはいえ、身分証明に使うものなので、盗まれたら大変なことになる。

「市民証、持ち歩いてないんです。落とすのが怖くって」

 だから彼女がうつむいたとき、普段の僕なら疑わず、慎重な人なんだな、とだけ思っただろう。それなのに今脳裏に浮かぶのは、昨日ダフロートと交わした会話だ。

『その人、名前は名乗ったのか?』

『もちろん――』

『ファミリーネームの方だぞ』

『――聞いてない』

『住所は?』

『知り合ったばっかだし』

『年齢』

『二十二歳!』

『を、確認できる証明書』

『見たことある方が変じゃない?』

『理由つけて見せてもらえ。んで理由つけて断るなら詐欺師。騙したあとで追ってこられないよう、本名や住所は隠そうとするんだよ』

 昨日まで、疑う気持ちはほんの小指の先程度だった。ダフロートに相談してからというもの、小指の先がどんどん肥大して、視界を埋め尽くしてしまっている。

 じゃあ別のところにしましょうか、と提案したのはどちらだったか。気づいたら小ぢんまりとしたバーにいて、細いシガーをくわえていた。

 僕たちの他に客はいない。カウンター席に座る僕たちの間に、マスターが磨いた灰皿を置いた。灰皿の底に描かれた半人半魚の女性図を避けて彼女がシガーの灰を落とし、それから僕に目を向けた。

「ボーっとしてますね、レットムさん。今、何を考えてました?」

 いつも通りの悪戯っぽい笑顔に、僕は思わず口ごもった。何か隠してる? なんて聞き返せなくて。

 でもすごく怪しく見えただろう。思ったことを飲み込むのには慣れていない。言わなかった言葉が喉を滑り落ちて、あるはずのない胃袋にどんどん溜まっていくような気がする。消化液も収縮運動もなく、落ち込んだものはいつまでも、一生留まる胃袋に。

 秘密を持つということは、秘密を常に意識することだ。攻撃的な形をした〈秘密〉が歩くたびに腹の内側を刺す。その感覚に耐えられないから、僕はいつも頭に浮かんだことはその場で言うようにしているのだ。

 ダフロートには「駄声野郎」と言われたっけ。声の味は自分じゃわからないけど、たぶん彼の言う通りなんだろう。〈秘密〉のとげに錬磨されず出る声は、尾びれのまま打ち上げられた人魚みたいに、生臭くてみっともない。

 彼女の声はとても美味しい。何かを隠してるせいなのか。

 飲み込んだ言葉がおのれを刺す、そんな苦しみの中にいるのか?

 思い至れば、自分が嘘をつかれてるとしても、そんなのちっぽけな問題に思えた。

「ちょっと想像してたんです。あなたが何か秘密を抱えた、ミステリアスな人かもって」

「あら、例えばどんな秘密を?」

 とんだロマンチストかもしれない、騙されていてもいいなんて。

 でも何度考え直したところで、何度でも恋を自覚するだけだ。

「何かを隠していたとしても、そんなこと全然なかったとしても、どんなあなたでも僕は好きです」

 シガーを口元に運ぶ繊細な手が止まった。笑っていた目が、大きく見開かれた。

 瞳が店内の照明を映し、海に還る間際の夕日のように、一際強く輝く。僕は言った。

「カミラさん、僕と恋人になってくれませんか?」

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