第16話 罪と罠
◯
マラソン大会にでも出た気分で、蒔名は疲れ切っている。
当てもなく歩いてたら、それは帰り道ではなく、通学路に沿ってることに気付く。
それならちょうどいい。注射器の補充と、信頼できる大人に相談が欲しかったところだ。
すると、彼は学校に着いた。
守備の薄い新町第一高校のゲートを抜け、学校唯一の灯りに向かう。
時間はもう夜7時だけど、甲斐先生ならきっとまだ学校にいるという確信は持っているようだ。
普段は仕事が暇過ぎたせいか、甲斐はいつだって堂々と保健室に篭もり、仕事と関係ない本を読み漁る。歴史、心理学、物理学など、色々な学問を手広く研究しているそうだ。
名利のためではなく、ただの趣味である。その方が気分良くなると彼は言った。いわば食事をとるみたいなものだ。
寮に帰ってもどうせ本を読むくらいなら、学校に残ったって変わりはない。
そう言うわけで、新町第一高校の保健室は「常夜灯」と呼ばれることもある。
夜中に読み過ぎて目が痛い時は、学校を見回って気分転換することもしょっちゅうあった。おかげで微力ではあるが、学校の警備には少し貢献した。それに免じて彼が夜な夜な使っていた電力のことに関して、学校側は大目に見てやった。
ノックして入ったら、甲斐は晩御飯を食べてるところだった。
パスタみたいなやつを貪っている最中で、そんな時でも知識の摂取を忘れずに、タブレットで最近のニュースを読んでいる。
「よお。頃葉君か。またこんな時間に。腹減ったろ。一緒に食べるか?」
食べてない前提か。
でも事実だ。
「でもどうせカップラーメンでしょう……遠慮します」
「見くびられたな。ほれ。パスタ、餃子、ラーメン、ウエハース、食パン……よりどりみどりだぞ」
そんな冷蔵庫の中身を見せられても、蒔名の食欲をそそることはできない。むしろ悲しみと同情が催してきた。
「今更ですけど。甲斐先生は結婚しないですか?」
確かに今更だ。
半年間もそんな生活状態を見てきたのに、今になって尋ねるとは、蒔名に何か心境の変化でもあったかって甲斐はすぐ気付いた。
そして興味津々だ。
世界で誰よりも蒔名の結婚に関心を持つ人、その1位がもちろん彼の亡き母親だけど、その次が甲斐だ。
少し酷な理由だけど、蒔名がこのまま子孫を残さずに死んだら、10年後には必ず、彼の研究はやむを得ず停止することになる。それは彼自身にとって生涯の遺憾となり、世界にとっての損失でもあると考えている。
だからどうしても蒔名に結婚して、子を産んで欲しかった。
なるべく早く。
できるものなら今すぐ!
「紫姫ちゃんとなんかあったか?」
「先生、直球すぎです……それになんで紫姫と決め付ける……まだ知らないですね。僕の幼馴染が鈴和に転校してきたんですよ。紫姫さんより彼女の方と互いに熟知しています……まあどのみち、先生の願望を叶えるにはまだ早い……」
「そうか。学校に篭っていたら、あっという間にドロップアウトだな。まさか新しい選手が参戦とは……めでたしめでたし」
「実はそれを相談しにきました。僕の幼馴染がね……来て早々……人を、罪を犯しました。世間には隠し通せたが、よりによって僕が知ってしまった。でも彼女に捕まりたくないから、暴露するわけには行かないでしょう?警察なのに、犯罪事実を隠すとは……これからどう向き合えばいいでしょうか?彼女に、玄田さんに、仲間に……」
真面目な話だと察した甲斐は手元のフォークを下ろした。
おじさんらしく、彼は顎髭を撫でながら思考に耽る。
まもなく答えが見つけたようで、彼は立ち上がり、茶を淹れようとした。
「アレを飲みながら話そうか」
……。
冷蔵庫から茶葉を取り出し、手順など考えずに、雑な一杯を淹れた。
雑だけど、茶葉が優秀だから、味もそんなに落ちない。
「またこれですね……」
蒔名は一口啜ったら、やっぱり思い出の味だと思った。しかしその古い思い出には新たな記憶の粉が付け加えられた。
メイには悪い言い方だが、お茶に秘められた思い出が不純になってしまった。
とはいえ、その思い出の純粋さを守るにはとうに手遅れだ。子供の頃と違って、今時それを飲むともう母親だけではなく、甲斐先生のこと、仲間たちのこと、そして新しく加わったメイのことを思い出す。いつしかこのお茶の名は「家族」から「人生」へと変わった。
「それを飲んで、君に母親のことを思いだしてほしいのだ」
「母さんを?」
「もし君の相談相手が千夜さんなら、彼女ならどう答えるかな。彼女とは長い付き合いだから少しは当たると思うぞ。彼女ははっきりとこう言う。
世間の目なんて死ね!
っとな」
「え!?母さんはそんなふうに言うの?」
「言うさ。千夜さんは率直で、乱暴な人だ。友達を救うために病院に乗り込むとは、正気の沙汰じゃない。そんな彼女ももちろん、自分の能力で都合の悪い情報を仕入れたことはある。隠すか話すか迷っていた。君が迷う理由は、警察でありながら、友達の犯罪を隠蔽した。そこだろう?」
「そうですね……概ねそこ」
「千夜さんは警察じゃなかったけど、危うい立場だったよ。
発端は、彼女の予言がよく当たるという噂がいつしか広がった。そして必ず金を用意して頼みに来て、未来のことを尋ねる人間が現れる。
ただ宝くじが当たるために彼女を誘拐しようとした人間もいた。
保身のために、彼女は警察に助けを求めた。当時の警察は大胆な計画を企て、実行して、でも成功した。彼女はもう2度と脅かされることはない。
それ以来交換条件として、警察に利用されることになる。陰で動く諜報機関のさらに陰にいる非常勤諜報員になった。
直接人を殺してはなかったと思うが、人殺しの手助けは何十回、何百回もしたんだろう」
「そ……れ。また初耳です。もっと早く言って欲しいよ……」
「まあまあ。彼女は人生は濃いんだから。頃葉君から話題を指定しないと、語り尽くさないよ。とにかく言いたいのは、千夜さんの罪、君は問うのか?」
「するわけないじゃないですか……」
「身内を守りたい。それは人の常。君が何をやらかしたとしても、千夜さんは君を許す。私もだ。今の立場が君を苦しめるなら、変えればいい」
「やはりそうですね……僕も刑事を辞めたいと思ってる」
「それで気が済むなら……そしてまた結成すればいい。特別捜査隊ではなく、登山隊とか、トレジャーハンター隊も良いね。あの2人なら、伴うだろう。君が裏切りたくない仲間たちを信じよう。そしていつか打ち明けたい時が来たら、全部話そう」
蒔名は納得したように頷く。
甲斐先生はやはり信用できる人間だと彼は再び思い知った。これで何回目だかもう忘れたくらいに。
それでお返しとして、尚更彼のこと知りたくなってしまった。
「それで、先生は結婚しないですか?」
「あれー?」
「あれじゃないですぞ。散々僕の情報を聞き出して、先生もなんか言ってください」
「私はな。別に女性に興味ないわけではないよ。ただ大学時代、大好きな女が去った後、もう誰にも恋することができなくなったよ」
「へえ……」
心の中では、もしかしたらこのジジイ、自分の母が好きなのかって疑いさえしたけど、まさかそこまで純情な男だったとは思いもしなかった。しかし“去った”とはどう言う意味か?生き別れ?それとも亡くなったか……聞きづらい。
「こうして私は研究と付き合うことにしたよ」
甲斐はお茶を啜り、遠い目で窓外を眺める。
田舎だから、真っ黒で何も見えなかったはずのに、彼は普通の人には見えない何かを注視している様子だった。夜中なので、少し寒気を覚えた。
「すごいですね先生。その女性にどんな魅力があるか凄く気になります。教えてもらえますかね。参考にします」
「参考?何の参考か分からないが……彼女は凄いぞ。全てがお見通しのような……私の現在と未来が見透かされていたような……彼女の前に、隠し事なしだった。愛と情熱も、隠し切れなかったんだ」
結局自分の母さんじゃないか。しかもそんな気持ち悪い表現で……蒔名は蔑みの目を向けんばかりに、肝心な、意外な、衝撃的なところに気がついた。
甲斐先生は40代に見えるが、実は50代の人だ。
つまり自分の母より一回りも年上だった。
そう。
強いて言うなら、彼は自分の祖父祖母の代だ。
「甲斐先生……子供はいましたか……?」
「いたかいなかったか……」
アルツハイマーじゃあるまいし、その回答って何なの?
でも甲斐の回答が不確かであればあるほど、蒔名は戦慄するように震える。
人には両親だけではなく、両親の両親、つまり祖父祖母がいたはずなのに、一度も会ったことないことに関して、蒔名は何一つ疑問を持たなかった。
別に気にならないわけではなく、聞きそびれただけ。それに母さんを失った後、祖父祖母のこともどうでも良くなってきた。
しかし一つだけ、記憶に残る言葉がある。
「母さんの実家は遊園地を経営しているのよ。頃葉がもうちょっと大きくなったら、一緒に遊びに行こうね」
まだ2歳だった彼にそう話したこと、今でも覚えている。そもそも覚えられる言葉が少ないから、全部覚えることにしたみたいだ。
蒔名は脳裏でごく簡単な推測をした。それを検証するために、1発で明るみにできる質問を考え始める。
遊園地を聞く?でも卒業してから医者だったから、多分直接関わってないかも。
苗字を聞く?自分の母もおそらく偽名だから、参考にはならない。
実家を聞く?範囲をある程度絞れたが、やはり確定にはできない。
「先生……その……」
どのような質問が最も適切か蒔名はまだ決めていないけど、甲斐の顔の変化に気付いた彼は口を開けようとする。2人が共通した何かに感応したように、今すぐでも答え合わせがしたいように……。
「頃葉……君。なぜその可能性を私が見落としてきた?まさか……」
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