第5話、死生観、宗教

この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば


菅原道真公を左遷し、死に追いやった「藤原」氏。


「彼」を直接左遷した4兄弟は復讐されたが、その子孫である彼はその出生順や外祖父の立場から、期待されてなかったにも関わらず、欠けることのない権利を手に入れて、その子孫は50年近くの栄華を極めた。


そんな平安時代の大権力者、藤原道長はその最期、熱病に冒され死んだ。

そして、その骸は「五条河原」に捨てられた。


「生物」が停止した「死体」は「モノ」でしかない。と我々「日本人」の先祖は示している。当時は仏教と原始的な「神道」が混ざり合った時代。ただし、神仏習合は祭祀儀礼の場においては区別されていた。


どちらにしても、死体は「穢れ」または単なる「モノ」として、捨てられた。


現代日本において、死体をモノとして扱うことを「是」とする日本人はいないだろう。戦国時代ですら死体を放置はしていない。ただ、誰かれの「死体」に意味を見いだすのは日本人固有の考え方。史跡発掘で死体が出て、体調を崩すのは日本人だけなんだそうだ。


キリスト教やイスラム教などの「アブラハム」の宗教において「死体」は入れ物。「死体」そのものに意味はない。終末の時に蘇る用の器。従って、他宗教者はそもそも蘇れないから単なる「モノ」になる。


解釈にもよるが、魂が地上に戻ったときにまた新たな器が作られるという考えもある。要は単なる薬やバイオビジネスの材料に過ぎない。鶏肉、豚肉、牛肉に人間。


「死体」は「ビジネス」になった。


もう一方、現在地球には共産主義という「宗教」圏があるが、共産主義に「来世」はない。


本来の考え方は「来世」という鎖で「現世」に苦難を強いる既得権益者「教会」やその守護者に対して、服従する必要はないのだとする「人間宣言」であった共産主義。


「来世」がないから「現世」での生き方は、各々の「理性」と「良心」により「ありたい姿」で生きることだとしていた。


だが、すべての人が「知性」と「尊厳」を持って生きているはずの現代における「共産主義」は「欲望」の赴くままに生きることが「ありたい姿」になってしまっている。


現世主義の拝金主義。共産主義に神はいない。「家畜に神はいない」。

「死体」だろうと「金目」でしかない。


しからば、日本人が死体に意味を見出すのは仏教由来かといえばそうでもない。

現にお釈迦様のお墓はない。墓を作り出したのは中国に伝播してからだ。


我々に大きな影響を与えた中華文明。確かに死体に意味を見出してはいる。墓を暴いて死体に鞭打つなどを刑罰としていたのだから。


だが、中華圏における「家系」の理論であれば、赤の他人の死体に対して畏れを抱いて体調を崩すのはナンセンス。死体に意味があるのではなく、系譜に意味があると考えられる。

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