清楚系幼馴染に私で童貞捨てたくせにと言われた話。

いぬかい?

プロローグ

 放課後、教室の窓際に腰を下ろした辻一樹つじかずきは、ぼんやりと外を眺めていた。五月の風が窓を抜けて入り込み、若葉の匂いをほのかに運んでくる。その香りは、遠くで鳴く鳥のさえずりと混じり合い、陽に照らされたまだ乾ききらぬ机の木目の上に、ゆるやかな午後の気配を落としていた。


 クラスメイトたちは帰り支度を進め、教室には軽いざわめきが満ちていたが、一樹の耳にはどこか遠い出来事のようにしか届かない。机に肘をつき、気の抜けたため息を落とすと、胸の奥に沈んだ重さだけが、やけにくっきりと自己主張をしてくる。


「……何もする気が起きないな」


 いわゆる五月病という名の倦怠が、体の隅々にまで根を張ってしまったのかもしれない。やらなければならないことは山ほどある。それなのに、どういうわけか心も体も、ひとつの歯車として噛み合ってくれない。


 そんな惰性の午後を破るように――。


「やっぱりここにいましたね」


 軽やかな声が教室の入口から滑り込み、開いたドア越しに八代海咲やしろみさきが歩み寄ってくる。窓から射し込む光を受けて揺れる黒髪が、ふわりと甘い香りを残しながら、一樹の方へ影を伸ばした。


「……海咲か」


「『海咲か』じゃないですよ。一樹君、またおさぼりですか?」


 海咲は呆れたような、しかしどこか安心したような微笑を浮かべて、一樹の隣に静かに腰を下ろした。椅子がきしむわずかな音さえ、教室の空気に柔らかく溶けてゆく。


「別にダラけてるわけじゃない。ただ、何もしたくないだけ」


「それをサボりって言うんですよ」


 海咲はくすりと笑い、一樹の机に肘を預けたまま、覗き込むように顔を近づけてくる。その瞳には、春の終わりが惜しまれているかのような、微妙な光の揺らぎがあった。


「にしても、一樹君最近モテモテじゃないでしょうか」


「は?」


 唐突に差し込まれた話題に、一樹は眉を寄せる。


「この前なんて、石原さんと一緒に下校してましたよね?」


「ああ、たまたまだろ。駅の方向が同じだっただけだし」


「ふーん?」


 海咲の視線がまっすぐに向けられる。その頬杖をついた横顔に、不機嫌を装いながらも、どこか寂しげな影が差した。


「別に誰と帰ろうが自由だろ」


「それはそうですけど。でも――」


 海咲はふいに一樹の制服の袖を指先でつまむ。その仕草は何気ないはずなのに、小さな体温が布越しに伝わってきて、一樹は思わず息を詰めた。


「……一樹君、私のことちゃんと見てます?」


「は?」


「最近、私の扱いが雑な気がするんですよねー」


 海咲はわざとらしく頬をふくらませ、つまんだ袖をそっと離す。その軽さが、かえって一樹の心に引っかかる。


「だから今日は、一緒に帰ってほしいんです」


 一樹は肩をすくめ、小さく息を吐いた。


「なんだ、そんなことか」


「そんなこと、じゃないですよ」


 海咲は唇を尖らせ、ほんの少し間を置いて続けた。


「その前に、一つお願いがあります」


「……嫌な予感しかしない」


「先生に頼まれた書類を、生徒会室に届けてほしいんです。私、ちょっと忙しくて」


「結局、こっちに面倒ごとを押し付けるのかよ」


 文句を言いながらも頷く一樹。そのとき、海咲はまるで悪戯の仕上げを思いついた子どものように、声の調子をさらりと変えた。


「ふーん。一樹君って、私で童貞捨てたくせに冷たいですよね」


「ぶっ!!」


 一樹は勢いよくむせた。肺が驚いて跳ね返ったような音が漏れる。


「……はあああ!?!?」


 突然の爆弾発言に硬直した一樹を前に、海咲は肩をすくめ、笑いを噛み殺すようにして続ける。


「冗談ですよ、冗談」


「お、お前な……! 変なこと言うな!!」


「そんなに動揺するなんて、もしかして……」


 海咲はにやりと笑い、一樹の顔を覗き込む。その目はどこまでも悪戯好きで、しかしその裏に、彼だけが知らされていない海咲の気持ちが、ほんのわずか潜んでいるようにも見えた。


「ま、そんな可愛い反応してる時点で、まだまだですね♪」


 いたたまれなくなった一樹は、勢いよく立ち上がった。


「もういい! 生徒会室に行ってくる!」


「はーい、頑張ってくださいね♪」


 海咲は軽やかに手を振る。その笑顔には、からかいと親しみと、どこか名残惜しさがゆるく溶け合っていた。

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