第6話、死生観、思考

日本に古来からあると日本人が信じている神道において「死」は「穢れ」。

だから藤原道長公は野晒しにされた。


確かに、類似する事例はいくつかはあるだろう。しかし「日本人」は無宗教を自認している。もしくは「仏教」か「神道」なのに、どちらともそれを否定している。


本来なら最も「死体」をモノとしてみてもおかしくないのに、日本人だけが体調を崩してしまう。例え、他宗教、他国人、遠い過去の人だろうと「モノ」としてみれなくなった。


日本各地に「慰霊碑」がある我が国。

石に刻まれた「そこ」を宗教施設だと思う日本人はいないだろう。だが、諸外国ならそこは「教会」や「モスク」になる。


日本においては「記念碑」が近いだろうか。だが、凱旋門のように戦勝を記念した訳でもない。過去、大量に人が死んだ。それだけ。日本人が死んだだけではない。他国民が死んだ「慰霊碑」もある。


歴史的には大虐殺をしようが、日本人は死んだら神になる。勝者も敗者も区別なく、国土に帰り「柱」となる。我が国の連綿たる歴史の中で、やむを得ず勝者と敗者に分かれただけで根元の部分は一緒だとして。


多くの「日本人」が「手を合わす」。

次にそんなことが起こらないように、願いながら。宗教に関係なく、「祈る」。


日本には「死体を使った衝突実験」ができる施設はない。自動車メーカーはアメリカなどで大金払って試験している。


交通事故時の障害値を正確に測るには必要だと思うが、死体を「ビジネス」として見れないこの国でこの設備は作られることはないだろう。


日本人は無宗教にも関わらず「死体」を「モノ」として見れない。


世界的には「死体」、「死」はビジネス。

「日本人」の「変わった」死生観。

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