夜長の分水嶺

萩谷章

夜長の分水嶺

 衣替えをしたのはついこの間と思っていたのに、今やコートを着ないと出歩けないような季節になった。自転車で学校に通う正洋にとって、目前に迫ってきた本格的な冬はあまり歓迎したくないものであった。一年前、凍った道を自転車で突破しようと試み、派手に転んだのを通りすがりの人に見られたのは、彼にとっては恥ずかしい記憶として強く刻み込まれている。

 その夜も、正洋は机に向かっていた。自分の学力に見合った大学を志望校として設定し、力を入れすぎず、また抜きすぎず、漫然と受験勉強に取り組んでいたのである。

 夜の十一時頃になると、参考書やノートをすべて片づけ、彼は読書に移行する。受験生として、今はこれだけが楽しみなのである。自然と、表情も穏やかになる。

「ええと、昨日はどこまで読んだっけ……」

 しおりを挟んでおいたページから、読んだ覚えのない部分の始まりを探し、そこから読み進めた。五十ページほど読むと、十一時半になっていた。正洋は何かに気づいたように本を閉じて立ち上がると、「散歩に行こう」とつぶやいた。厚手のコートと靴下を取り出し、外の寒さを想像しながら出かける準備を行った。普段なら、日付が変わるか変わらないかの時間に、眠りにつくのに。


 家族はすでに眠っていたので、正洋は静かに玄関のドアを開けて出た。昼間に比べて鋭さを増している寒さに、彼は回れ右をしそうになったが、せっかく着込んできたのを脱いでしまうのはもったいないと思ったのでやめた。

 正洋の家は川沿いに建っているため、堤防が近所一帯を囲っている。堤防に上ると、川を挟んで向こうに広がる住宅街を見ることができ、ちらほら明かりがついているのが見える。暗闇のため、川は音によってのみ流れていることを知らせてくれる。正洋は、実に穏やかなその音を聞きながら、堤防を右に行ったものか、左に行ったものか考えた。どちらに行っても橋が架かっており、昼間ほどではないが車が通っている。駅が近く、レストランやコンビニが多いので、この時間でも明かりが完全に消えることはない。正洋は、右に行くことを選んだ。「何となく」とは、便利な言葉である。

 橋にたどり着き、正洋は川を渡ることに決めた。ときどき通る車は、頬に突き刺さるような冷たい風を起こして走っていく。しかし、正洋にとってはその風がなぜか心地よかった。

 橋を渡り終えようとしたとき、正洋は向こうからやってくる人影を一つ認めた。うつむいている様子で、生気がないように彼には思えた。自分は思いつきで外に出てきたが、あの人は何か目的があるのだろうか。そう考えながらすれ違おうとしたとき、街灯が相手の顔を一瞬だけ強く照らした。

「拓真じゃないか」

 正洋が声をかけると、拓真は顔を上げた。

「おう、正洋か」

 思いがけず友人に会ったにもかかわらず、拓真は驚いたり嬉しがったりする様子を見せなかった。それに拍子抜けしつつも、正洋は聞いてみた。

「こんな時間にどこへ行くんだ」

「そういうお前こそ、何してる」

「何となく、散歩がしたくなってな。勢いで外へ出たんだ」

「そうか……」

「それで、お前はどうなんだ」

「俺も似たようなもんだな。いや、違うかもな。俺の方は、飛び出してきたというのが正しいかもしれない」

 生気のなかった拓真が笑いながら言った。正洋はさらに聞いた。

「何かあったのか」

「大したことじゃないんだけどね。いや、お前だから言ってしまおう。簡単に言うと、不安に耐えきれなくなったんだよ」

 拓真の笑顔には、陰があった。それに気づいた正洋はこれ以上聞かずに話題を変えた方がいいかと思ったが、友人として相談にのってあげるべきかとも思った。少し悩み、彼は後者を選んだ。


 二人は橋の中央へ移り、穏やかに流れる川の上で話し始めた。欄干に背をあずけ、先に口を開いたのは正洋の方であった。

「不安ってのは何だ。俺でよければ、相談にのるぜ」

「お前の顔を見ると、何でも話したくなるな。何でこんなに信用できるんだろう」

 拓真の笑顔から、陰がなくなったように正洋には思えた。それに安心し、彼は思わず声をあげて笑った。

「そうかい、そりゃ嬉しいね。一番の褒め言葉だ」

「まあ、色々な不安があってだな。挙げればきりがない」

「例えば、どんなのがある」

「今のところ、一番不安なのは受験だな。志望校に受かるかどうか。お前には確か言ったはずだけど、ちょっと手が届かないかもしれない」

 拓真が志望校に設定している大学は、全国的に名の通ったところで、「難しいかもしれないが、挑戦したい」と言っていたことを正洋は思い出した。

「やりたいことがあるんだっけ」

「そうなんだ。そこでしか学べないことがあるから、絶対に行きたいと思ってる。だけど、どうだか……。いくら思いが強くても、試験を突破できないことには」

「お前なら大丈夫だよ。学校で、時間を惜しんで勉強してるのを見てるぜ。俺なんかよりずっと勉強してるんだから、行けないわけがない」

「そう言ってくれると心強い。しかしなあ……」

 拓真はうつむいた。

「しかし、何だ」

「これは嫌味じゃないんだが、俺は高校受験で挫折してるんだよ。本当は、もう少し上の高校を目指してたんだ。でも、手が届かなくてな」

「それ、俺以外に言うなよ。学校で言ったら総スカンを食らうぞ」

 正洋は拓真の肩をたたき、やや大きな声をあげて笑いながらそう言った。

「分かってるさ。まあ、そういうわけだから、今度の受験は大丈夫かどうか、不安なのさ」

「なるほどなあ。まあ俺も進学を目指してるが、俺にしてみりゃ挑戦するってだけで尊敬できちゃうね。俺なんて、手が届きそうだから志望してるわけで。お前みたいに立派な目標を立ててるとはいえない」

「お前のやり方も賢いと思うぞ。俺は変に夢を見すぎなのかもしれない」

「そう言ってくれるか。我ながら甘えきったやり方だと思ってたから、嬉しいね。とはいえ、周りが俺ら二人を比べたとき、どちらが立派だと思うか聞かれたら、満場一致でお前だと思うぜ」

「今度、それやってみるか。俺はお前に多く票が入ると思う」

「それはありえない」

「挑戦はいいことのように言われるが、俺の場合は無謀というんじゃないかな」

 拓真の笑顔が消えた。

「そう悲観的になりすぎるな。もう少し自信を持ったらどうだ。その様子だと、受かるものも受からないぞ」

「自信ねえ……。持てればいいんだが、どうしてもわいてこない」

「そんなのは虚勢だっていいんだぜ。とりあえず『俺は大丈夫だ』と思っておけば、自然と上手くいく」

「そういうもんかね。お前がそう言うなら、そうしてみるか。俺は、大丈夫。きっとよい方向へ転ぶ」

「そうだ」

「俺は、大丈夫」

「そうだ、その調子だ」

「俺なら、いける」

「ようし」

 拓真に笑顔が戻ったが、頬には流れるものがあった。正洋には、その涙が、高尚で美しく見えた。いつの間にか彼の目にも涙が浮かび、拓真の肩に腕をまわした。拓真は泣きながら、不安定な声で話し出した。

「飛び出してきてよかったよ。じゃなきゃお前に会えなかった。他にも色々と不安なことはあるが、何とかなりそうな気がしてきた」

「俺も、気まぐれで散歩に出てきてよかったよ。お前の役に立てた」

 二人はひとしきり泣いていたが、その顔は笑っていた。次に話し始めたのは、先ほどとは反対に拓真の方であった。


 拓真は真面目な顔をして話し始めた。

「お前に会えたのは嬉しいが、雨だったらなおよかったな」

 正洋は、さえぎる雲ひとつない星空を、頭を動かすことなく目だけ動かして見上げた。

「星が見えると嫌か」

「星は綺麗だから嫌いじゃないんだけどね。晴れが嫌いなんだよ」

「変わったやつがいるもんだ」

「それだけで変わり者扱いされちゃ困る。雨が好きな人は結構いるぜ」

「俺は分からんなあ。気分がすっきりするじゃないか。日差しを浴びなきゃ、人間だめになっちまう」

「俺は、その日差しが暖かくて嫌なんだ。その点、雨は冷たさをもたらしてくれるのが好ましい」

「相当、嫌いらしいな」

 正洋が眉間にしわを寄せると、拓真は勢いよく話し始めた。

「お前、さっき晴れは気分をすっきりさせてくれるって言ったろ」

「うん」

「そこなんだよ。お前はそう思うんだろうけど、俺には強制的に気分を晴れやかにさせられているような気がして嫌だ。こっちの気分が沈んでいるのに晴れていると、『こんな天気がいいんだぞ。お前も晴れやかな気分でいろ』と言われているような気がしてならない」

「大丈夫かお前」

「俺はいたって健康だ。続きを言うとだな、雨は日差しがない。冷たい。いくら気分が沈んでいても、強制的に気分をああしろこうしろと言ってこない。むしろこっちが抱えている感情を、見守っていてくれる。その安心感が好きだ」

「ほう」

 正洋には、拓真の言っていることがさっぱり分からない。普段からの心の持ちようが違うのだろうと考えて、それを心のなかで言い訳にした。

「雨は一般的に悪い天気と言われるが、だからこそいいんだろうな。悪いから、こっちの気持ちが沈んでいても、ギャップがない。一方で、こっちの気分が沈んでいるときに晴れていると、『俺はこんなにつらいのに、空の方は元気にしてやがる』となるんだ。だから、俺にとって、雨はいい天気だ。ややこしくなってきたから、このへんにしておこう」

 正洋は、拓真の話が終わったことに正直なところ安心感を抱いた。しかしそれもつかの間で、拓真は別の話を始めた。

「まあでも、雨じゃないにせよ会えたのが夜だったのはよかった」

「今度は昼が嫌いという話か」

「ばれたか」

「まあ、日差しが嫌いって言ったくらいだからな。なぜ夜が好きなんだ」

 正洋は、再びややこしい話が始まるかもしれないと思い、理由を聞いたことに少し後悔した。しかし、拓真の好きなように話をさせてやることで、先ほどまで言っていた不安が少しでも和らぐかもしれないとも思い、大いに協力しようと考えた。

「昼間って、色んなものが動き回ってる時間だろ。俺らは学校へ行くし、大人は仕事へ行く。街には賑やかさがある。レストランも、図書館も、スーパーも、全部開いてるからな」

「要するに、世の中のほとんどは昼間に活動してるってことか」

「おお、いいまとめ方だ。ありがとう」

「その、昼間に活動してることの何がいけないんだ」

「みーんな動き回ってるからなあ。俺も同じように、活発に何かをやらなきゃいけないような気がするんだ。何だろうな、急かされている感じというか」

 雨の話とは違い、この話は正洋にも理解できた。もっとも、彼は拓真が言う「何かをやらなきゃいけない」という感覚を覚えたことはなかったが。

「なるほど。自分が昼間の活発な感じについていけないような気がすると、劣等感を覚えてしまうとか、そういうことか」

「まさにその通りだ。お前も昼が嫌いか」

「いや、そういうわけじゃない。昼が嫌いだとか好きだとか、考えたこともないよ」

「そうか」

 拓真は笑みを含みつつ、やや残念そうな顔をした。そして再び話し始めた。

「その点、夜は世の中のほとんどが活動をやめるだろう。すると、急かされている感じがなくなる。時間の流れ方がゆるやかになるんだ。俺自身のペースで動き回れるようになった感じがして、過ごしやすい」

「なるほど」

「それに、さっき晴れが嫌いだと言ったが、暗闇はそれを隠してくれる。代わりに綺麗な星を出現させるんだ。俺にとっちゃ夜はいいことずくめだ。まあ、雨が最も望ましいけどね」

 正洋は拓真の勢いに押されつつ、会話をつなげた。

「雨が降る夜か。確かに、言われてみれば何にも邪魔されず物事に取り組めそうだな」

「おお、分かってくれるか」

「想像してみると、暗闇と雨がカーテンのように自分を包んでくれる気がする」

「いいこと言うじゃないか」

「お前、普段から色々と考えてるんだな。俺なんかいつもぼんやりしてるから、尊敬しちゃうよ」

「むしろ、いたずらに好き嫌いが増えただけだから、下品なやつとして軽蔑されてもおかしくないんだけどな」

「ないものねだりなのかもしれない。俺はお前が羨ましくて仕方がない」

「そりゃどうも。俺は、お前の楽観的なところが羨ましいよ」

「嫌味か」

「そんなことはない。あれこれ気にしすぎず、勉強に集中したいもんだ」

「それなら、楽観的なのにのんびりと勉強してる俺は、得な性質を生かしきれてないことになるな」

「そこは個々人の状況ってものがある」

 二人は楽しく話し、さらに盛り上がりそうな勢いだったが、拓真は強引に話を終わらせた。

「本当に、今夜はお前に会えてよかったよ」

「改まってどうした」

「俺は感謝してるんだ。あのままお前に会うことなく外をうろついてたら、不安が増幅していただろうなと思う。話、聞いてくれてありがたかったよ」

「お役に立てたならよかったよ。俺でよければまたいつでも聞くよ」

「心強いことだ」

 拓真は、また泣いていた。

「お前、泣きすぎだよ」

「だって……」

 正洋が先ほどと同じように拓真の肩に腕をまわすと、拓真は正洋の腕に顔をうずめて泣き始めた。まるで子供のように思い切り泣く様子は、相当溜め込んでいたものがあったのだなと正洋に想像させた。彼は背中を優しくなでてやり、拓真がすべて吐き出すのを待った。

 しばらくして泣き止むと、拓真は一言発した。

「みっともないところ見せちゃったな」

「いいんだよ。たまには吐き出さないと」

「お前、本当に寛容なやつだな」

 拓真がまたも目を潤ませたので、正洋は笑いながら肩をたたいた。

「おいおい。また泣かれちゃさすがに困るぜ」

「すまん」

 話すたびに同じことを繰り返しそうなので、気分を変えるために正洋は提案した。

「ずっとここにいるのもあれだから、温かいコーヒーでも飲もう。ご馳走する」

「コーヒーか。明日も学校があるのに、今夜眠れなくなって遅刻したら困る」

「この野郎、人の親切を踏みにじる気か」

「わはは、冗談だよ。しかし、ご馳走になるわけにはいかないな。相談までのってもらって、コーヒーまで頂くんじゃ虫がよすぎる」

「お前は、そういう律儀すぎるところがいけない」

「借りを作るのは嫌なんだ」

「好き嫌いが本当に激しいんだな」

「悪かったね」

 二人は、それまでもたれかかっていた橋の欄干から背を離し、最も近いコンビニに向かって歩き始めた。夜明け前ともいえるし、まだ真夜中ともいえる時間であった。

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夜長の分水嶺 萩谷章 @hagiyaakira

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