病室にて

ハルら外科チームは、拳銃に被弾して頭部外傷を負い救急搬送された意識不明の患者を手当している真最中だった。出血はかなりあったものの幸い弾は患者の頭蓋骨を貫通することなく、脳へのダメージはほとんど無かったようだ。手術が終わり、数時間すれば麻酔も切れてやがて彼の意識も戻るだろう。

ハルは、眠っているアンディの横顔をそっと見つめ、自分たちに委ねられた彼の復活を心の底から喜んだ。

「この人も神に生かされたのね。」


気が付くとアンディは、東都基督教大学総合病院の外科病棟の一室でベッドに横たわっていた。手術は無事成功し、彼は何とか一命を取り留めたのだった。

まだ痛む頭で、彼は何故自分が狙われたのか考えてみた。

「男が叫んだ言葉は朦朧としていてはっきりとは記憶していないが、どうも『WELL』という単語が聞こえたような気がする。『WELL』とは『良い?』と言ったのか。では何故私を狙う。待てよ、『WELL』には『井戸』という意味もあるぞ。そうか『DO NOT GO NEAR THE WELL! その井戸に近づくな!』と言ったのかも知れない。井戸と言えば・・・。」

アンディはエジプトでの出来事から順を追って井戸に遭遇することが無かったか思い返してみた。

「コム・オンボ神殿、ホルス神殿、カルナック神殿、ルクソール神殿、デンデラ神殿・・・。ナイル川の水位測定のために造られたナイロメーターなる井戸はあちこちにあるが、それを除くと・・・、そうだ、コム・オンボ神殿とデンデラのハトホル神殿に井戸があったことを覚えている。このいずれかのことではないだろうか! コム・オンボ神殿の井戸は神殿入口正面中央に位置しているから神殿に入るために避けては通れない。そうなると、残りのハトホル神殿ということか。そう言えばエジプトのカイロ辺りから付けられていたような気がする。カイロに移動する直前に最後に調査したのはデンデラ遺跡だから、そのハトホル神殿の井戸を指しているのだろうか?しかし、この井戸に近づくなとはいったいどういうことだろう。確かあの井戸の中は既に埋められて水など無い乾いた井戸だったように思う。」


そんなことをあれこれ考えていると、看護師が容体を観に来てくれた。

「気が付かれましたね。安藤さん、具合はいかがですか?」

「いやあ、まだ少し頭が痛みますが、意識ははっきりしていますよ。」

「とんだことで、大変でしたね。でも、頭蓋骨は貫通していないので、脳などに後遺症が残ることはないと思いますが、後で先生が回診に来られますので、詳しくはその時にお聞きいただくのがいいかと思います。警察からご家族の方にも連絡が入っているはずなので、じきにおいでになると思いますよ。」

「本当に助かりました。ありがとうございます。」

「いいえ、私たちにできることをやっただけですよ。安藤さんのお世話は私、井川が担当させていただきますので、何か困ったことなどあったら、遠慮せずに言ってくださいね。」

「ありがとうございます。警察の事情聴取とかはどうなりますかね。」

「安藤さんの意識が戻られたことは警察にも伝えますから、数日中に面会させてほしいとの連絡があると思います。」



「警察の近藤です。まだ、お怪我が治っていない状況で事情聴取させていただくのは恐縮ですが、30分程お時間をいただけますか?」

「わかりました。大丈夫ですよ。」

「あなたが倒れたのを最初に発見されたのは、現場近くにお住いの方で、買い物帰りに血まみれになって倒れているあなたを発見して救急車を呼んで、警察にも連絡いただきました。拳銃を撃った犯人に見覚えはありませんか?」

「犯人は私の知らない男でしたが、私がエジプトで遺跡調査をした後、カイロ辺りからどうも私を付けていたように思われます。イスラエルの博物館も経由して日本に帰って来たのですが、空港や飛行機の中などで何度も似た男を見かけて身辺には注意を払っていたのですが、日本に帰ってきてやられるとは思いませんでした。」

「その男の特徴など教えてもらえませんか?」

「そうですね、背格好は身長180センチメートルくらいの中肉中背で浅黒く彫りの深い外国人風の男だったと思います。サングラスをしていたので顔の詳細はわかりませんが、口の周りに髭を生やしていました。歳は30歳代くらいですかね。」

「海外から追いかけて来たとしたら、外国籍の男の可能性が高いですね。何か狙われるような理由に心当たりはありませんか?」

「いやあ、よくわかりませんが、私がエジプトのデンデラ遺跡を調査した後くらいから追われていたような気がします。そう言えば、撃たれる前に英語で『井戸に近づくな』みたいなことを叫んでいたような気がします。」

「あと、あなたが撃たれる前に、目撃者とかは周りにいませんでしたか?」

「いや、その時は通りには誰もいなかったと思います。」

「そうですか、ありがとうございました。発見して通報してくださった方は緒方さんという方です。連絡先は署のほうで記録していますので、お礼などされるのでしたら、署まで連絡ください。犯人はすでに海外逃亡した可能性が高いですが、お聞きした内容を基に指名手配を掛けますので、ご安心ください。それと、一応、身辺警護のためにしばらくは病院巡回をさせていただくようにします。」

「ありがとうございます。お手数おかけしますが、よろしくお願いします。」



ハルとミオはシフトが合って昼食を共にした。

「ハルの担当している患者さん、安藤襄治って言う人じゃない?」

「個人情報なので他言しないようにしてほしいけど、そうよ。それがどうしたの?」

「その人エジプト考古学の権威で、超有名な人よ。」

「へえー、そうなんだ。でも、ミオは何で知ってるの?」

「マナティがエジプトのファラオの財宝なんちゃらを調べてて、安藤さんの話をしてたから、聞いたことがあるの。」

「じゃあ、私も仲良くして、色々教えてもらわなきゃ。でも、例の『ソロモン王の黄金の十字架』の話は知らないよね?」

「そりゃそうでしょ。ソロモン王はイスラエルの人だからエジプト人じゃないしね。」

「そうなんだけどね。」



「安藤さんはエジプト考古学に詳しいんですよね。」

「井川さん、僕のこと知ってるの?」

「いや、友達に教えてもらったんですけど、先生はその筋では有名な方なんでしょ。」

「それほどでもないけどピラミッド遺跡については僕の右に出る人はいないかも知れないな。でも、今はちょっとテリトリーを広げてユダヤの遺跡を調べてるんですけどね。」

「ユダヤってイスラエルの遺跡ってことですか?」

「そうだよ。エジプトのナグ・ハマディやパレスチナのクムランという遺跡があってね。旧約聖書などユダヤ教の古文書が見つかっているんだけど。古代エジプトと古代イスラエルの繋がりが見えて来てね。それで、僕の専門を逸脱してイスラエルの遺跡も調査してるっていうわけさ。」

「そうなんですか?私こう見えてもクリスチャンなので、聖書には詳しいんですよ。もちろん旧約聖書についても。そう、モーセの出エジプト記以外にも、旧約聖書の創世記なんかにはエジプトとのつながりがあちこちに出てきますからね。」

「そうなんだ。奇遇だなあ。僕も日本に帰って聖書を調べなきゃって思っていたんだよ。そしたら、こんなことになっちゃったんで、しばらくはお預けだけどね。」

「そうなんですか、それじゃあ私の拙い蔵書でよろしければ持ってきますから、入院中に読まれてはいかがですか?」

「ありがとう、そりゃあ助かるね。」

「ところで先生、『ソロモン王の黄金の十字架』ってご存知ないですよね?」

「おい、待てよ。それに似た話を僕はエジプトのホテルで夢に見たんだよ。確か、僕が砂漠を彷徨っていたら神殿みたいな修道院を見つけて、そこの修道院長が僕をソロモン王だと言い張って、僕に力を貸してくれって言うんだよ。そしてね、そこのご神体が黄金の十字架だって言ったんだ。なんか不思議でしょ。その修道院の屋根には丸い円の中に縦横同じ長さの『コプト十字』のシンボルが入っていてね、僕が尾行され始める前に調査したデンデラ神殿遺跡にも同じ『コプト十字』のシンボルが掲げられたコプト教会の遺跡が同居していたんだよ。僕が狙われたのも何かその夢に絡んでいるような気がするんだ。」

「先生のその夢って何かのお告げなんじゃない?でも、丸い円の中に縦横同じ長さの十字って、カトリックやプロテスタント系のキリスト教とか、ユダヤ教のシンボルとは違っているわ。コプト教会もキリスト教なんですよね?」

「そうなんだよ。コプト教会とは今ではコンプト正教会と言ってエジプトを含む北アフリカにある東方正教会の一派なんだ。でも、君が言ったようにイスラエルとイスラム化する前のエジプトには深い関係がありそうだし、僕の想像ではパレスチナのクムラン辺りを中心にエジプトなどにも点在していた修道生活を送っていたユダヤ教エッセネ派などがユダヤ戦争でローマ帝国に壊滅的打撃を受けエジプトのナグ・ハマディ辺りに逃げ延びて布教したのがコプト教会の始まりじゃないかと思っているんだ。」

「なるほど、イスラエルとエジプトの宗教的つながりがあったということは私にも何となく理解できたわ。先生、でもね、私の知ってる『ソロモン王の黄金の十字架』の伝説は日本近海の海に眠っていて、その手掛かりとなる石板があるのは徳島の剣山辺りだって言われているのよ。まあ、よくある都市伝説ですけどね。」

「そうか、エジプトと日本じゃずいぶん離れているな。でも待てよ、僕はコプト十字のことが前から気になっていたんだが、ありゃ鹿児島の島津家の家紋とそっくりなんだよな。それに、以前からある話なんだが、『日ユ同祖論』というのがあって、日本の天皇家はユダヤの流れを汲んでいるって言われている。これも都市伝説のたぐいかも知れないけどね。」

「私もその話以前にどこかで聞いたことがあるような気がするわ。それに、鹿児島と言えば薩摩隼人でしょ。先生が調べてたエジプトの神殿に祀られているハヤブサを冠するホルス神と『隼=ハヤブサ』で共通するわね。遠く離れたエジプトやユダヤと日本がなんか段々近づいて来たような気がするわ。」

「そうだな。井川さんいいところに気が付いたね。それにね、死海文書の中には宗教とは一線を画す銅の巻物も見つかっていてね。死海文書のほとんどがイスラエル博物館に所蔵されているけど、こっちはヨルダン国立博物館に展示されているらしいんだが、それには財宝の在処が記されているらしい。日本とのつながりが隠されているかも知れないな。友人に古代イスラエルに詳しい人間がいるから、僕も退院したらそっちも調べてみるつもりだよ。」

「先生、また狙われないように気を付けてね。取り敢えず旧約聖書の『創世記』と『出エジプト記』は明日持ってきますね。」

「ありがとう。色々世話になるね。」

「いいえ、お役に立ててうれしいわ。じゃあ、次のラウンドあるからまたね。」


翌日、アンディの妻の寛実が着替えなどを持って面会に来た。

「あなた、やっと帰国したと思ったら早速こんなことになっちゃって。いつまで経っても心配が絶えない人ね。でも、無事でよかったわ。もう、物騒なことしないでよ。子供たちも心配してたんだから・・・。」

「おう、すまない。俺もこんなことになるとはまったく予想もしちゃいなかったよ。別に物騒なことしてた訳じゃないさ。ただ、エジプトの神殿遺跡を調べてただけだよ。」

「じゃあ、どうして狙われたりするの。」

「何故だろうね。犯人が捕まれば詳しいことがわかるだろうけど、もう国外逃亡してる可能性が高そうだから迷宮入りになるかもね。ただ、わかっていることは、俺がエジプトからイスラエルを介して日本に帰って来たルートをエジプトからずっと付けられていたってことさ。でも、結構な至近距離から拳銃で撃たれたけどこうして生きているということは、わざと急所を外したとすれば、俺に対する警告じゃないかと思っているんだ。」

「じゃあ、なおさらもうエジプトの遺跡には首を突っ込まないほうがいいんじゃない?」

「そういう訳にもいかないよ。俺はエジプト考古学者だからね。」

「わかったわ。じゃあ、好きにすれば・・・。でも、当分はエジプトには行かないと約束して!」

「わかったよ。行かないよ。」


そんなところへハルが容体を看に来てくれた。

「こんにちは、安藤さん。顔色が良さそうですね。奥様がいらっしゃってたんですね。」

「主人がお世話になっています。」

「いいえ、すっかりお元気になられて私たちも一安心です。安藤さんにはエジプトの面白い話などを色々と聞かせてもらっているんですよ。」

「えー、あなた、意識が戻ったと思ったら早速エジプト話ですか。」

「いや、井川さんがいい話し相手になってくれたからついついね。」

「安藤さん、昨日話してた聖書です。退院するまで持っていただいてて構いませんから。」

「井川さん、ありがとう。助かるよ。」

「あなた、今度はキリスト教に目覚めたのかしら。死に損なったものね。」

「いや、そうじゃなくて、エジプトとイスラエルの関係を調べたくてね。井川さんがクリスチャンなので旧約聖書も持っていると聞いてお願いしたのさ。エジプトとイスラエルはユダヤ教からのつながりがあるみたいなんだよ。」

「なーんだ、そうなの。でも、今回の件は、無事だったんだからやっぱり神様に感謝しなくちゃね。」

「そうだな。」

ハルが病室から出て行ってしばらくすると、寛実も病室を後にした。


それから数日後、アンディの友人の広田直人が見舞いに来てくれた。

「君が撃たれたという話を聞いてびっくりしたぞ。もう大丈夫なのかい。」

「ああ、まだ頭部が時々痛むけど、何とか持ち直しているようだ。」

「そりゃあよかった。犯人はまだ見つからないのかい?」

「先日も警察の事情聴取があったけど、もう国外逃亡してみつからないだろうって言ってたよ。」

「そうか、そりゃ災難だったな。」

「ところで、この前電話で頼んだ死海文書の翻訳の件、何とかなりそうかな?」

「実は僕の知り合いのヨルダン国立博物館の館長に頼んで銅巻物の精細な画像を送ってもらって今解読中だよ。ネット掲載の文書も数日中には解読できると思う。」

「それは助かるよ。忙しいのに悪いな。」

「それはそうと、君が言っていたコプト教会の十字のシンボルだが、ありゃあテンプル騎士団のシンボルとも酷似しているね。テンプル騎士団とは、中世ヨーロッパで活躍した修道生活を送っていた騎士集団で、いわゆる十字軍の象徴みたいな集団なんだが、正式名称は『キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち』と訳されるんだ。そのシンボルはキリスト教が広まったずっと後なのに縦横同じ長さの十字を象ったものが多く、イエスキリストが磔にされた縦長の十字架とは少し違っている。おまけにその名称がエルサレムのソロモン神殿に由来するんだよ。僕の想像だが、ソロモン王に由来する十字は縦横同じ長さの正十字で、ローマ帝国に受け入れられた十字はユダヤ戦争でローマ帝国に滅ぼされたイエスキリストが磔にされた十字架を象徴する縦長の長十字になったとは考えられないだろうか?」

「なるほどね。勝者のローマ帝国は、滅ぼされたユダヤの犠牲者を象徴する十字架の宗教だから布教を許したということが実情かも知れないね。でも、その犠牲があったことでイエスキリストの愛がキリスト教として世界中に広まったのも事実だけどね。」

「確かにそうなんだけど、赤十字やその母体となったスイスの国旗は正十字をシンボルにしているよね? 赤十字はスイスのアンリー・デュナンという人が戦争で傷ついた人々を観かねて敵味方に関わらず負傷した人々を救う必要があるとして設立を提唱したらしいが、それが発展して今では国際法に守られて戦場でも赤十字のマークを掲げる所への攻撃は禁止されている。いわば人命尊重と平和中立のシンボルかも知れない。」

「ソロモン王の正十字も実はそのような人命尊重と平和中立を希求したものだったのかも知れないな。」



【十字シンボル比較】


コプト教会、テンプル騎士団 のシンボル 正十字

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スイス国旗、赤十字 のシンボル 正十字

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キリスト教 のシンボル 長十字

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島津家の家紋

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