エピローグ / ※※※ 注釈と参考文献 ※※※

『黄金の十字架が南と北の空に輝く時、海に眠る愛と富が目覚めるであろう』

剣山の石板にはそのように解釈できる漢字の古代文字が刻まれていたのである。

マナティはその意味を一生懸命解読しようと試みた。

「黄金の十字架が南と北に輝くとはいったいどう言う意味? その場所とはいったいどこなんだろうか?」

「マナティ、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のこと知ってる? 天の川の北と南の両端に輝く北十字星と南十字星のことが書いてあるはずだけど。それのことじゃない? 主人公のジョバンニが銀河ステーション辺りから乗車して友人のカムパネルラと共にはくちょう座の北十字星を通って天の川のもう一方の端のサザンクロスつまり南十字星まで旅するのよ。」

車の助手席から身を乗り出してミオが答えた。

「はくちょう座の北十字星って僕はあまり知らなかったけど、そういうことか、はくちょう座は日本本土ではよく見えるけど、沖縄や小笠原辺りが限界で、南半球に行くと観ることが出来ない。逆に南十字星は日本じゃ沖縄や小笠原辺りでしか見えないよね。それもできるだけ南端の沖縄なら八重山諸島辺り、小笠原なら硫黄島辺りでないとよく見えない。硫黄島辺りの海は周りに何にもないから『ソロモン王の黄金の十字架』が眠るとは考えにくいよね。つまり、日本なら沖縄以南の八重山諸島近海ということだろうか。」

「私、以前に沖縄の友人に聞いたことがあるけど、はくちょう座とみなみじゅうじ座の両方が見える時期があるらしいよ。どちらも天の川に浮かんで見えるけど、地球を含む太陽系は天の川銀河の中にあるから、地球から見た天の川はぐるっと円を描いているわ。『銀河鉄道の夜』を読んだ時に天の川の端はどうなっているんだろうと不思議に思って調べてみたことがあるの。だから、北十字と南十字の両方が見える場所や時期があっても不思議じゃないと思う。沖縄辺りの赤道に近い低緯度地方だと水平線近くに天の川がぐるりと横たわっていて、北東の空には北十字が、南の空には南十字が一緒に見えるんだって。」

「なるほどね。じゃあやっぱり沖縄に間違いないな。ミオ、早速沖縄行きの計画を立てようよ。」

「そうね。私も行きたいけど、今は病院が忙しいし、マナティ行ってらっしゃい。」

「ミオ、何てこと言うんだい。今度ばかりはミオと一緒じゃないとダメなんだ。君の休みが取れる時まで待つよ。」

「どうしたの? マナティ。」

「いやあ、君との共同作業にしたいんだよ。」

すると、見る見るうちにミオの顔がくしゃくしゃになって、彼女の目から大粒の涙が溢れた。

「マナティの馬鹿。化粧がもう台無しじゃない。」



皆さんは『はいむるぶし』という言葉をご存知だろうか? これは沖縄地方に伝わるいわゆる南十字星の呼び名で、『南(はい)群(むる)星(ぶし)』と記述される。なぜ、『南』を『はい』と読むのだろうか? 小出氏の説では、『はい=はえ』で、古事記などにも記されたイザナギに海原を治めよと命じられたスサノオらを海神(わだつみ)とすると、その悪評を煩くて汚いものにも集る『蠅(はえ)』や人や動物の血を吸って生きる『蛭(ひる)』に例えて表現したのだとされる。古事記には『蠅伊呂泥』『蠅伊呂杼』という女性の名が登場するのだが、何故そのような名を付けたのだろうか? 神武天皇の后となられる『富登(ほと)多多良伊須須岐比賣命』にも、一見恥じてしまうような女陰にあたる『ほと』という名が用いられている。そして、八重事代主神に由来するとも考えられる八重山諸島の『八重』は『はえ』とも読むことができ、沖縄地方に自生するマングローブを蛭木(ヒルギ)と呼ぶのである。つまり、交易を担った海神はある面では忌み嫌われ海賊としても恐れられたのかも知れない。しかし、彼らが残した愛と富は世界の発展に大きく寄与したのである。美醜や善悪とは表裏一体のものであるが、それは光と影のようなもので光の当たる方角や視点で大きく変わって来るし、真実は少なからず表面から隠されているということを我々は学ばなければならない。

ユダヤはユダヤ戦争で徹底抗戦しローマ帝国軍に壊滅的敗北を喫した。同様に日本も太平洋戦争で徹底抗戦し米国率いる連合軍に壊滅的敗北を喫した。そして、ミッドウェー海戦に続いて太平洋戦争敗戦のターニングポイントとなったガダルカナル作戦の舞台は奇しくもソロモン王の名前に由来するソロモン諸島南部のガダルカナル島だったのである。ソロモン諸島国家の国旗は太平洋の海を表す青とそこに浮かぶ主要な五つの島を星として象り、豊かな自然を緑色で右下に配し、その境界に黄色く光る太陽で線引きしたものとなっているが、左上の五つの星は南十字星を表すともされている。特に南半球に位置する国々の国旗はこの南十字星をあしらったものが多い中で、ソロモン諸島国旗の星の配置は異彩を放っている。南十字星とは、縦長の十字架を象る4つの星と右下に位置する1つの星で構成される『みなみじゅうじ座』という16世紀末に考案された新しい星座で、ソロモン諸島以外の国旗はこの南十字星と同様縦長のいわゆるイエスキリストが掛けられた十字架を示している。ところが、ソロモン諸島の十字は北十字星とも呼ばれるはくちょう座の中核を成すデネブを始め5つの星で構成される正十字と酷似しており、そのままでは『X( エックスやバツ )』に見えるが、いずれも右に45°回転させると正十字となるのである。つまり、ソロモン王由来の正十字なのである。そして、みなみじゅうじ座の左にはギリシャ神話に登場する騎馬民族を暗示するとされる上半身が人で下半身が馬のケンタウロスをモチーフにした『ケンタウルス座』、その下の方にはキリスト教の祭壇と思しき『さいだん座』、また、みなみじゅうじ座の直下には前述の海神の悪評なる『はえ座』が輝く。

ソロモン諸島はパプア・ニューギニアの東に位置するが、その元となるアフリカ大陸では西の端にギニア、東の端にエチオピアがある。ニューギニアという地名は縮れ毛の住民をギニアの住民と類似しているとして命名されたようで、エチオピアはソロモン王とシバの女王の子孫が代々王家を継承したと伝わる。ソロモン王自身が南太平洋まで旅したとは思えないが、つまり、南太平洋にその足跡が刻まれたと言っても過言ではない。

我々は、何らかの見えない力で大いなる神の意思を受けて歴史を刻んできたといえないだろうか? そして、異端と言われたグノーシス主義で唱えられたように人間自らの中にもその神の分身が宿っていると言えないだろうか? 我々は大いなる神に感謝すると共に、誰もがその分身である自らの中の魂という内なる神に恥じないように自分に限らず周りの人々も含めその人権を尊重すると同時に誇りを以て切磋琢磨し、愛と富を以て周りに施しを行い、人生を楽しんでみてはいかがだろうか。



「いや待てよ、『ソロモン王の黄金の十字架』とは空に黄金(こがね)色に輝くはくちょう座の北十字のこと?」

ふと、マナティが呟いた。

「そうかも知れないね。もし、本当に海の底に黄金の十字架が眠っているとしても石板のヒントだけでは探しようがないものね。」

二人は日本最南端の有人島として知られる波照間島に居た。ここからなら6月の夜空の水平線近くに天の川が横たわり、その両端に浮かぶ南十字星とはくちょう座の北十字星を同時に観ることができる。そして、これらの二つの十字は地球の回転運動と共に北極星を軸にグルグルと巡るのである。それはホルスとハトホルの愛を育む風の流れ、セベクとネイトの富を育む水の流れとなって・・・。

『天空の川に浮かぶイエスキリストの長十字とソロモン王の正十字が巡り巡って出会うとき、煌めく川の流れが大いなる海に注がれ、深い海に眠る愛と富が目覚める・・・それは宇宙と地球が育んだ大自然のエネルギー』

ミオは潮風に髪をなびかせて、マナティと二人で水平線に沈む夕日に照らされながら浜辺に打ち寄せる波をじっと見つめていた。いつの間にか辺りも暗くなり夜のとばりが降りる頃、天空の川に浮かぶ二つの十字架が輝き出していた。そして二人は抱き合って熱いキスを交わした。


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※※※ 注釈と参考文献 ※※※

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※1 旧約聖書

旧約聖書は、千年くらいの間に多くの人の手によってヘブライ語やアラム語などで書かれた文書をまとめたもので、ユダヤ教およびキリスト教の正典となっている。教派によって多少の違いはあるものの、概ね、モーセ五書と呼ばれる創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の5巻、歴史書にあたるヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記ⅠⅡ・列王記ⅠⅡなどの12巻、詩歌書にあたるヨブ記・詩編などの6巻、預言書にあたるイザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書・ダニエル書およびその他の小預言書を含む16巻の合計39巻で構成される。



※2 イエスキリスト誕生より千年も前に存在したという十字架に関する年代的矛盾

旧約聖書列王記には、ソロモン王がエジプトのファラオの娘を妃に迎え入れ、彼女のためにレバノン杉をふんだんに使った豪華な宮殿を建て、そこに大小500個の金の盾を置いたと記されている。

また、新約聖書に収められている『マタイによる福音書』第1章第20-21節には、次のような記述が見える。

『主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。』

ここに登場するヨセフが旧約聖書創世記に記されたユダヤ民族の祖とされるヤコブの子ヨセフと同一人物だとすれば、ヤコブ=ダビデ、ヨセフ=ソロモンと言うことになる。ヨセフはエジプトに行き、成功を収め統治者となるが、ソロモンもエジプトのファラオの娘を妃に迎えるので共通点が見え隠れしている。もしそうだとすれば、ヨセフの子エフライムとマナセのいずれかがイエスキリストということになる。ソロモンの子にレハブアムという人がいて、ユダ王国の王となったとされているが、ヨセフの子マナセもユダ王国の王になったとされておりここにも共通点がある。つまり、マナセ=レハブアムではないかという仮説が成り立つ。ただし、旧約聖書創世記48章にはエフライムは弟と明記されているがマナセは長子としか記されておらず女性であった可能性も否定できない。また、ヨセフの父ヤコブはマナセが大いなる者となると言ったが、エフライムはさらにマナセより大いなる者となりその子孫は多くの民となると二人を祝福して言ったと記されている。そして、イエスキリストの父もヨセフという名で祖父もヤコブという名であったことから、エフライムがイエスキリストのモデルになったのかも知れない。しかしながら、ソロモン王は紀元前10世紀頃の人で、イエスキリストはご存じの通り西暦元年頃の人なので、その推論にはどうしても年代的な矛盾が残る。この矛盾を解くカギは暗示表現技術ペシェル( ※11 )にあると筆者は考える。



※3 ハトホル神殿

エジプトナイル川の中流に位置するデンデラ神殿複合体の構成遺跡であるハトホル神殿に祀られているハトホル神は太陽神ラーの娘で太陽と雌牛の角を頭上に配した女神として描かれ、ホルス神の母神や配偶神とされる。デンデラのハトホル神殿からエドフのホルス神殿までナイル川を遡って行われる祭事は有名である。ハトホル神殿の第一列柱室の高い天井には月の満ち欠けとそれを象徴するホルスの目、太陽の運行を示す太陽の船などが色鮮やかに描かれている。また奥の礼拝堂の天井には黄道十二宮を含む天体図が描かれ、地下室にはデンデラの電球で有名な蓮の花の中にヘビを孕むとされる不思議なレリーフもあり、古代エジプトの宇宙的神秘的な文明の一面を窺わせる。そして、神殿裏側はプトレマイオス朝最後の女王クレオパトラ7世とその息子カエサリオンの外壁レリーフで覆われており、第二列柱室からそこに通じる外部通路の途中には土砂で埋められて乾いた井戸が残されている。



※4 コプト教会( コプト正教会 )

コプト正教会は、『マルコによる福音書』( 紀元1世紀頃に成立したとされ、新約聖書のマタイによる福音書の次におさめられている )の著者とされる福音記者マルコがアレクサンドリアに建てた教会がその起源とされる。西暦5世紀中頃に行われたカルケドン公会議で、『両性説』( キリストは神性と人性という二つの本性を持つという説 )を支持する立場の現在のキリスト教多数派であるカルケドン派に対して、『合性説( 論 )』( キリストは神性と人性は合一して一つの本性になるという説』を唱え、非カルケドン派として袂を分かつことになった。その後西暦7世紀になるとエジプトがササン朝以降のペルシア帝国に支配され教会や修道院が焼き討ちに遭いイスラム教への改宗政策が行われたようだが、イギリスの支配下の時期を経て宗教が自由化されたため、現在は少数派ではあるが、エジプトの人口の約1割近くがコプト正教会の信者となっている。そして、コプト教会のシンボルであるコプト十字は、イエスキリストが架けられた十字架のように縦長の十字ではなく、縦横同じ長さの正十字で丸い円の中に納まる十字シンボルも見受けられる。



※5 聖人パコミオス

ウィキペディアの情報によると、聖人パコミオスは、エジプトのタベンニシに西暦318年から323年の間に最初の修道院を設立しナイル川中流域の町には、昔、原始キリスト教の修道院が多数建設され、ヨーロッパの修道院の原型になったようである。そして、コプト正教会では昔からのエジプト言語をギリシャ文字に合わせたコプト文字を使用したコプト語が主に使われ、原始キリスト教の起源にも関わっているらしい。近くにもその痕跡を残す遺跡が多数あり、幾つかの修道院が今も営まれている。パコミオスという名は鷹や鷲、引いてはホルス神の象徴でもあるハヤブサに由来するとされている。



※6 ナグ・ハマディ文書

この文書はパレスチナの死海沿岸で発見された死海文書と共に原始キリスト教当時の状況を伝える貴重な資料で、本革の装丁にコプト語で綴られたパピルス文書が見つかり、現在はカイロのコプト博物館に収蔵されている。その中には、キリスト教主流派から最も異端扱いされたグノーシス主義に関する資料を多く含み、その抽象的で難解な神話は、人間の本質は「至高神」の一部であり、本来的自己( 霊 )と「至高神」の両方を神とし、人間の本来的自己の居場所が間違っているのでそれを正す必要があると説く。そして、その中に収められている『ヨハネのアポクリュフォン( アポクリュフォンとは黙示録とも訳される )』の著者が新約聖書の巻末に収められているあの預言書『ヨハネの黙示録』の著者と同一人物であるとしたら、不思議な縁で繋がることになるのである。

ウィキペディアからの抜粋を引用して以下にその内容に関する補足説明を追記する。

ナグ・ハマディ写本は、農夫ムハマンド・アリー・アッサーマンが偶然土中から掘り出したことで発見された。発見時、文書は壷におさめられ、羊の皮でカバーされたコーデックス( 冊子状の写本 )の状態であった。写本は全部で12冊の写本と8枚の断片で構成されている。写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。ナグ・ハマディ写本研究の第一人者ジェームズ・M・ロビンソン による『英訳ナグ・ハマディ文書』の解説によると、本写本はエジプトの修道士パコミオスがはじめた修道士共同体( 後世の修道院に相当する )に所蔵されていたのかもしれないという。写本はコプト語で書かれているが、ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。



※7 イエスキリスト生誕の地

イエスキリストの生誕の地は、エルサレムの10km程南に位置するベツレヘムという町と新約聖書には記されている。



※8 コプト博物館

コプト博物館の収蔵・展示内容について、ウィキペディアの抜粋引用を補足して以下に示す。

博物館には、エジプト・コプト時代( 古代エジプト文明にユダヤ教と古代ギリシャ文明が融合し原始キリスト教が生まれた頃以降を指すと思われる )から西暦1000年頃までのコプト美術に関するものなど、およそ1万6000点が収蔵されており、そのうち1200点が公開されている。1945年12月に上エジプト ケナ県のナグ・ハマディ付近で発見されたナグ・ハマディ パピルス古写本を始め、エジプト、ギリシャ、ローマ、ビザンティンからイスラムにおよぶ文化的融合が提示されている。



※9 死海文書

死海文書はイスラエル博物館敷地内にある聖書館の他に、ヨルダン国立博物館にも断片や銅板に文字を彫り込んだ巻物などが所蔵されている。

死海文書の概要についてウィキペディア他と参考図書からの抜粋引用を補足して以下に示す。

1947年以降死海の北西( ヨルダン川西岸地区 )にあるクムラン洞窟などで発見された972の写本群の総称であるが、この他に既に20世紀初頭にエジプトカイロで発見されていた規律などに関するダマスコ文書もクムラン洞窟で発見された文書と同一のものが含まれているため一般的には死海文書の一つとしてみなされている。死海文書は主にヘブライ語聖書( 旧約聖書 )と聖書関連の文書からなっており、最古の聖書関連文書とされている。クムラン遺跡の十一の洞窟から発見され、以下のような種類の文書が含まれている。

①聖書文書、②旧約聖書外典、③旧約聖書偽典、④聖書本文の改作・敷衍、⑤聖書注解、⑥ハラハー文書、⑦賛歌と典礼、⑧終末論的著作、⑨知恵文学、⑩私的書簡、法的文書、契約書、⑪その他

なお、⑪には、第十一洞窟から発見された主要巻物で最も長文の『神殿の巻物』や、ヨルダン国立博物館に所蔵されている第3洞窟から発見された銅板に文字を彫り込んだ巻物が含まれる。この銅板に記された内容は宗教的なものとは異なり財宝の隠し場所に関するもので、日経ナショナル ジオグラフィック社から発行された『絶対に見られない世界の秘宝99 ダニエル・スミス著 小野智子、片山美佳子訳』によれば 死海文書が作られる800年程前に使われていた文字で記されているらしい。したがって、この資料に記されている内容は紀元前10世紀頃から伝わる情報かも知れない。内容は64か所の財宝の在処と目録で、最後の一つは『コーリットの渇いた井戸の中に・・・この文書の写しと解説がある・・・そしてそれぞれの場所にある全ての物の目録がある』と記されているようだ。


また、死海文書発見の経緯などについて『死海文書の謎を解く ロバート・フェザー著 池田裕監訳 匝瑳玲子訳』の抜粋を引用して以下に紹介する。

死海文書の最初の巻物が発見されたときのことに関しては相矛盾する諸説が伝わっているが、確実にわかっているのは、1947年初頭にアラブ系遊牧民ベドウィンによって発見されたということである。最初の七つの主要巻物には、旧約聖書のイザヤ書を記した大小ふたつの写本、戦いの巻物、クムラン·エッセネ派( ユダヤ教宗派は、クムラン宗団に代表される修道院の前身となった禁欲的共同生活を基盤としたエッセネ派の他に、ソロモン王の頃からの政治的活動主体の神殿に仕えたサドカイ派、律法を重視した庶民派のパリサイ派の主に3つの宗派に分けられる。 )の共同体憲章、ハバクク書註解、外典創世記、感謝の詩編 が記されており、ムハンマド·エディープとその弟によって、のちに第一洞窟と名づけられることになった場所で発見された。それらの巻物は、その後、非常に不思議な経緯を経て、1967年までにイスラエル国家の前に差し出されることになった。ベドウィンが発見した巻物のうち3巻は、さまざまな仲介者を経て西エルサレムにあるヘプライ大学のELスケーニク教授の手に渡ったのだが、それはまさしく国連がイスラエル国家再建の決議をおこなった1947年十一月二十九日のことだったのである。失われた文書の最初の「宝」が、埃つぼい洞窟でのほぼ二千年にわたる長い眠りからさめ、ふたたびユダヤ人の手に戻ったのだ。

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1948年から49年にかけてのイスラエル独立戦争( 第一次中東戦争 )のあとは、ヨルダン·ハーシム王国の一部になった。1949年から67年にかけて、ヨルダン政府古物管理局の監督のもと、エルサレムのドミニコ修道会フランス聖書学考古学研究所所長ローラン·ド·ヴォー神父率いるベドウィンと考古学者グループによって発掘がおこなわれ、他の十の洞窟からも現在ではよく知られている内容物が発見されることになった。

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歴史家の間では、クムランの死海文書は紀元前350年から紀元後68年の間に執筆あるいは転写された、という点で意見の一致を見ている。その根拠となるのが、関連する人工遺物の考古学的研究、古代の書体の比較研究、そして放射性炭素年代測定法( 炭素十四法 )や加速器質量分析( AMS法 )による科学分析の結果である。



※10 ロゼッタストーン

ロゼッタストーンは、1799年7月にエジプトに遠征していたナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍一行によって、エジプトのアレクサンドリアから65km程東に位置する都市ロゼッタ( アラビア語でラシード )のナイル川河口の三角州の瓦礫の中から発見された。

ロゼッタストーンの発見を契機に、エジプトでも読み方が忘れられてから千五百年もの間謎に包まれていたヒエログリフの解読の道が開けた。しかし、解読に至るまでにはさらに紆余曲折があったようで、本書におけるその経緯に関する記述は、イギリスの物理学者トマス・ヤングと、『エジプト学の父』と呼ばれるようになったフランスの学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンという二人の天才の解読レースに焦点を当てたノンフィクション『ヒエログリフを解け エドワード・ドルニック著 杉田七重訳』を参考にしている。



※11 ペシェル

ペシェルとは死海文書に含まれるクムラン教団独特の旧約聖書に関する注釈のことで『註解』、『注解』、『釈義』などと訳される。死海文書にはこのハバクク書のペシェルの他に、ミカ書、ゼファニヤ書、イザヤ書、ホセア書、ナホム書、創世記や詩篇などのペシェルが含まれている。その中でも最初に発見された七つの巻物の一つであるハバクク書のペシェルはイスラエル博物館とグーグル社の共同プロジェクトによりネット上に文書画像が公開されている。

このハバクク書を例に取りペシェルに関する仮説を提示している書物『イエスのミステリー ~死海文書で謎を解く~ バーバラ・スィーリング著 高尾利数訳』の抜粋を引用して死海文書を読み解くための『ペシェル』という技術を以下に紹介する。

死海文書のあるグループの中には、ペシェルという言葉が見出されるが、それはわれわれに決定的な糸口を与えてくれる。つまり、AD1世紀に聖なる書物と見なされた文書に、われわれが新しく接近する可能性を与えてくれるのだ。そのシステムの機能は次のようなものである。死海文書の著者は、BC600年の諸事件を取り扱っている小預言者ハバククが書いたハバクク書のような旧約聖書の書物を取りあげる。それは、バビロニア軍が、恐怖を巻き起こしながらエルサレムに向かって進軍していた年である。著者は一節一節と進んでいき、それぞれの節を引用した後に、「そのペシェルは·····」と書き加え、そしてそれは実は彼自身の時代の事件なのだと説明する。パビロニア人は、キッティームと表現されており、それはローマ軍を意味する。今現在あるローマ軍団が、恐怖を巻き起こしながら国土を進軍しつつある。他の諸節は『義の教師』を指しているのであり、また『悪しき祭司』『偽り者』との彼の苦闘を指しているというのだ。

『彼らは恐ろしく、すさまじい。その裁きと支配が彼ら自身から出る。( ハパクク一:七 )

そのペシェルは、全ての国民に恐れ( とおののき )を呼び起こすキッティーム( ローマ軍 )にかかわる。彼らの全ての悪しき企みは意図的になされ、彼らはすべての国民を狡猾かつ陰険なやり方で取り扱う。』

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簡単にいえば、ペシェルは謎解きのようなものである。荒っぽい比喩を用いるならば、暗号を用いたクロスワードの謎を解くようなものである。手掛かりは意昧を成さないもののように見えるが、技術を知っており必要な知識を持っている者は、謎を解くことができるということなのだ。


このペシェル表現技術が旧約聖書等で使われているというスィーリング氏の指摘を支持した場合、さらにローマ帝国配下のヘロデ王政権に迫害され十字架刑に架けられたイエスキリストに象徴されるエッセネ派等の多くの禁欲的修道生活者の苦難の時代と、イスラエルの栄華を極めたダビデ王・ソロモン王時代を重ね合わせて記すことで、ユダヤ戦争でローマに壊滅的な敗北を喫したユダヤ民族に希望を与え鼓舞しているのではないだろうかと筆者は捉える。即ちダビデの子と記されたイエスキリストは文字通りに捉えるとソロモン王に他ならない。クムランの第3洞窟から発見された財宝の隠し場所を記した銅製の巻物はクムランの他の死海文書が作られる800年程前に使われていた文字で記されているらしく、ちょうどソロモン王の時代と重なってくるのである。

このペシェル表現技術を用いることで表面的記述と暗示的記述、異なる時代同士の事象記述、一般的記述と専門的記述など、読み手の知識レベルによって伝わる内容が替わるように一つの文章に複数の内容を重ね合わせて表現することが可能となる。

なお、余談ではあるが、筆者はこのペシェルに相当する暗示表現技術が次に示す例のように日本の古事記や日本書紀などにも使用されていると考えている。

『イザナギとイザナミによる国生み・神生み神話と神武天皇記における暗示表現は、天孫族が日本列島に辿り着き弥生文化を根付かせ倭国を建国する時代と、倭国を全国に拡大し大和の国造りを推し進める時代が重ね合わされて記述されていると解釈する』

『出雲神話における暗示表現として、スサノオのヤマタノオロチ退治と、オオクニヌシノミコトの苦労話は、オロチに准えた「モンスターのような困難を極めたたたら製鉄製法」の技術の壁を乗り越えて良質な鉄剣が作れるようになったことと、たたら製鉄における貝のカルシウム追加で玉鋼の純度改善効果が得られたことなどを記述していると解釈する』



※12 ユダヤ史とエジプト史に隠された真実に迫る仮説と検証

このような表現形態は日本の歴史書である古事記上巻の神話と、中下巻の天皇記が一見直列的に表現されているように見えるにも関わらず実際には天皇の歴史を並列的に上巻神話で象徴的に表現しているという説もあり、筆者はそれを支持する。そして、旧約聖書の創世記神話でも同様に時空を越えて象徴的にイスラエルの歴史とそれに関わるエジプトでの出来事を表現することでユダヤ史とエジプト史を分離することに成功したのではないだろうか。これは取りも直さず日ユ同祖論を裏付ける有力な根拠の一つとなり得るものと考える。


旧約聖書創世記には、イスラエルの祖とされるヤコブとその息子にヨセフという人物が登場する。ヨセフは兄弟たちに迫害されて奴隷として売り飛ばされ、彷徨った末にエジプトでパロ( ファラオに相当 )に仕える廷臣の侍従長ポティファルに買い取られパロに事あるごとに的確な助言を与えて寵愛されパロ以上の地位に上り詰める。このヨセフはエジプトの祭司ポティフェラ( 前述のパロの廷臣の侍従長もポティファルという類似する名だが解読の混乱を誘発するための記述と捉え別人と判断 )の娘アスナス( アセナトとも伝わる )を嫁にもらい二人の子が生まれ、死後ミイラとして埋葬される。二人の子の名は長子マナセと弟エフライムと記されているが長子とは先に生まれた子を指し性別は問わないためマナセが女性であった可能性も十分考えられる。

一方、旧約聖書列王記には、古代イスラエルのダビデ王とその息子で跡を継いだソロモン王の時代に栄華を誇ったことが記されている。そして、ソロモン王はエジプトのパロ( ファラオに相当するがファラオと同等以上の地位を獲得した神官が並立した時代では神殿のヒエログリフにその名を遺した祭司もパロと同義とされたことが窺える )の娘を娶ったと記されている。

そこで、ヨセフ=ソロモンとすると、エチオピアの歴代王として君臨したソロモン王の子孫とされるソロモン朝の歴史や、エジプト南部やエチオピア辺りの女王とされるシバの女王の伝承などから、ギリシャ神話に登場するエチオピア王の后カシオペアをシバの女王とし、その娘アンドロメダをマナセと同一人物としても矛盾は無くなる。さらに、エパポス=ホルス=ヨセフ=ソロモンと仮定すると、娶った娘はイーオー=ハトホル≒イシス=ネイトの娘メンフィス( 別名カシオペア )と考えることができ、前述の通りソロモンはメンフィスを介してハトホルの義理の息子となる。つまり、エパポス=ホルス=ソロモン=ヨセフがイーオー=ハトホル≒イシス=ネイトの娘メンフィス=カシオペア=シバの女王=アスナスと結婚し、アンドロメダ=マナセを生んだと捉えることができる。


さて、もう一度旧約聖書全般を見渡してみると、登場する人物で、エジプトとこれほど関わりを持った人物は、出エジプト記のモーセを除くと、創世記のヨセフやその父ヤコブ、列王記のソロモン王以外にはこれといって見当たらない。ところが、創世記にはヤコブの祖父のアブラハムがエジプトに留まったことがさりげなく記されている。もしも、このアブラハムの時代がヒクソスと呼ばれた異民族による最初のエジプト支配を意味しているとすると、その後の紀元前1500年頃にイアフメス1世が異民族支配を一掃してエジプト第18王朝を打ち立て新王国時代を切り開き、ユダヤ民族を迫害して酷使したとすれば、その時期とモーセの出エジプトの時期が重なって見えて来る。

そして、新王国第19王朝の全盛期を成したラムセス2世の時代に建造された世界遺産にも登録されているアブ・シンベル神殿は、エジプト初の本格的な神殿遺跡であり、ヒクソス支配を退け黄金期を迎えたとは言え、ピラミッド遺跡から神殿遺跡に変遷したのにはこの異民族ヒクソスの支配を経たことが一因となっていると考えられないだろうか。なお、ラムセス2世の時代に建造されたと伝わるカルナック神殿複合体の羊頭のスフィンクスが並ぶ参道は、牡羊に象徴されるユダヤ民族を従えたことを物語っているのかも知れない。

しかし、エジプト人による栄華を誇った新王国時代も徐々に衰退して行き、第20王朝のラムセス11世で終わりを告げることになる。その後は、第3中間期の上エジプトのテーベを中心としたアメン神官団と呼ばれるファラオの権力を凌ぐ神官が権力を持った大司祭国家と第21王朝の並立する時代となり、その時期は紀元前1000年頃で、ソロモン王の紀元前970年頃の治世と概ね一致する。この時代の著名な神官として、大司祭パネジェム1世が浮かび上がる。そして、前述のヨセフに娘を嫁がせた祭司ポティフェラがこの大司祭パネジェム1世だと仮定すると、下エジプトのファラオの権威が及ばない上エジプトテーベを中心にファラオと同等以上の地位を有していたと考えられ、ソロモン王がパロ( ファラオに相当 )の娘を娶ったという列王記の記述と、ヨセフの結婚が重なって見えて来る。なお、パネジェム1世には3人の兄弟と1人の姉妹がいたとされ、妻はドウアトハトホルというこれもまたハトホルと類似する名の女性で、娘の名はムトネジェメトとされている。カルナック神殿複合体のアメン大神殿にはこのパネジェム1世の巨大な彫像が立っているらしい。

ここで、殺害された冥界の王オシリスが冥界とのパイプ役でもある神官の長である前述のアメン大司祭パネジェム1世で、ラーの娘とされるハトホルがラー神の名を継ぐラムセス11世の娘ドウアトハトホルとすると、ヨセフやソロモン王の話と合致して違和感は無くなる。なお、オシリスを殺害したとされるセトに相当する人物はアメン神官団の中での権力闘争などがあった節があるので、このパネジェム1世の兄弟にあたるかも知れないが詳しい情報が無いため不明である。


今度は、ダビデ王とヤコブについてエジプト史との関わりを探ってみよう。

ソロモン王の父親とされるダビデ王は、奴隷として売られたヨセフの父ヤコブに比定した関係上エジプトのラー神とは別人と考えられるが、ダビデとヤコブは羊飼いで身を立て、いずれも多妻の子沢山で知られており、ギリシャ神話のゼウスと共通しているため、ここではゼウス=ダビデ=ヤコブと仮定する。そして、アメン大司祭国家と並立していたエジプト第三中間期の第21王朝( タニス朝 )のスメンデス1世もネスバネブジェドと言い、『ジェデドの主の牡羊」を意味するとされているので、羊飼いだったダビデやヤコブと重なって来る。創世記には晩年にエジプトに呼び寄せられたヨセフの父ヤコブも死後ヨセフの計らいでミイラとして埋葬されると記されており、ファラオと同等の扱いを受けたとすればこの第21王朝の初代ファラオ スメンデス1世がイスラエルを建国したダビデ王に比定したヤコブに相当するのではないかと考えられる。

ところで、エジプトの三大黄金マスクをご存知だろうか?一つは新王国第18王朝の彼の有名なツタンカーメンのマスクだが、あとの二つは、この第21王朝( タニス朝 )という必ずしもエジプト黄金期とは言えない時期でもあり意外と知られていないが、前述のスメンデス1世から一代挟んだ第3代ファラオのプスセンネス1世( 在位紀元前1039年~前991年 )とその子のアメンエムオペト( 在位紀元前991年~前984年 )のマスクである。タニス朝と言えば、第二中間期のヒクソス支配の拠点アヴァリスにも近く、ナイル川下流のデルタ地帯の東部に位置する。そこで、イスラエルの最も栄華を極めたソロモン王をプスセンネス1世という黄金マスクの持主と仮定し、スメンデス1世とプスセンネス1世とアメンエムオペトがそれぞれダビデ王=ヤコブとソロモン王=ヨセフとその子レハブアムに該当した場合の年代を推定し、古代エジプト史と古代ユダヤ史および旧約聖書創世記などの神代に跨って、以下に示す年表の出来事( A~W )を確認しながら仮説の整合性を検証してみたい。


【エジプト史とユダヤ史の仮説と検証年表】

 仮説:

 スメンデス1世=ヤコブ=ダビデ

 プスセンネス1世=ヨセフ=ソロモン


◆前1168年頃ヤコブ誕生( 創世記 ) A


★前1101年頃ヨセフ誕生( 創世記 ) B

◆前1100年頃ダビデ誕生 C


▲前1070年パネジェム1世即位 D

◆前1070年頃スメンデス1世即位 E

★前1071年頃ソロモン誕生 F


★前1050年頃ヨセフエジプト入り G

★前1048年頃ヨセフファラオの夢解く H

★前1045年頃メンケペルラー即位 I

◆前1043年頃スメンデス1世退位 J

◇前1040年ダビデ誕生 K

★前1039年頃プスセンネス1世即位 L

◆前1038年頃130歳ヤコブエジプト入り M

▲前1032年頃パネジェム1世退位 N

◆前1021年頃147歳ヤコブ死去 O

☆前1011年ソロモン誕生P

◇前1000年ダビデ王即位 Q

★前 992年頃メンケペルラー退位 R

★前 991年頃プスセンネス1世退位 S

★前 991年頃110歳ヨセフ死去 T


☆前 971年ソロモン王即位 U

◇前 961年ダビデ死去 V


☆前 931年ソロモン死去 W



※年表分類

▲:パネジェム1世エジプト史

◆:ヤコブエジプト史

◇:ダビデ王ユダヤ史

★:ヨセフエジプト史

☆:ソロモン王ユダヤ史



まず、旧約聖書創世記では、ヤコブはヨセフに呼び寄せられエジプトでファラオに謁見した時130歳( M )で、エジプトの肥沃なラムセスの地を与えられ17年間過ごし147歳( O )で亡くなったと記されている。一方、ヨセフはヤコブたちと羊の世話をしていた時17歳で、その後兄弟たちに迫害され奴隷として売り飛ばされるが、前述のエジプトのファラオに仕える廷臣の侍従長に買い取られ( G )、ファラオに召されて夢解きによる助言を行い( H )、それが国を救いファラオの寵愛を受け、祭司ポティフェラの娘アスナスを嫁にもらい二人の子が生まれ110歳で亡くなった( T )と記されている。

次に、ダビデ王は紀元前1040年に誕生( K )し、イスラエル王国を建国して前1000年に王として即位( Q )、前961年に79歳で亡くなった( V )とされている。一方、ソロモン王は紀元前1011年に誕生( P )し、前971年にダビデ王の跡を継いで王として即位( U )、前931年に80歳で亡くなった( W )とされている。

そして、祭司ポティフェラと同一人物と仮定したパネジェム1世は紀元前1070年頃に即位( D )し、前1032年頃に退位( N )、ダビデ王=ヤコブに比定したスメンデス1世もパネジェム1世と同様に紀元前1070年頃に即位( E )し、前1043年頃に退位( J )、ソロモン王=ヨセフに比定したプスセンネス1世は紀元前1039年頃に即位( L )し、前991年頃に退位( S )したとされている。


スメンデス1世をヤコブとした場合、その即位紀元前1070年とはパネジェム1世の即位と同じ年( DとE )なので、パネジェム1世に合わせたとすればその数値の確かさには疑問が残る。退位は紀元前1043年頃とされているが、ソロモン王の即位とダビデ王の死去が同時ではない( UとV )ので、退位年についても同様にダビデ王の死去紀元前961年から60年を減じた前1021年より前にスメンデス1世の退位年が来てもおかしくはない。しかし、いずれにしてもヤコブのファラオ即位の有無は亡くなった後にヨセフの計らいでミイラにしたとのみ記されているので定かではない。

そこで、まずプスセンネス1世をヨセフ=ソロモン王とした場合について検証してみる。まず、ソロモン王の死去紀元前931年( W )から60年を減じると、前991年となるが、この年は何とプスセンネス1世の退位( =死去と捉える )の年( S )と一致している。ユダヤ暦は中国や日本の太陰太陽暦に類するので、十二支と十干を組み合わせた六十干支にも通じる。日本では干支のことを十二支と呼ぶがこれはユダヤの12支族を暗示させ、陰陽五行説の火・水・木・金・土を兄と弟に分け10とした『十干』は『十のほし』とも読め、月と太陽と地球を除いた太陽系の五つの主要な惑星『星☆』に結びついた。中国では昔約12年で太陽の周りを一周する木星を基に天体の運行を観測して暦としていたようで、惑星の運行も昔から観測されていたことがわかる。したがって、古代イスラエルで60という周期を用いた可能性も窺え、イスラエルの王とエジプトのファラオを60年という数字で紐づけしたとしても不思議ではない。

その推論によるとソロモン王の即位紀元前971年( U )はエジプト史では前1031年になりプスセンネス1世即位( L )の前1039年の8年( U−60年とLの差 )後になるが、それはヨセフがエジプトで名を成して8年後にイスラエルの王も兼ねたとすれば辻褄が合う。また、タニスのプスセンネス1世とほぼ同時期に活動( IとR )したテーベのアメン大司祭メンケペルラーはプスセンネス1世の異母兄弟と伝わるが、いずれもパネジェム1世とドゥアトハトホルの子とされているのでパロへの預言による助言を与えたヨセフに象徴されソロモン王と同一人物かも知れない。そして、それはハトホルとイシスの子ホルスの神話が物語り、ソロモン王の支配が上エジプトにも及んでいたことを示していると考えられないだろうか。

また、ソロモン王の存命年数80年をプスセンネス1世の退位年( S )から減じると前1071年になり、それがエジプト史でのヨセフの誕生年となる。ヨセフがエジプト入りした時21歳頃とすると、その2年後にファラオに呼ばれて謁見し夢解きをしたのは23歳頃の時で前1048年頃( H )となる。そして、祭司の娘を嫁にもらって豊作の7年が過ぎ再びファラオの前に立った時30歳( 創世記41章 )とすれば、そこから2年後の前1039年にプスセンネス1世が即位( L )しているので辻褄が合う。そして、飢饉が襲ってきてヨセフがヤコブを呼び寄せ、前1038年頃( M )にヤコブがエジプト入りし、そこから17年後の前1021年頃に亡くなるとすれば、ヤコブの誕生年はその79年前の紀元前1100年頃となるが、ヤコブは147歳で死んだとされているので、創世記上は前1168年頃( A )となる。一方、ヨセフの創世記上の誕生年は、110歳で亡くなったとされているので前991年から110年を減じた前1101年頃( B )となる。


最後に、ユダヤ史の年代をもう少し広げて、モーセの出エジプトやソロモン王の治世について、『聖書考古学 長谷川修一著』の内容を踏まえて年代検証してみたい。

この書物には、列王記上6章1節に『ソロモンがエルサレム神殿の建築に着手したのがイスラエルの子らがエジプトの地を出てから480年目で、ソロモン王の治世4年目だった』ことと、出エジプト記12章40節に『イスラエルの子らがエジプトに住んだ年月は430年』だったということなどに着目して年代推定が行われており、本書でもそれらを参考にしている。

なお、旧約聖書創世記にはヤコブのことをイスラエルと記されている箇所が散見され、創世記35章10節に「君の名はもうヤコブと呼ばないでイスラエルと言いなさい」とヤハウェ神から言われたことが記されているため、ここでもイスラエルとはヤコブの意と捉える。また、48章5節にはヨセフの子マナセとエフライムを自分の子に欲しいと告げる記述があるのでマナセとエフライムの支族も含めイスラエルの12支族と捉える。

前述の『イスラエルの子らがエジプトの地を出てから480年目でソロモン王の治世4年目』という記述をエジプト史に当て嵌めて、プスセンネス1世即位紀元前1039年の4年後の前1035年から480年遡ると前1515年となる。つまり、モーセの出エジプトの時期が紀元前1515年と考えられる。出エジプト記にはユダヤ民族への圧政( 煉瓦造りなどの重労働を課した上に生まれたユダヤ男児をナイル川に投げ込むよう命じた )を敷いたエジプト王( トトメス1世と想定 )が亡くなった後にエジプト脱出の話が進み出し、トトメス1世の跡を継いだ病弱のトトメス2世の王妃ハトシェプストがモーセをナイル川で拾って育てたという伝承から出エジプトの時期はトトメス2世の治世( 紀元前1518年~1504年 )と想定でき、前述の推定値紀元前1515年と合致することがわかる。また、レハブアムのユダ王国統治は7年間だったが、アメンエムオペトの在位期間も7年間であり一致している。さらに、『イスラエルの子らがエジプトに住んだ年月は430年だった』という記述を同様に当て嵌めて、紀元前1039年から430年経った前609年を調べてみると、ソロモン王亡き後イスラエル王国が分裂して南のユダ王国がバビロン捕囚で崩壊する直前の王ヨシヤの退位年と一致するのがわかる。つまり、分裂後のユダ王国の時代もエジプト在住のユダヤ民族が居て、新バビロニアによる捕囚が要因で民族移動した時期とエジプトの圧政が要因で民族移動した出エジプトの時期を重ね合わせているように見える。出エジプト記の冒頭には、『ヨセフと彼の全ての兄弟、その世代の者は皆死んだ。しかし、イスラエルの子らは増え非常に多い数になり甚だしく強くなった。』と記されており、そのためエジプトのパロはユダヤの民を酷使して圧政を行うようになったようだ。つまり、出エジプトの時期をバビロン捕囚の時期と重ね合わせ、あたかもヨセフやソロモン王の時代の後に起きた事象であるかのように表現されているように見える。これもエジプト史とユダヤ史の分離に一役買っているのかも知れない。

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