おいしい恋のおしゃべりを君と

矢庭竜

恋とシガーと彼女の秘密 ―前編―

 彼女の声を聞いた途端、雷に打たれたように全身が痺れた。

 声にばかり集中して、何を話していたのかすぐにはわからなかったくらいだ。「聞いてますか?」とちょっと尖らせた声ですら甘く脳を溶かす。散歩する人々の談笑が遠くなって、もう彼女の声しか耳に入らない。

「あの、これ、僕の電話番号で……!」

 立ち去ろうとする彼女を引きとめて、番号を書きつけたメモを手渡した。女性に連絡先を渡すのなんて初めてだ。しかも公園で偶然会っただけの人に。

 でもどうしても、何もせずには帰れなかった。靴の裏が公園の石畳にぴったり張りついたみたいだった。

「気が向いたらでいいので、お暇なときとかに、連絡くれたら、嬉しいです」

 それなのに口から出る言葉はそんな消極的なもの。ああおしまいだ。僕は心の中で自分のモジャモジャ髪をかきむしった。きっと連絡は来ないだろう、彼女はメモを愛想よく手帳に挟むだろうが、帰ったら帽子も脱がないうちに取り出して屑籠へ放るのだ。

 しかしどうしたことだろう。彼女の夕日色の瞳はメモをじっと見つめたかと思うと、悪戯っぽい笑みで僕を見上げた。

「私の連絡先は聞いてくれないんですか?」

 公園の噴水の音がファンファーレのように聞こえた。それとも僕の歓声だったのかな。何にせよ、そんなものより彼女の声を聞いていたかった。優しい指が脳を直接甘やかすような支配的なさやめき。

 きっと飲食種の言葉では「胃袋をつかまれた」というのだろう。もっとも僕たちラニー人に、胃袋はないのだけれど。


* * * * *


 ラニー人の先祖は飲食種と同じで、口から物を入れて栄養を取っていたらしい。でも、現代のラニー人は食道が退化し、柔らかい物だろうが液体だろうが飲み下せば喉が詰まって死んでしまう。

 では僕たちは何を栄養にしているのかというと、人の声だ。

 もっと正確にいうなら人の言葉。ただの声じゃなくて意味を持つ声。手話のわかる人は手話でのやり取りでも栄養を取れるらしいから、「声」に限った話でもない。どんな言語を使うにせよ、会話によって脳の言語中枢が活性化すると、小脳の左右にある言語栄養器官が回転してエネルギーを生む……ミドル・スクールで習った知識じゃそんな感じだけど、詳しいことは僕より専門家に聞いた方がわかると思う。

 科学者じゃない一般人にもわかることといえば、ある種の人の声は強い快感をもたらすということだ。

 飲食種の言葉を借りてなのか、その快感は「美味」という言葉で表される。公園で出会った彼女の声は、僕がこれまでに聞いた中で一番美味だった。

「それで? 公園で帽子を拾ってくれたご婦人にメロメロのドロドロでどうすりゃいいかわからないって?」

「すごい嫌味な言い方するね、ダフロート」

「帽子落とすわ恋に落ちるわ散々だなあ、レットムさんよ。次は自分が道端のドブにでも落ちるんじゃねえの」

 笑いながら肩を揺するのは、ハイ・スクール時代からの友人、ダフロート。帽子から垂れたヴェールが揺れ、ほのかに光る青緑の髪が覗く。彼の髪は日の下でも目立つけど、薄暗い店内ではなお発光がわかりやすい。髪を珍しがる奴らによくちょっかいかけられていた彼は、そんな学生時代のためか少々冷笑的だ。

 シガー・バーはいつもより混んでいた。午後五時を過ぎたばかりだというのに満席で、立ちみ客もたくさんいる。各々好きにシガーを吹かし、店の奥は煙でくすんで見えないほどだ。高い天井で大型空調機が一生懸命羽根を回し、ぬるい空気をかき乱す。

「うん、気をつける。それで、ダフロートに聞きたいことってのはさ」

「あー、悪い。この流れなら想像つくけどよ、女受けする服なんて俺にはわからねえからな」

「違うよ、聞きたいのはそうじゃなくて」

 もっと彼の専門に関することだ。

「結婚詐欺師の見分け方について……」

「……疑心暗鬼になってんなあ」

 ダフロートはニヤニヤ笑いを消し、同情的なまなざしをよこした。

 彼は警察官だ。黒を基調にした制服はボタンホールから細い鎖が垂れ、その先のポケットに警察証が入っている。広い肩に揺れる肩章も、今は空だが太ももに巻かれた電気ガン用のホルダーも、よく似合っていていかにも頼もしい。詐欺は専門じゃないというけど、僕よりは知識があるだろう。

 魅力的な女性と連絡先を交換した。それから休日に時間を作り、これまでに三度デートしている。そのことはとても嬉しいんだ、明日世界が終わってもいいくらいに。でも舞い上がろうとする心の隅を、そうはさせまいと抑え込むのは、自分に対する自信のなさだ。

 窓の外ではだんだん日が傾いてきた。長く伸びる煙突の影を楽しげに帰っていく人々が踏む。夏のバカンスを間近に控え町全体が浮かれ足。店の賑わいもその余波だろうと思いながら、僕は窓ガラスに映る自分をちらりと見た。

 どんなにとかしても言うことを聞かないモジャモジャのピンク髪に、鈍い印象の銀色の目。彼女に出会ってから服装には気を遣っているけど、中途半端な背丈の僕じゃ何を着てもダボっとして見える。とりえといえば二十歳から働いてきた数年分の貯金くらいで、それだってしがないタバコ商の給料だけど、二回か三回に分けてだまし取るならちょうどいい金額かも、とか思ってしまうのだ。

 久々に会う友人に暗い話をするつもりはなかった。だけど隠そうとするあまり、かえって不審だったのだろう。ダフロートが「何かあったのか?」と聞いてきたのは、店に入って十分もしない内のことだった。さすが警官、ぜひその手腕で僕の不安を綺麗に霧散させてほしい。

「韻を踏むな、韻を。それで、そのご婦人は『声が美味い』んだな?」

「うん、聞いたことないくらい」

「じゃあ決まりだ。詐欺師だな」

 不安は霧散どころか倍増した。

 そんな答えなら即答しないでほしい。もうちょっと、ためらうとか、あると思う。

「少なくとも、隠し事はあるだろうな。声の美味い奴ってのはそうなんだ」

 僕の泣きそうな顔を見て、ダフロートは足を組み直すとややマイルドな表現をつけ加えた。僕は恨みがましく彼の顔を見上げる。

「『詐欺師の美声、お人よしの駄声』ね。そんな偏見信じてるんだ?」

「偏見じゃなくて経験則だよ。実際そうだからこそ、そんなことわざも生まれるんだろ? 俺が見てきた事件でもたいてい声のいい奴が犯人だった」

 そんなふうに言われれば、警察じゃない僕には言い返せない。

「やめとけよ。犯罪絡みじゃないにしても、浮気なんかされてたら傷つくのはおまえだぜ。おまえみたいな思ったこと全部言っちまう駄声野郎、掌で転がされて終わりなんだから」

 さりげなく悪口を言われた気がしたけど、言っていることは正しいのだ。

 いつの間にか雨が降り出していた。灰色の猫が慌てて軒下へ走っていくのを最後に、窓を流れ落ちる滝が暮れなずむ町を隠す。

 一方で店内では客たちが吐き出す白煙がいよいよ空間を埋め尽くしていた。モノクロームに閉じ込められる視界で、手にしたシガーの先端だけが鮮やかに燃える。

 しかしその赤も瞬く間に、くゆる煙に隠れてしまった。

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