誤差

萩谷章

誤差

 とある会社で、新たな福利厚生が導入された。それについて、男性社員二人が話していた。

「まったく、どんな恩恵を受けられるかと思ったら、妻子持ちの俺には関係のない話じゃないか」

「一方で、独り身の僕は大いに考えるべきところのある制度。どうしたものかなあ」

「せっかくだし、もらってみたらいいんじゃないか。恋人や配偶者のいない者へ向けて、その役割をしてくれるアンドロイドを支給するなんて、結構なことじゃないか」

「何だか情けないような気もするが……。これだから恋人ができないのかもな」

「寄りかかれる存在をそばに置いておくことで、私生活の充実を図ってもらうというのが会社の方針らしいぞ。合わなかったら、返せばいい」

「それもそうだな」

 独り身の方の男は、アンドロイド支給を申請することにした。一週間ほど待って、アンドロイドは彼の家へ迎えられることになった。


 彼が支給の申請を決めたのには、同僚の後押しの他に理由があった。それは、クリスマスが近づいていること。これまで、恋人と聖夜を過ごす経験がなかった彼にとって、苦労なくロマンチックな機会が得られるのは、悪い話ではなかったのである。

「ここが僕の家だよ。あがってあがって……」

「変な冗談はやめてよ。記憶喪失なんかじゃないわ」

「はは、そうだった……」

 アンドロイドは、彼に関する情報をほとんど知っている。さながら、長年付き合っている恋人のように話すことができるようになっているのである。つまり、「彼のパートナー」として作られたオーダーメイドなのである。彼は支給されて、その精巧さに驚いた。本物の人間の女性と少しも違わない。

「ねえ悠太。クリスマスが近いじゃない。私ね、悠太と一緒に出かけたいわ」

「僕もそう思っていた。だから、レストランを予約してあるよ。美味しいお酒を飲んで、美味しいご飯を食べよう」

「まあ、本当。嬉しいわ。悠太のそういうスマートさが好きよ」

「僕も、君の愛嬌のある可愛いところが好きだよ。当日は、イルミネーションも綺麗だろうな……」

 彼は、すっかりアンドロイドに首ったけになった。香織と名づけ、彼女とのコミュニケーションを大いに楽しんだ。「帰れば香織がいる」と考えれば、仕事もはかどった。休日には二人で映画を見に行ったり、喫茶店をめぐったりした。賭け事や酒に夢中になるより、よっぽど健全な楽しみといえた。

 やがてクリスマス当日となり、二人は予約していたレストランで食事を楽しんだ。九時頃にそこを出て、レストランがある大通りを華やかにしているイルミネーションを眺めながら帰ることにした。

「美味しかったわ」

「そうだね。特にメインの肉料理は最高だった」

「また来年も行きましょうね」

「もちろん」

 彼と香織は手をつなぎ、イルミネーションに照らされながら大通りを歩いた。カップルが多かったが、彼はそれに気づかなかった。自分自身が、そのうちの一組だったためである。

 大通りを抜け、駅を目指してイルミネーションのない通りへ入った。それでも十分にぎやかではあったが、二人が話す声量はいくらか小さくなった。すると、香織が何かに気づいたように言った。

「そういえば悠太。外食に行った帰りは、決まってコーヒーを飲むじゃない。そこに喫茶店があるわよ」

「おお、そういえばそうだ。香織と話すのに夢中で忘れていたよ」

 二人は喫茶店に立ち寄った。

「僕はドリップコーヒーにするよ。香織も何か飲むかい」

「私はいいわ。お腹いっぱいなの」

「そうか。じゃあドリップコーヒーをひとつ、持ち帰りでお願いします」

 彼はコーヒーを飲みながら歩き、飲み終える頃にちょうど駅に着いた。数分待ち、やってきた電車に乗り、二人の家の最寄り駅で降りた。

 最寄り駅から家までは十五分ほど歩く。途中にあるコンビニの前で香織が立ち止まった。

「ねえ、まだ日付が変わるには早いし、家でもう一杯くらい飲まない」

「悪くない。店で飲んだワインもよかったが、別の酒を飲むのもいいかもな」

 コンビニへ入って酒を選びながら、香織が驚きを含んだ声で言った。

「あら、これ。悠太の地元の……」

「あ、本当だ。僕の地元の日本酒だよ。これ美味いんだ。一緒に飲もうか」

「いいわね」

 二人は家へ帰り、再び乾杯をした。香織と楽しい会話を交わす充実感に浸りながら、彼はかなり早いペースで日本酒を飲んだ。泥酔状態で香織の膝に頭をあずけ、話しかけた。

「僕はねえ、君のことが本当に好きなんだよ。その長い髪、美しすぎる目、守りたくなるような細い腕、すべてが愛しいんだ」

 香織は笑いながらそれに答えた。

「嬉しいわ。私も好きよ。いつもは頼りがいがあって素敵。でも今みたいに、私だけに見せてくれるだらしない姿も可愛らしいわ」

「ははは、だらしない姿か。確かに、君にしか見せないかもな。それもこれも、香織のことが好きだということに尽きる」

 香織はそれには返事をせず、彼の頭を優しくなでた。女性らしい柔らかな手は彼の眠気を誘い、やがてまぶたを閉じた。

 翌朝起きると、彼は香織の膝ではなく枕に頭をのせており、肩から下は毛布に包まれていた。部屋を見回すと、台所に立っている香織を見つけた。

「おはよう。ゆうべは悪かったね。わざわざ布団に運んでくれて」

「いいのよ。寝顔をずっと眺められたから得だったわ」

「そりゃ恥ずかしいな。ところで、何を作ってくれてるんだい」

「おかゆよ。あなた、飲んだ翌日は胃にやさしいものを食べるでしょ」

「おお、それはありがとう。香織が作ってくれるおかゆは、いつも美味しい……」


 クリスマスから少し経ったある日。彼は、会社で同僚と話していた。彼は落ち込んだ様子で、何度も溜め息をついている。

「お前、アンドロイド返却したんだって?オーダーメイドでパートナーを作ってもらっておいて、合わなかったのか」

「いや、あんなに素晴らしい恋人はいないよ。気遣いが上手く、僕の好みを知ってくれている。それに何より、僕のことを好きでいてくれる。惚れこんでしまった」

「わけが分からん。じゃあ、そのまま一緒にいればよかったじゃないか」

「そうしてもよかったんだけどね。どうにも恐ろしくなった」

 それまで眉間にしわを寄せていた同僚が、からかうような表情になった。

「おお、何かの不具合で浮気でもされたか」

「それの方が現実味があってよかったかもしれない」

「相当に嫌な思いをしたようだな。聞かせてくれよ」

 彼は、それまでで最も大きな溜め息をついて、話し始めた。

「僕はあまり恋愛経験の豊かな方ではないんだけどね、思ったんだ」

「ほう」

「恋人って、必ずどこかで『はじめまして』があって、そこから仲良くなって、付き合って、その過程でお互いを知りながら、強い信頼関係を築いていくわけだ」

「ごもっとも」

「しかし、アンドロイドだとそこに誤差がある。こっちは『はじめまして』なのに、向こうは僕のことをよく知っている。はじめはその精巧さに驚いたが、やがてその誤差が気味悪くなってきたんだ」

「なるほどなあ。お前のことをよく知っていても、結局は恋人のふりをしてるようなものか」

「そういうことさ。今に至るまでの過程がすべてすっ飛ばされている。まあ、それだけならまだよかったかもしれないが、この間のことが返却の決め手になった」

「おお、何があった」

「酔いすぎて、布団にも入らず寝てしまったんだよ。そうしたら翌朝、彼女がおかゆを作ってくれてたんだ。飲んだ翌日、僕は胃にやさしいものを食べるって知ってるからな」

「話だけ聞けば最高だな」

「でも僕、それまで彼女におかゆなんて作ってもらったことなかったのに、『君が作ってくれるおかゆはいつも美味しい』って思わず言ってしまったんだよ。まるで彼女と長年付き合ってきたかのように。いや、『そういうこと』になっているんだけど……」

「記憶が……」

「そういうことさ。このまま彼女と一緒にいると、あるはずのない記憶がどんどん作られていくかもしれない。僕の人生が少しずつ書き換えられていったらと思って、何だか恐ろしくなったんだ……」

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誤差 萩谷章 @hagiyaakira

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