冗談?

 夕暮れ時の特別棟へ足を運ぶ。一樹は階段をのそのそと上りながら、教室での出来事を考えていた。


「……なんなんだよ、あの冗談。」


 頭を掻きむしりながら、小さくため息をつく。海咲の突飛な発言が頭から離れない。あの後、彼女を追って学校中を探し回ってみたが、結局見つからなかった。あんな冗談を言う海咲が信じられない。それに、あの言葉の奥に何かあるのかもしれない、と思うとモヤモヤして仕方がなかった。


「……はぁ。」


 一樹は軽く首を振り、思考を振り払う。悩んでも仕方がない。気持ちを切り替えようと、階段を上りきると、生徒会室の前にたどり着いた。


『生徒会室』と書かれたシンプルなプレートが扉にぶら下がっている。夕焼けの光がプレートを温かく照らしていた。普段はどこか不機嫌そうな顔をしている一樹だが、今日の彼は少しだけ穏やかだった。ほんの少しだけ、気持ちが楽になったような気がした。


「誰かいますか?」


 軽くノックしてみるが、返事はない。もう一度ノックしようとしたその時、扉の向こうでガタッ!という物音がした。小さくうめくような声も聞こえる。


「……?」


 首をかしげながら、ノブに手をかけると、鍵はかかっておらず、扉はすぐに開いた。


「誰かいるのか?」


 部屋の奥には、一人の少女が机に突っ伏したまま動かない。見慣れた茶色がかったショートカット――石原楓いしわらかえでだ。一樹は慎重に近づく。すると――。


「ばあっ!」 「うおっ!」


 突然、楓が勢いよく顔を上げ、一樹に向かって飛び出した。彼は慌てて飛び退く。


「あはは! 一樹君驚きすぎ!」


 屈託のない笑顔を浮かべる楓。その仕草に少しドキッとするが、一樹はすぐに冷静さを取り戻した。


「お前な……驚かせるなよ。」


「ごめんごめん。でも、一樹君が生徒会室まで来てくれたのは嬉しいな!」


 楓は明るく笑う。彼女はクラスメイトで、現生徒会の会計。茶色がかったショートカットに活発な性格が特徴だ。海咲とはまた違ったタイプで、つかみどころのない自由な雰囲気を持っている。たしかに、彼女がいるだけで場が明るくなる気がする。


「海咲に書類届けろって頼まれてさ。」


 一樹が書類の入った封筒を一つ差し出すと、楓の表情が一瞬曇った。


「……ふーん。海咲ねぇ……。」


 その如何にも面白くなさそうな顔に、一樹は戸惑う。


「なんかあったのか?」


「ないない! 何でもない!」


 楓はすぐに笑顔を取り戻すが、その笑顔にはほんの少し違和感があった。


「え、ちゃんと海咲に渡せよ?」


 一樹が当然の要求をすると、楓は首を横に振った。


「これは私が預かるから大丈夫。それより……。」


 楓は一樹にゆっくりと近づき、前髪が触れそうな距離で上目遣いをする。


「海咲のこと……気になる?」


「は?」


 一樹は間抜けな声を出したが、楓は構わず続けた。


「幼馴染、だもんねぇ。」


 そう言って一樹の首に腕を回し、抱きつくように身体を寄せてきた。彼女の髪が一樹の頬をかすめ、甘い香りが鼻をくすぐる。


「おい、何してんだよ。」


 一樹は動揺しつつも楓を引き離そうとする。しかし楓はさらに密着し、耳元で囁いた。


「鴨葱って知ってる?」


「何言って……。」


 一樹が困惑している間にも、楓は胸に手を当て、艶やかな笑みを浮かべる。


「ふふっ……ねえ?今、二人きりだよね。生徒会室にはしばらく誰も来ないしさ、ここ、防音もしっかりしてるんだよ?」


「……っ。」


 一樹は息をのんだ。楓の目に宿る感情は、いつもの明るい雰囲気とはかけ離れたものだった。彼女の言葉が、まるで本音のように聞こえる。だが――。


「石原。オマエ、もう少し自分の身体を大事にしろ」


 諭すように優しく言葉をかけ、一樹は少し強く楓の両手を握り、強引に引き離した。


「わ、私……。」


 楓の顔は恥ずかしさで真っ赤に染まる。一樹は荷物を拾い上げながら一言だけかけた。


「……俺達はただ雑談していただけ。それでいいな?」


 そして生徒会室を後にする。背後から「あ……。」という楓の小さな声が聞こえたが、一樹は立ち止まらなかった。


 ▽


「はぁ……。」


 一樹は一人、深いため息をついた。楓のあの言葉と行動には驚かされたが、なんとか切り抜けられたようだ。


「何してんだよ俺は……。」


 軽く頭を振って気持ちを切り替えようとする。振り回されるのはいつものことだが、今日は特に濃密だった気がする。一樹は階段を上がりながら、わずかに軽くなった足取りを感じていた。


 すると、その途中の踊り場で人影が目に入った。


「……海咲?」


 薄暗い夕焼けの光が差し込む踊り場に、八代海咲が立っていた。一樹が気づいた瞬間、彼女は顔を上げ、口元を緩める。安堵したような表情だった。


「やっぱり……。」


 小さく呟いた彼女の声に、一樹は首を傾げた。


「何がやっぱりなんだ?」


「……別に。」


 海咲はそう言うと、ゆっくりと一樹の前に歩み寄った。そして、突然両腕を伸ばし、一樹の首に回す。そのまま抱きつくように身体を寄せてきた。


「お、おい……!」


 一樹は慌てて彼女を引き離そうとするが、海咲は動かない。耳元で囁くような声が聞こえた。


「……私で童貞捨てたのに……。」


 その言葉に、一樹の思考が一瞬止まった。


「……は?」


 頭の中が真っ白になる。彼女の言葉の意味を理解したくない気持ちが先行し、彼は少し強引に海咲の身体を引き離した。


「……何かあったのか?」


 そう問い詰めるように言うと、海咲はふっと笑みを浮かべる。


「ふふっ……冗談です!」


 彼女の笑顔はいつもの柔らかさを持っていたが、一樹の胸には妙なざわつきが残る。笑っているはずのその瞳の奥に、一瞬だけ冷たさを感じたのだ。


「……書類、ちゃんと届けてくれたんですね。」


 海咲が鞄から封筒を取り出しながら言う。一樹はあっけに取られたまま答える。


「ああ……石原に渡したよ。」


「そうですか……。」


 海咲は少しだけ視線を落とし、呟いた。その声音には、ほんのわずかだが寂しさが滲んでいる。


「何かあるのか?」


 一樹が尋ねると、海咲は小さく首を振る。


「いえ、特に何もありません。」


 そう言いながら微笑む彼女の顔は、どこかいつもと違う。だが、その違和感を深く追求することが、なぜか一樹にはできなかった。


「ほら、じゃあ一緒に帰るぞ。」


 わざと明るく言うと、海咲は表情を一変させ、嬉しそうに返事をした。


「はい!」


 その笑顔を見て、一樹も自然と笑みを浮かべる。


 だが――。


(やっぱり、何かおかしい。)


 一樹の胸には小さな違和感が消えないまま残っていた。


 二人は並んで階段を降りる。夕焼けに染まる廊下を歩く中、海咲がふと立ち止まった。


「一樹君。」


「ん?」


「……石原さんと、何か話しましたか?」


 不意に問いかけられ、一樹は少しだけ戸惑った。


「いや、別に。書類渡しただけだよ。」


「そうですか。」


 海咲の返事は淡々としていたが、その声の温度が僅かに下がったのを一樹は感じた。


「どうかしたのか?」


「いえ、なんでもありませんよ。」


 海咲は笑顔を見せる。だが、その笑顔はどこかぎこちなかった。


 やっぱり、何かが違う――。


 一樹の胸には、もう一つのが芽生えていた。


 だが、それを言葉にすることはなかった。ただ歩き出す海咲の背中を追い、一樹も足を進める。


「ねえ、一樹君。」


「ん?」


一緒に帰れたら、いいですね。」


 ふと漏らしたその言葉に、一樹は返す言葉を探せなかった。ただ、隣を歩く彼女の横顔が、どこか儚く見えたのが印象的だった。





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