聖書との出会い

アンディは、ホルス神と関係の深い他の神々を祀る神殿遺跡もターゲットとして拡大調査を行うために、ナイル川をさらに北に下って、ルクソール( 古代のテーベ )東岸にある牡羊頭のスフィンクスが並ぶ参道で有名なカルナック神殿複合体、そこから人頭の見慣れたスフィンクスの参道で結ばれたルクソール神殿なども巡った。カルナック神殿複合体の中核を成すアメン大神殿にはテーベの守護神アメンと太陽神ラーが習合したアメン・ラー神が祀られており、ルクソール神殿はそのアメン大神殿の付属神殿となっている。なお、ラー神はハトホル女神の父に当たるので、夫婦もしくは母子とされるハトホル神とホルス神の関係から、ラー神はホルス神の義理の父もしくはホルス神の祖父となる。


翌日はさらにナイル川を下ってホルス神の妻や母などとされるハトホル神の信仰の中心的存在となっているハトホル神殿( ※3 )などを含むデンデラ神殿複合体に向かった。この遺跡はルクソールからさらに川を下ったエジプト中部の町デンデラの南東部に位置し、ハトホル神殿の他にコプト教会( ※4 )の遺跡やプトレマイオス朝時代・古代ローマ時代の誕生殿( マンミシと呼ばれ神の誕生に関連する神殿付属の小さな聖堂 )などが同居する複合遺跡である。

アンディは周囲を塀で囲われたデンデラ遺跡の北門を通って丸い円に正十字が収まるシンボルが掲げられたコプト教会遺跡などを右手に見ながらハトホル神殿に向かった。途中、音楽や安産の神として知られるベス神のレリーフが出迎えてくれる。そして、いよいよ第一列柱室に入ると、高い天井には月の満ち欠けとそれを象徴するホルスの目、太陽の運行を示す太陽の船などが色鮮やかに描かれているのが見える。彼は取り急ぎ以下のような著名なスポットを中心に観て廻り、写真に収めては都度気づいた点をメモに書き留めた。地下に下ると宇宙創成にも関係すると言われ蓮の花の中にヘビを孕むとされるいわゆるデンデラの電球と呼ばれる不思議なレリーフ、屋上に上がるとその一室の天井には黄道十二宮を含む天体図のレプリカ( 本物はフランスのルーブル美術館所蔵 )、外に出て神殿右側の外壁沿いに進み、その先を曲がって神殿裏側に出ると例のクレオパトラ7世とその息子カエサリオンの大きな外壁レリーフ・・・。そして、その途中には埋められて枯れた井戸跡もあった。彼は神殿を一通り観て廻ったが、ハトホル神信仰が何故宇宙をテーマにした建造物につながり、そして宇宙創成が仏教のシンボルでもある蓮の花と結びつくのかなど、ピラミッドに代表される一般的なエジプト文明のイメージとは一味違った印象を受け、素朴な疑問と共に宇宙に抱かれたような不思議な感覚を得てこの遺跡を後にした。


アンディはこのデンデラの町のレストランで一人の男と相席になった。彼はキリスト教徒で、名はアブドラと言い、近くの修道院で催される礼拝に来ているとのことだった。エジプトはイスラム教徒が多く、キリスト教徒に出会うとは思わなかったので、アンディは少し驚いて、彼に聞いてみた。

「先ほどデンデラ神殿に行ったら、遺跡内にコプト教会の遺跡もあったんですが、この辺りはキリスト教徒の方も多いんですか?」

「そうですね、結構いますよ。近くにもモスクと並んで教会や修道院が建っていますからね。その昔の4世紀初め頃ですかね、聖人パコミオス( ※5 )がこの近くに修道院を建て、キリスト教の集団生活による修行と伝道の場を創り出したそうで、イスラム勢力によってある時期教会や修道院がことごとく破壊されたんですが、それでもキリスト教への信仰心は根強く残っているんですよ。ローマ帝国の世界を通してヨーロッパにもここから修道院文化が広がって行ったようです。ナイル川をもう少し下ったところにナグ・ハマディという村があるんですが、その近くから原始キリスト教に関するナグ・ハマディ文書( ※6 )という重要な資料も発見されたんですよ。聞くところによると、この文書は実はパコミオスの建てた修道院の蔵書だったのではないかと言われています。」

「そうなんですか。じゃあ、ここはキリスト教修道院のメッカみたいなところなんですね。」

「そう言われると少し気が引けますね。ナグ・ハマディ文書にはキリスト教多数派から異端扱いされたグノーシス主義に関する資料が多数含まれていたらしいんですよ。彼らは人間自らの中にも神が宿ると唱えて思い上がった危険思想と見なされたんでしょうかね。」

「今では広く世界に普及したキリスト教でも、神と人間の捉え方が違うし、その教派の変遷や布教の歴史にも色々あったんですね。」


アンディは、デンデラ神殿で得た情報とアブドラの話を取り急ぎノートに整理して、彼に別れを告げるとデンデラの町を後にした。

しかし、キリスト教の母体とも言える修道院がなぜイエスキリストの生誕の地( ※7 )イスラエルではなくエジプトの町で産声を上げるようになったのか、キリスト教多数派と袂を分かつことになったコプト正教会と異端扱いされたグノーシス主義との関係は同じ系統なのか、それとも別物なのか、アンディの脳裏にはまだ多くの謎が立ちはだかっていた。そして、ギリシャ文明とエジプト文明の融合とも言うべきコプト語がなぜエジプトのコプト正教会の主たる言語となったのか、謎が深まるばかりであった。キリスト教やユダヤ教の歴史など自分の研究分野とはまったく異なる畑違いでこれまでタブー視されて来た分野に足を踏み入れていいものかどうかと躊躇する一方で、自分でも抑えきれない好奇心と共に何かに導かれるように古代宗教史の閉ざされた真実の扉を開かなければならないという衝動に突き動かされていた。

アンディは、まず、ユダヤ教とキリスト教の経典でもある旧約聖書と、それを裏付ける最古の資料でもある死海文書、キリスト教多数派に異端とされたグノーシス主義の資料を多数含むナグ・ハマディ文書を詳細に分析する必要があると強く感じた。


彼はカイロに戻りナグ・ハマディ文書が収められているコプト博物館( ※8 )を訪れた後、イスラエルに飛び、イスラエル博物館が所蔵するクムラン遺跡から発見された死海文書( ※9 )を自分の目で確認してから日本に帰国することにして、一旦ルクソールに戻って飛行機でカイロに向かった。

カイロの街に着いた頃にはナイル川が夕闇の灯りに映って砂漠の町とは思えない程ロマンチックな装いを見せている。彼はナイル川河畔のホテルに宿泊し、翌日博物館を訪れることにした。しばらくエジプトに来ることもないと思うと今夜は少しゆっくりと過ごしたくなって、ホテル内のレストランで地中海料理を堪能してはナイトクラブでカクテルに酔いしれた。

すると、先ほどから近くでこちらを笑顔で見ている素敵な女性がいる。アンディはどこかで会ったことがあるような気がして彼女に声を掛けた。

「すみません。私のことご存知ですか? どこかでお会いしましたよね。」

「先生、お久しぶりです。ピラミッド発掘の時にお手伝いさせていただいたザフラです。」

「ああ、思い出しましたよ。カイロ大学考古学科のザフラさんだね。その節は色々と助けてもらってありがとう。こんな所でお会いできるなんて。今日はお一人なんですか?」

「ええ、友人と食事をしたんですが、その後少し飲みたくなって、一人で来ちゃいました。」

「それじゃあ、ご一緒させてもらってもいいかな?」

「どうぞ、どうぞ。私も少し話し相手が欲しかったんです。先生はまだクフ王のピラミッドに関わっていらっしゃるんですよね。」

「いやあ、実はね、最近はルクソール近辺の神殿遺跡の調査に没頭しているんだよ。エジプトの異民族統治時代との関係を調べたくてね。」

「奇遇ですね。私も今はそのままカイロ大学に残って学生に考古学を教える傍らエジプトの建造物がピラミッド中心から何故神殿中心に移行して行ったのか、その変遷を調べたいと思っていたんですよ。そこにはきっと異民族支配による影響があると思っています。」

「君も僕と同じ考古学の道に進んでくれたんだね。そして、僕と同じ視点で研究を進めているとは嬉しい限りだ。君の言う通りギザの三大ピラミッドにも河岸神殿などが付属してはいるが、主たる建造物はあくまでピラミッドだからね。主たる建造物が神殿中心になったのには、僕はアレクサンドロス大王の遠征で東西文化の融合が図られたヘレニズム世界におけるギリシャとユダヤの影響があると思っているんだ。でも、あの有名なギリシャのパルテノン神殿でさえ紀元前5世紀頃の建造なんだよね。それに比べるとイスラエルのソロモン王が創建したとされるエルサレム神殿は紀元前10世紀頃まで遡るんだ。ソロモン王の時代にイスラエルは栄華を極めたとされているが、周辺国とも王家との縁組により領土を拡張して行ったことが窺える。エジプトのファラオの娘を妃に迎えてエルサレム神殿に住まわせたとも言われている。だから、当時はエジプトも支配下に置いたんじゃないかと考えるのが自然だよね。特にユダヤ教と、原始キリスト教の前身になったと思われるコプト教の布教など宗教的な面で多大な影響を与えたんじゃないかと。その痕跡がエジプトのコプト教会に残されているんじゃないかと思っていてね。今日はコプト教会遺跡も残るデンデラのハトホル神殿を入念に調査したんだ。」

「エジプトとイスラエルは過去に戦争もしていて、あまり親しい関係ではないと思っていたんですが、実は信仰を通してつながっていたのかも知れませんね。」

「君もそう思うだろう。そして、今では話す人もほとんど居なくなったけど、ご存知の通りコプト教会では主要な言語としてコプト語が使われていたよね。そのコプト語なんだが、ヒエログリフの解読にも重要な役目を果たしたことは知ってるかな?」

「コプト語にそれほど詳しいわけじゃないけど、そう言えばロゼッタストーン( ※10 )の解読のきっかけになったと聞いたことがあるような気がするわ。」

「そうなんだよ。ヒエログリフはエジプトでも読み方が忘れられてから千五百年もの間謎に包まれていたが、ナポレオン一行がロゼッタストーンを発見したことで解読の道が開けたんだ。でも解読できたのはそれから二十年以上も経ってからだったんだよ。そんな難解なヒエログリフの解読で重要な糸口を見出したのは、イギリスのトマス・ヤングという物理学者なんだが、それをきっかけにフランスのジャン=フランソワ・シャンポリオンという学者が遂に解読に成功し『エジプト学の父』と呼ばれるようになったんだ。そして、その解読に一役買ったのがコプト語なんだなあ。ロゼッタストーンには、ヘレニズム世界のエジプトで王として君臨したギリシャ系のプトレマイオス朝5代目のプトレマイオス五世が政権衰退の兆候を挽回し民衆の支持を得るためにファラオとして即位式を行いメンフィス勅令が発布されたことなどが数々の賛辞と共に記されているんだが、そこに刻まれた碑文はヒエログリフと共にデモティックと呼ばれる民衆が使う速記体のエジプト古代文字、それにギリシャ文字を加えた3種類の文字で併記されている。最初デモティックがどんな言語かは不明で、ギリシャ文字とヒエログリフを比較しながら解読が進められていたがヒエログリフの絵文字はそれぞれの絵がその意味や概念を示すものだと捉えられて一向に解読が進まなかった。しかし、ヤングはその中にカルトゥーシュと呼ばれる楕円形で囲まれたヒエログリフがあることを見つけ、それが異国の固有名詞を意味しているとすると、その絵文字で名前の概念を記述するには無理があると思い、一つ一つが単に発音を表すアルファベットに相当すると仮定して、ギリシャ語( ラテン語 )の『PTOLEMAIOS』と絵文字が対応するんじゃないかと考えてみた。すると、P=□、T=半円、L=ライオンなど、文字数は完全には一致しないが、複数の同じ『プトレマイオス』の綴りの箇所とそれに対応すると仮定したヒエログリフの絵文字の並びの箇所が一致していることがわかったんだ。つまり、ヒエログリフは表音機能を有する象形文字だったんだ。それをきっかけに今度はコプト語にも詳しいシャンポリオンが他の多くのヒエログリフをコプト語と比較しながら解読を進め、文の終わりを示す象形文字や、異国の固有名詞以外もアルファベットと対応し、さらに、同音異義語や類似発音の語彙を語呂合わせでその概念も表していることなどを突き止めたんだ。例えば『アヒル』と『息子』のいずれもコプト語では『sa』と発音するからヒエログリフには息子を表現するのにアヒルの絵が記されている。でも、ヒエログリフはあくまで神官が使う言語で、いちいち絵で記述していたら大変だから一般の記述言語はそれを崩して筆記体にしたデモティックが用いられたようだ。」

「さすが、先生。その辺のこと詳しいんですね。でも、語呂合わせって意外と重要なんですね。」

「そうだね。でもまあ、これは本の受け売りだけどね。そんなわけで、明日、コプト博物館でナグ・ハマディ文書を見て、その後イスラエルにも行って、ナグ・ハマディ文書と共に原始キリスト教の起源ともいえるクムラン洞窟から見つかった死海文書もこの目に焼き付けて、日本に帰国しようかと思っているんだ。」

「先生、精力的に活動されているんですね。」


「先生のシンボルはクフ王かと思っていたのに、ソロモン王なんですね。」

「いやあ、そんなシンボリックなものを必要とする立場じゃないけど、エジプトとイスラエルの関係はソロモン王で繋がっていると思うんだ。しかしそうだなあ、僕がソロモン王キャラなら、君はさしずめシバの女王かな?」

「そうかしら、私のシンボルはハトホルよ。」

「なるほど、エジプトで最も人気の高い愛と美の女神だからね。でもね、僕はひょっとしてハトホルはシバの女王の母親じゃないかと思っているんだ。」

「どうして? シバの女王はエチオピアの人じゃないの?」

「ソロモン王はエジプトのファラオの娘を妃に迎えてエルサレム神殿に住まわせるんだ。同様にシバの女王とも結婚したという伝承が残っている。そこで、シバの女王が実はそのファラオの娘だと仮定すると、辻褄が合ってくるんだよな。ハトホル神はホルス神の母神とか配偶神とも言われている。母神ならソロモン王はホルス神として信仰されたということになるんだ。ラーやアメンが習合されてアメン・ラーとして信仰されるけど、ホルスも大ホルスとしてラー神と習合されているから、つまり、ソロモン王はエジプトの信仰に深く関わっていた可能性があるんだよ。」

「エジプトの信仰対象が実はイスラエルの王だったとしたら少し癪な気がするわね。」

「そうかなあ。世界中で多くの人々が信仰しているキリスト教だってそうだよ。祈りを捧げる時に『アーメン』って言うでしょ。でも、この言葉はアメン・ラーの『アメン』を暗示しているかも知れないよ。」

「先生、それも語呂合わせですよね。ちょっと不謹慎じゃない? ・・・ でも、ひょっとしたらそうなのかもね。」

二人は、顔を見合わせてクスッと笑った。


「じゃあ、僕は明日も早いからこの辺で失礼するよ。今日はとても楽しかったよ。」

「私もそうよ。それにとっても貴重なお話が聞けて勉強になったわ、先生ありがとう。また、エジプトにいらっしゃった時には声を掛けてくださいね。じゃあ、お元気で。」


アンディは部屋に戻ってシャワーを浴びるとそのまま寝入ってしまった。



気が付くとアンディは広大な砂漠の中を一人で彷徨っていた。喉がカラカラで太陽の日差しは容赦なく照り付け、暑さと喉の渇きで今にも倒れそうだ。それでも何とか歩き続けていると、遠くにヤシの木らしい緑の葉が見えた。朦朧としながらも何とかその近くまで辿り着くと、そこには夕日が水面を照らす泉が湧き木々が生い茂るオアシスが広がっている。すると、その一角に灯りが射す神殿らしい建物が見えた。アンディがそこまで行こうとすると、行く手を阻むように頑丈な塀が張り巡らされており、それを越えることは出来ないように見える。彼が塀の隙間から中を覗こうとすると、背後からいきなり衛兵に取り押さえられて中に連れていかれた。

「私は怪しいものではありません。エジプト考古学者の安藤と言う者で、ただ、砂漠を彷徨ってここに辿り着いたのです。少しばかりの水と休息を取らせていただけませんか?」

「ここは修道院だ。お前たちの来る所ではない。」

衛兵がそう言って追い返そうとすると、修道院長らしき老人が出て来て、衛兵を制した。

「あなたはソロモン王ではありませんか?どうしてこんな所までおいでになったのですか?それもおひとりで・・・。」

「この方をバシリカにお通ししなさい。」

「畏まりました。」

そう言われて衛兵はアンディを修道院の中に連れて行った。昔は厳かな神殿だったと思われるその修道院の屋根には丸い円の中に縦横同じ長さのコプト十字があしらわれたシンボルマークが掲げられている。

建物の中に入ると、50メートルはあるだろうか何本もの列柱が並ぶ通路が続き、その先に至聖所と思われる場所が見えた。そして、彼に十分な水と食べ物と葡萄酒が用意された。

アンディは用意された水を一口飲んでから、再度自分の素性を明かそうとした。

「こんなに歓待いただいて恐縮です。しかし、あなたは誤解されているようです。私はソロモン王なんかじゃありません。ただの考古学者で、安藤と言う者です。砂漠の中を彷徨っていたみたいです。」

「そうおっしゃるのは構いませんが、私が見る限りあなたはやっぱりソロモン王に違いありません。私共は、先日から外敵に襲われて多くの信者を連れ去られてしまいました。彼らは砂漠の処刑場で十字架に架けられて非業の死を遂げたのです。奴らの攻撃は幾度となく繰り返されてきました。私たちも武装して修道院を必死に守っているのですが、勝ち目がありません。どうかあなた様のお力をお貸しいただけませんでしょうか?」

アンディは困った顔をして訪ねた。

「私ごときがお力になれるとは思えませんが、何故外敵がこの修道院を襲ってくるのでしょう?何か心当たりはありませんか?」

「私にも襲われる理由がよくわからないのですが、もしかするとこの修道院のご神体を狙っているのかも知れません。」

「そのご神体とはイエスキリストの像とかですか?」

「いいえ、それは奥義なのですが、この際お話します。実は、黄金の十字架なのです。」



アンディはどうも夢を見ていたようだ。小鳥のさえずりで目を覚ました。しかし、夢とは思えないくらい鮮明な記憶が蘇って来た。夢が途中で途切れた安堵感とその後の展開への好奇心とが入り混じって彼は不思議な心持ちになった。

「自分はソロモン王で、私に黄金の十字架を守ってほしいという神からの啓示だろうか? いや、そんなはずはない。昨夜ザフラと飲んでソロモン王の話なんかしてたし、ホルスの神殿遺跡調査とコプト正教会が入り混じって、どうも私の脳みそが混乱をきたしたのかも知れないな。」

アンディは気を取り直してホテルのレストランで朝食を済ませると、身支度をしてコプト博物館に向かった。博物館は、周辺にコプト教会やエジプト国立文明博物館などが立ち並ぶオールド・カイロと呼ばれる地区にあり、ホテルから徒歩でも30分足らずで行くことができる。また、カイロ県の南部に位置しているため、ナイル川を挟んで川の西側に広がるあの三大ピラミッドや大スフィンクスで有名なギザ砂漠にも近い。

アンディは、ナグ・ハマディ パピルス古写本の展示を中心に博物館内を一通り観て廻り、脈々と継承されて来た古代エジプト文明が、コプト時代以降の近隣国との文化的融合と、それに伴いユダヤ教をベースとした原始キリスト教の発生と布教の歴史の一端を垣間見ることができたような気がした。

そして、アンディが搭乗した夕刻発のテルアビブ行き航空機はイスラエルに向けて飛び立ち、エジプトを後にした。

しかし、昨日来、彼はどうも誰かに尾行されているような気がしてならなかった。


テルアビブのベン・グリオン国際空港に到着し、入国手続きを行う傍ら辺りを見渡すと、しきりとこちらを覗っている男がいるのが見えた。アンディが厳しいセキュリティチェックを通過して入国できたのは1時間以上経ってからだった。宿泊予定のエルサレムのホテルまではホテルと共に予め予約しておいた空港送迎サービスを利用して1時間程で着いた。ホテルは、有名な嘆きの壁や神殿の丘などのある城壁に囲まれたエルサレム旧市街の西側にあり、死海西岸のクムラン遺跡にも程近いエルサレム地区東部エリアに位置する。アンディはチェックインして客室に入ってほっと一息ついた。移動中やホテル周辺でも幸い尾行らしき姿は見えなかった。


明くる日、ホテルで朝食を済ませた後、身支度してイスラエル博物館に向かう。このホテルからだと博物館にも徒歩で行ける距離だが、念のため安全を期してタクシーで行くことにした。

イスラエル博物館に着くと、早速、彼は死海文書が展示されている敷地内にある聖書館に向かった。この建物の屋根は白い玉葱の上半分だけ切り取ったような形をしているのだが、どうもクムラン洞窟で発見された死海文書の入っていた壺の蓋の形を模したものらしい。入口から地下に降りて行くと、薄暗い室内の中央と周りにおびただしい数の古写本の円形展示が浮かび上がっていた。縁がかなり朽ちてはいるものの、羊皮紙やパピルスに記された古代ヘブライ語と思しき文字がはっきりと読み取れる。人気漫画エヴァンゲリオンにも登場するいかにも古文書らしい遺物である。

アンディが確認したら、イスラエル博物館とグーグル社の共同プロジェクトで最初に発見されたいわゆる七つの巻物『イザヤ書』、『ハバクク書ペシェル( ※11 )』、『共同体憲章』、『戦いの巻物』などの文書の画像がネットで公開されており、中でもイザヤ書は英語に翻訳されているようだ。さらに、これはヨルダン国立博物館で所蔵しているものだが、宗教的文書とは一線を画す財宝の隠し場所に関する銅製の巻物もあるらしい。アンディは彼の歴史家仲間で古代ヘブライ語にも詳しい広田直人に連絡し、ネットに掲載されている死海文書巻物とヨルダン国立博物館の銅巻物の翻訳に協力して欲しいと頼んだ。アンディも以前に広田に頼まれて古代エジプトのヒエログリフに関する解読を手伝ったことがある。そんなこともあってか、彼は快く引き受けてくれた。


広田は、ネット掲載の死海文書の他に、以前から交流のあるヨルダン国立博物館の館長に頼んで例の死海文書の銅巻物の精細な画像を送ってもらうよう頼んだ。


「日本に帰ったら不慣れな聖書と格闘しなくては・・・。」

アンディは翌日の東京行き直行便の機内に居た。東京までは12時間を超える長旅である。機内食と少しのワインを食して、彼が仮眠を取ろうとして周りを見渡すと、近くの座席に座っている男に何となく見覚えがあるような気がした。それでも暫くは東京に帰ってからのことなどを思い巡らしていた時、ふと男の顔が思い出された。

「そうだ、エジプトからずっと尾行されていると感じていた男に違いない。」

彼は背筋が凍り付くのを感じた。気を取り直してそのまま眠ってしまおうとしたが、どうしても眠れなかった。

飛行機が東京上空に差し掛かったのは朝の8時頃だろうか。結局彼は一睡もできず成田で入国手続きを終えることになった。入国手続きを済ませると、成田エクスプレスに乗り込み東京の吉祥寺の自宅へ向かった。電車の中で彼は自分を付けて来る男の動機を色々と考えてみたが、思い当たる理由が見当たらなかった。

すると、駅を出て自宅に向かう彼の前にその男が俄かに立ちはだかったのだ。男は、彼に向かって何か大声で叫ぶと、鈍い銃声が辺りに響き、アンディはその場に倒れた。そして、人通りの無い通りを、男は走り去って行った。それから暫くして辺りに人の声がしたかと思うと、救急車のサイレンが鳴り響き、彼は病院に担ぎ込まれたのだった。

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